第10章 月が綺麗ですね
街の西門を出て、左手に外郭山脈を眺めながら、俺たちは穀倉地帯をのんびり進んでいた。
見渡す限りの小麦が風に揺れ、金色の波が地平線まで続いている。
(小麦畑が、まるで海みたいだな)
『本物の海も、早く見てみたいものだ』
御者台のクワンリが、子供のように目を輝かせた。
魔族領には大きな湖がいくつもあり、魚介の種類も量も豊富なのだそうだ。淡水の魚と海の魚では、味も風味も違うと教えてやると、クワンリは感心したように頷いた。
『私は、お前と出会えて良かった』
また、こいつはこういうことを平然と言う。
何と返せばいいか分からず黙っていると、頭を鷲掴みにされ、ぐしゃぐしゃに撫でられた。
俺たちの鹿車は、前世の軽トラックを一回り小さくしたような大きさだった。
御者台の後ろには丈夫な幌が架かり、前に一輪、後ろに二輪の三輪式。荷台には野営道具、水の樽、携行食を詰めた木箱が並んでいる。燻製肉と魚の干物も、もちろん積んである。
棚を兼ねた机と椅子は、クワンリの調剤場所だ。
港町カイゼルまでは、およそ二週間。
斡旋所で買った旅の案内書には、水場や休息に向いた場所まで記されていた。最初の村までは三日ほど野営が続くが、これがあれば迷うこともないだろう。
情報は大事だ。
特に、御者がクワンリの場合は。
雨季の合間に覗いた青空の下、風に吹かれながら鹿車に揺られるのは、とても気持ちが良かった。
*
その夜、俺たちは山の麓にある森で野営をしていた。
材木を伐る者たちが使う石造りの休憩小屋を見つけたので、テントを張らずに済んだ。周囲には薪も大量に積まれている。雨上がりに乾いた小屋で眠れ、盛大な焚き火まで楽しめる。
実にありがたい。
ちょっと昼寝をしている間に、海へ向かっていたはずの俺たちが、なぜ山の麓にいるのかという一点を除けば。
案内書を開いてみたが、正しい道にこんな小屋は載っていなかった。どうやらクワンリは、途中から伐採用の道へ入ってしまったらしい。
この先の道は、さらに山へ向かっている。
クワンリさん。またやらかしましたね。
遭難するほどの場所ではないし、急ぐ旅でもない。
俺は諦めて、この状況を楽しむことにした。
クワンリは切り株に腰かけ、焚き火を眺めながら魔草をふかしている。
遠火で焼いていた干物から脂が落ち、炎の上で小さく弾けた。クワンリが焼けた身を細かくほぐし、俺の器へ入れてくれる。
本人は、残った干物へそのまま齧りついた。
俺は猫舌なので、十分に冷ましてから食べ始める。
美味い。
さっきミルク粥を食べたので、これは夜食だ。
薪がたくさんあるから、遠火で時間をかけて焼けた。いつもの硬い干物が、今日は驚くほどふっくらしている。
火の通し方で、こんなにも変わるのか。
料理は奥が深い。
雨上がりで空気が澄み、満月の輪郭まではっきり見える。
二人で空を眺めていると、クワンリが魔族の始まりについて話し始めた。
俺はクワンリの足の甲に顎を乗せ、話を聞いた。
『この星はロン。あの月は、ラナと呼ばれている』
ロンに、ラナ。
なんとなくフランス語っぽい。そういえば、ノルという名前も少しそんな感じがする。
『ノル。視力を強化して、ラナをよく見てみろ』
言われた通りに第三の目を意識すると、月の表面が急に近づいた。クレーターの凹凸まで見える。
そして、妙なことに気がついた。
(……あれ? 丸くない)
時計でいう十時の辺りが、ごく僅かに欠けている。視力を強化しなければ分からないほど小さいが、確かに形が歪んでいた。
魔族は、もともとラナに住んでいたのだとクワンリは言った。
今から三万年ほど前、魔族はラナの地下に高度な都市を築いて暮らしていた。しかし、社会が保守派と革新派に分かれ、長い戦いが始まった。
争いを終わらせるために使った最終兵器は、敵だけでなく、自分たちの住む星まで壊した。
生き残った魔族は巨大な船でラナを離れ、ロンへ逃れた。砕けたラナの欠片は隕石となってロンへ降り注ぎ、大地に巨大な穴を穿った。
魔族の船は、その中心へ降りた。
『ラナは、巨大な魔性石のような星だったのだ。私たち魔族は、魔力の薄い土地では長く生きられん。だから祖先は、ラナの欠片が最も多く降った場所に地下都市を築いた』
魔族が地上に現れず、外郭山脈の内側で暮らしてきた理由。
人族の土地でクワンリが体調を崩す理由。
各地で採れる魔性石の由来。
すべてが一つにつながっている。
そして、一度自分たちの故郷を壊した魔族は、争わず、互いの縄張りを尊重することを選んだ。
にわかには信じがたい話だ。
