第20章 プロ根性
サルマが頂き物を貸家へ置きに戻っている間、私は公園の長椅子でノルを抱いて待っていた。
ほんの少し前まで、子供の姿をしたノルの手を握り、サルマと三人で歩いていた。
その感触を思い出していると、幼い頃、父と母に両手を引かれ、魔王城の薬草庭園を歩いた記憶が蘇ってきた。
幸せだった。
早く帰りたい。
土地の魔力が薄いせいもあるのだろう。
故郷を思う気持ちが、日に日に強くなっている。
腕の中のノルを少し強く抱き締める。
ノルは何も言わず、私の腕へ顔を押しつけた。
*
サルマが戻り、三人で競馬場へ向かった。
今日は、人族の娯楽施設を視察する。
馬を走らせて順位を決め、一着になる馬へ金銭を賭ける。
当たれば配当が戻り、時には賭けた金銭の何倍にもなるらしい。
ミノルバから説明を聞いたが、そもそも魔族領には賭け事という娯楽がない。
何が楽しいのか、さっぱり分からなかった。
土地の魔力が足りず、頭が回らないせいもあるのだろうか。
「まあ、取りあえず行ってみるとよいじゃろ」
ミノルバにはそう言われた。
実際に競馬を見ながら、サルマに仕組みを説明してもらうことになっている。
人族を観察するには、もってこいの場所らしい。
ノルによると、以前市場で見た、小箱の印付きを選ぶ露店も賭け事なのだという。
しかし、あれの何が楽しいのかも分からなかった。
ノル自身、前の世界では賭け事をしなかったらしい。
私へ分かりやすく説明できるほど詳しくないと言っている。
ただ一つ、気になった話があった。
賭け事へ夢中になりすぎて、身を滅ぼす者がいるという。
仕事もせず、他人から金銭を借りてまで続け、信用を失い、社会から排除される。
前の世界では病気として扱われ、治療を受ける者までいたらしい。
賭け事とは、なんと恐ろしいのだろう。
そのような危険な娯楽を野放しにしている人族の国は、やはり私たち魔族とは相容れないのかもしれない。
*
サルマも競馬場へ来るのは初めてらしい。
それなのに目を輝かせ、上気した顔で辺りを見回しながら、私たちを入場口まで先導している。
どうして説明できるのか聞くと、以前、ミノルバの知り合いが船長を務める定期船で見習いをしていた頃、競馬好きの船員から教わったそうだ。
入場口では、代表者としてサルマの身分証を提示した。
この国では、身分によって入る場所が違う。
上級貴族。
下級貴族。
上級平民。
中級平民。
下級平民。
下人。
一番位の高い代表者と同じ場所へ、連れの者も入れるらしい。
風読みは中級平民。
兵士や役人、予備兵役の者、人を束ねる立場の者などと同じだという。
下級平民は労働者、芸人、個人で商売をする者。
下人は無職の者や奴隷、敗戦国の出身者。
上級平民は位の高い役人や兵士、多くの税を納める事業主、芸術家や音楽家などだ。
獣人は下人として扱われる。
しかし、下人の客席で見かけることは少なく、上級貴族の客席で深くフードを被っていることが多いらしい。
なぜ、これほど細かく分ける必要があるのだろう。
サルマへ聞いてみたが、サルマにも分からないという。
「王国の決まりだから。生まれた時から、こういうものだと思っていたの」
今まで、あまり疑問を持ったことがなかったらしい。
『位が上の者へ、優越感を持たせるためじゃない?』
ノルが小さく呟いた。
『上へ行くために働いて、たくさん税金を納める。疑問を持たせないように優越感を与えて、自分も誰かに使われていることへ気づかせない』
ノルらしい答えだ。
*
人混みは嫌いだ。
歩きづらい。
もっと小さな猫なら、人の脚の間をすり抜けられるのだろう。
しかし、俺はでかすぎる。
もたもたしていると、クワンリが抱き上げてくれた。
「ノルよ。子供の姿より重たくないか? 腕からすり抜けてしまいそうなのだが」
『身体の力を抜いているからでしょ。力を入れたら、余計に抱きづらいと思って』
「しかし、持ちづらい」
物みたいに言うな。
『じゃあ、力を入れてみる?』
前足へ力を入れ、爪を立ててしがみつく。
「痛い! 爪を立てるものではない! やはり抱きづらい。力を抜いてよいぞ」
『でしょ』
観覧席へ着くと、ようやく落ち着いた。
抱いて運んでくれた礼に、クワンリの脛と足の甲へ身体を擦りつける。
サルマは飲み物と食べ物、それに競馬新聞のような紙を持ってきた。
賭ける仕組みや、馬の選び方をクワンリへ説明し始める。
