部屋へ 出てくるもの
「あー。そこで突っ立ってたら――」
のんびりした警告が聞こえた時には、画面の中で僕の操作キャラが敵の攻撃に吹き飛ばされて戦線を離脱していた。
「……あ……すみません」
「この距離的に蘇生は難しいなぁ。ちょっと待ってて。パパっと倒しちゃうから」
ソロ撃破の難しいボスを「パパっと倒す」と言い放つが早いか、義兄の指がすさまじい勢いで動き出す。かと思えば、言葉通り迅速にボスの行動を追い詰め、倒しきってしまった。
リザルト画面を確認した後、ひょい、とコントローラーを傍らに置いた義兄は、今度は肩をすくめて僕に詰め寄ってくる。
「もー、はるちゃんってばぼーっとしすぎ」
「……すみません」
義兄が遊んでいるゲームというのが超難易度であるということもあるが、僕の頭の中はトイレで見かけたあの「黒い人影」でいっぱいになっていた。
ゆらゆら揺れる、黒い「シミ」。
あの動きは、人間にできる動きではなかった。
そう、その姿はまさに。
「……『くろいくねくね』」
「あ、まださっきのが気になってる感じだね?」
非難する声にはっと我に返る。しまった。義兄には「見ない、聞かない、知ろうとしない」と言われていたのに。
「なんか……やっぱり気になっちゃって」
「はるちゃんってそういうとこあるよね。好奇心は猫をも殺すって言葉、君のためにあるような言葉だよ、ホント」
手に取った缶チューハイをあおって飲み切ってしまうと、義兄は空になった僕のコップも含めてシンクへもっていく。
「ちょっと待ってな。コップ洗っちゃうから」
「ありがとうございます」
水の流れる音を聞きながら、僕はぼうっとゲームのリザルト画面を眺めた。僕のスコアと天と地ほどの差がある義兄のスコア。ゲームでも現実でも、なんだか僕は義兄におんぶに抱っこな気がする。
「はい、コップ洗ったよ。次は歯磨き」
「待ってろって、一緒に歯磨きするためですか?」
「そだよ?」
「……なんで」
「んー、怖くないように?」
ますますおんぶに抱っこな気がする!
「歯磨きくらい一人でできます!」
「やーだ。俺が怖いから一緒にやるの」
そういって僕を立たせて、急き立てるように洗面所へ向かう。
ちがう。これは絶対、僕が怖くないようにだ。やっぱり子ども扱いされている気がする。ただ、あの黒い人影をもう一度見るのは、さすがに抵抗があった。
「……義兄さん」
「なーに?」
「……ありがとうございます」
「どーいたしまして?」
男二人、洗面所で並んで歯を磨く。はたから見るととてつもなくバカっぽい光景だが、少なくとも鏡の向こうにいる人影が義兄であると確信できるだけでもありがたかった。
歯磨きを終えて、階段を上がる。僕のあてがってもらった部屋も義兄のベッドルームも二階だ。
「じゃあ、おやすみなさい、義兄さん」
「うん、ゆっくりお休みね」
ベッドルームに消えていく義兄を見送って、階段と廊下の電気を消してから僕も部屋に入る。
明日はもう少し「くろいくねくね」について調べて、安全性を担保できるなら、その範囲で記事にして――。
そんなことを考えながら、一旦部屋の明かりをつけて、それからデスク横のランプもつけようと顔を上げる。
そして――見た。
本棚の影に、ゆらゆらと揺れる黒い「それ」を。
ひゅ、と音が聞こえた。僕ののどの音だと気づいたのは、ちょっと経ってからだった。
(嘘だろ、なんで)
ここは僕の部屋だ。
なのに、なぜ「ここ」にいる。
本棚と壁の間に人が入れる空間はない。
けれど確かにそこに、「それ」はいた。
そして、部屋の中に「出てこようと」していた。
(まずい)
さっき聞こえてきた警鐘が、もっと大きく響き渡る。
(出なきゃ、部屋を)
あれと目を合わせてはいけない。
あれを「理解しては」いけない。
あれを――。
「はるちゃん、シーツ洗濯出すの忘れてた。ちょっと手伝ってくんない?」
義兄の声とともにドアが開いて、消したはずの廊下の灯りがこうこうと入り込む。
後ろへ下がろうとしていた僕は、そのまま勢い余ってしりもちをついた。
無言で見上げた先に、逆さに義兄の顔があった。
「――だから言ったでしょ、怖いものは、見ない、聞かない、知ろうとしない、って」
義兄の瞳は、怒っているような、呆れているような。それでいて、どこか悲しそうな、心配そうな、不思議な色をしていた。