宇宙船で月から逃げてきた魔族など、前世なら安っぽいSF映画の設定だと思っただろう。
だが、目の前の月は本当に欠けている。
クワンリは魔草の煙を吐きながら、細い目でラナを見上げていた。
故郷を懐かしんでいるようにも見える。
俺は、前世で有名だった言葉を思い出した。
(……クワンリ。今宵はラナが、とても綺麗ですね)
夏目漱石など知らないクワンリは、月を見上げたまま答えた。
『そうだな。今夜は本当に綺麗だ』
それでいい。
俺も黙って、同じ月を見上げた。
*
翌朝、目を覚ますと、小屋の周りに複数の気配があった。
俺はクワンリの頬を前足で叩いた。
起きない。
仕方がないので、腹の上へ軽く飛び乗った。
『ぐえっ……。ノルよ、もう少し優しく起こしてはくれないだろうか』
(それどころじゃない。小屋が何かに囲まれてる)
床下へ潜り、通気口から外を覗いた。
布をまとった猿のような者が五人、小屋の周りを歩いている。
クワンリによれば、獣人の若者たちらしい。
獣人といえば、猫耳や犬耳の可愛い女の子が出てくるものだと思っていた。
猿じゃないか。
俺の異世界への期待が、また一つ打ち砕かれた。
『獣人は好戦的な種族ではない。それに、昨夜張った結界が破られていないから、こちらを害するつもりもないだろう。話を聞いてやってはどうだ?』
早く言ってください。
クワンリが出ていくより、獣落ちした俺の方が警戒されにくいらしい。
仕方がない。
俺の交渉人としての実力を見せてやろう。
外へ出て話を聞くと、彼らは人族の農場へ働きに行きたいのだという。
この辺りへ来る人族は、普段なら獣人を迎えに来る奴隷商人ぐらいしかいない。俺たちが見慣れない相手だったため、様子を窺っていたらしい。
自分から奴隷になりたいとは、どういうことなのか。
話を聞くうちに、事情が見えてきた。
獣人たちは山を移動しながら、狩猟と採取で暮らしてきた。しかし人族による森林の伐採や魔性石の採掘が広がり、食料を得ることが難しくなっている。
そこへ獣人の言葉を話す奴隷商人が現れた。
人族の農場で働けば、食事と寝床、安全な暮らしを与える。
その申し出を受け、若者たちが山を下りるようになった。
先に農場へ行った者は、時々集落へ帰ってくる。給金で買った魔術具を家族へ渡し、人族の食べ物や文化を持ち帰る。
獣人たちの暮らしは便利になった。
だから若者にとって、奴隷として農場へ行くことは、憧れに近いものになっている。
(……金の卵か)
前世の日本にも、地方から都会へ集団で働きに出た時代があった。
ただし、獣人たちは『奴隷』という言葉の意味を、十分には分かっていない。
住む場所と食べ物を与えられる代わりに、どれほど自由を失うのか。仕事を辞められるのか。給金は正当に払われるのか。病気になった時、故郷へ帰ることができるのか。
若者たちは、誰も答えられなかった。
森を切り、獣人の暮らしを難しくした人族が、今度は彼らへ仕事を与える。
仕組まれたことなのか、別々の人間がそれぞれ利益を求めた結果なのかは分からない。
だが、出来上がった流れは都合が良すぎる。
人族の文化を知れば、もっと便利な道具が欲しくなる。その道具を買うために、また農場へ働きに出る。
それでも獣人たちは、以前より豊かになったと喜んでいる。
だからこそ、簡単に止めることもできない。
今ここで、奴隷になるなと俺が命じたところで、彼らの食べ物が増えるわけではない。人族との関わりを断てば、山での苦しい暮らしへ戻るだけかもしれない。
鬼人の時のように、魔族領へ送れば済む話でもない。
彼らは逃げたいのではなく、自分の意思で人族の暮らしへ向かおうとしているのだ。
俺は、農場へ着いたら事情を伝えておくと約束し、彼らには一度集落へ戻ってもらった。
本当は、何を伝えればいいのかも分からない。
悔しいが、今の俺には何もしてやれなかった。
獣人たちの背中が森へ消えるまで、まともに顔を見ることができなかった。
元人族だったことを、少し恥ずかしいと思った。
俯いていると、クワンリが俺の首の後ろを撫でた。
俺は礼のニャーをして、足元へ頬を擦りつけた。それでも落ち着かず、膝の上へ乗り、顎の下を撫でてもらった。
『……ノルよ。人族とは、ずいぶん複雑な仕組みを作るのだな』
顔を上げると、クワンリは泣いていた。
こいつも、分かっていた。
正義感の強いクワンリにとって、悪者を一人見つけて叱れば済む話ではないことの方が、よほど辛いのかもしれない。
俺は後ろ足で立ち、クワンリの鼻先を舐めた。
そのまま強く抱きしめられた。
苦しい。
でも、少し落ち着いた。