『俺は、走る前の馬を見たい』
「さすがノルさん。準備場で馬を見るのは、とてもよい考えです」
褒められた。
馬と思念で話せば、勝つ馬が分かると思っただけなのだが。
*
五つのレースが終わり、そのうち三つを当てた。
外したレースも、予想はかなり近かった。
馬たちへ直接話を聞くのは、なかなかよい考えだったと思う。
今のところ、元の金銭の三倍近くに増えている。
最終レースの馬へ聞き取りに行く。
その中に、今日で引退する馬がいた。
かつては負け知らずといわれたベテランだが、最近は勝てなくなっているらしい。
周りの若い馬たちからは、もう終わった馬だとからかわれていた。
それでも、今日が最後だからこそ、意気込みが違った。
俺は、個人的に応援したくなった。
そのベテランと長く一緒に走ってきた馬が、俺の隣へ来た。
『俺たちは、競走馬として生まれ、育てられた。そのことへ感謝して、レースでは全力で走る』
静かな声だった。
『走ることが喜びだ。あいつは、引退などしたくないだろう』
ベテランを見つめる。
『今日は勝つ。いや、勝ってほしい』
俺は三番のベテランへ、今日の小遣いをすべて賭けることにした。
最終レースの馬たちが、出走門へ集まってくる。
若い馬は、騎手を落としそうなほど興奮していた。
『若いな。レースで勝っても、騎手を選ぶ馬などプロではない』
先ほどの馬が、俺を背中へ乗せながら呟いた。
男前な馬だ。
準備が整った。
合図と同時に、門が一斉に開く。
土煙を巻き上げ、十頭の馬が走り出した。
この世界の競馬は、楕円形のコースではない。
会場の直線以外は、街の郊外にある、普段は一般の道として使われている場所を走る。
前世のマン島のレースみたいだ。
一周三分ほどのコースを、三周する。
猫の俺では見づらいだろうと、馬がレース中も背中へ乗せてくれている。
おかげで、人間たちよりよく見えた。
二周目まで、三番のベテランは中ほどを走っていた。
背中の馬によると、最後の直線で一気に追い抜く走り方らしい。
それで観客にも人気があったのだという。
最終の曲がり角を抜け、十頭の馬が土煙と共に直線へ入ってきた。
三番は四番手付近にいる。
そこから外側へ出た。
一頭。
二頭。
三頭。
あっという間に先頭へ出る。
二番手を大きく引き離し、ゴールした。
俺の小遣いが五倍になった瞬間だ。
だが、三番の様子がおかしい。
足取りがふらついている。
首を振り、鼻息を荒くしながら、脚をもつれさせている。
騎手が降り、たてがみを一度撫でた。
騎手が離れた直後、三番はその場へ倒れ込んだ。
全身が痙攣している。
苦しそうだ。
やがて、動かなくなった。
俺を背中へ乗せている馬が、感嘆するように息を吐いた。
『俺たち競走馬は、走り、勝つために生まれ、愛され、育てられてきた』
倒れた仲間を真っ直ぐ見ている。
『引退レースで勝った。騎手を最後まで落とさず、降りて離れるまで持ち堪えた。あいつにとっては、本望だろう』
少し間を置き、続けた。
『俺も、あのような逝き方に憧れる』
その言葉をクワンリとサルマへ伝えた。
二人とも涙を浮かべながら、笑顔で頷いている。
泣き笑いは、二人とも不細工だな。
でも、よい顔だ。
前世で読んだ本を思い出した。
僧侶が人の相談へ答える内容だった。
人は、なぜ生まれてきたのか。
理由や役割はあるのか。
その問いへ、僧侶はこう答えていた。
人は、死を迎えるために生まれてきた。
生まれた理由や役割などない。
どう生き、どう死ぬかは、その者次第だ。
僧侶は、大根を例にしていた。
大根が意思を持ち、いつも人間に食べられてばかりだと怒り、食べられないために辛くなったり、毒を持ったりしたらどうなるか。
人間は、その大根を作らなくなる。
食べられることはなくなるが、種も残らない。
しかし、芽の頃から大事に育てられ、水も肥料も与えられ、立派な大根になったことへ感謝し、美味しく育ったらどうなるか。
この大根は一番だと、たくさん作られる。
やがて評判が広まり、種はあちこちへ運ばれ、子孫を残すことができる。
それが、生き物としての勝利なのだという。
自分が幸せになりたいのなら、まず自分の周りにいる者を幸せにすることだ。
そんな哲学者の言葉も思い出した。
俺も、そのように生きたい。
そのように逝きたい。
倒れた競走馬へ、心の中で静かに手を合わせた。




