第8話 最後の通告
第8話 最後の通告
店を出る頃には、夜風がさらに冷たくなっていた。
昼間の熱気が嘘みたいに消え、街には静かな秋の匂いが混じり始めている。
望は駅前の明かりをぼんやり見つめた。
さっきまで胸の奥で燃えていた感情が、今は妙に静かだった。
怒鳴ったわけじゃない。
泣き喚いたわけでもない。
ただ、ずっと飲み込んできたものを、ようやく外へ出しただけだった。
「望」
拓也が後ろから声をかける。
その声は、いつもより弱かった。
玲奈も和子も、少し離れた場所で気まずそうに立っている。
望は振り返らなかった。
「……帰ろうか」
拓也が小さく言う。
四人は無言のまま駅へ向かった。
さっきまで賑やかだった玲奈も、もう何も喋らない。
ヒールの音だけが、乾いた夜道に響いていた。
電車の中も静かだった。
窓に映る自分の顔を見る。
ネイビーのワンピース。
少し崩れた髪。
疲れた目。
でも不思議だった。
今までずっと重かった胸が、少しだけ軽い。
マンションへ着く頃には、夜十一時を回っていた。
玄関のドアを開ける。
いつもの匂い。
柔軟剤の香り。
少し冷えた部屋の空気。
望は無言でヒールを脱いだ。
「お茶、入れるね」
習慣みたいにそう言ってしまう。
その瞬間、拓也が言った。
「待って」
望が振り返る。
拓也はスーツの上着を脱ぐこともせず、立ち尽くしていた。
「……ごめん」
深く頭を下げる。
望は目を見開いた。
拓也がこんなふうに頭を下げるのを、初めて見た。
「俺、本当に分かってなかった」
掠れた声だった。
「望が毎日どんなことしてたか、全然見えてなかった」
望は何も言わない。
拓也は続ける。
「俺、働いて疲れてるって、そればっかりで……」
「家に帰ればご飯があって、洗濯されてて、それが当たり前になってた」
その声には、ようやく本物の後悔が滲んでいた。
望はゆっくり息を吐く。
「……褒めてほしかったわけじゃないの」
静かな声だった。
「でも」
喉が少し震える。
「何もしてない人みたいに扱われるのは、もう限界だった」
拓也が顔を上げる。
その目は赤かった。
「ごめん……本当に、ごめん」
望はキッチンへ向かった。
やかんに水を入れる。
蛇口の水音が静かな部屋に響いた。
火をつけると、小さな青い炎が揺れる。
その背中に向かって、拓也が言った。
「どうしたらいい?」
望の手が止まる。
今までなら、「別にいいよ」と笑って終わらせていた。
でも、今日は違った。
望は振り返る。
「条件がある」
拓也が息を呑む。
望はテーブルへ向かい、ゆっくり椅子へ座った。
拓也も向かいに座る。
部屋には冷蔵庫の低い音だけが流れていた。
「まず、家計はちゃんと共有する」
「……うん」
「何にいくら使ってるのか、一緒に見る」
「分かった」
「あと、お義母さんの通院」
望は続ける。
「私一人でやらない」
拓也が目を伏せる。
「玲奈さんも、拓也も、動ける人で分担して」
「……うん」
「それから」
望はまっすぐ拓也を見た。
「“専業だから当然”っていう考え方、やめてほしい」
静かな沈黙が落ちる。
拓也は何も言えなかった。
きっと、自分が何度もそう思っていたことに気づいたのだろう。
「俺……」
拓也が苦しそうに眉を寄せる。
「望に甘えてた」
やかんが小さく鳴り始めた。
望は立ち上がり、急須に茶葉を入れる。
湯を注ぐと、ふわりと温かな香りが広がった。
その匂いに、少しだけ張り詰めていた気持ちが緩む。
拓也がぽつりと言った。
「望、離婚とか……考えた?」
望は湯呑みを置く手を止めた。
少しだけ考える。
「……考えたことはある」
拓也の顔が青ざめた。
「でも、まだ分かんない」
「望」
「ただ」
望は静かに言った。
「私はもう、“我慢する側”には戻らない」
その言葉は、自分自身へ向けた宣言でもあった。
ずっと笑ってきた。
空気を悪くしないように。
家族だからって。
でも、そのたびに自分の心を削っていた。
もう終わりにしたかった。
拓也は深く頭を下げる。
「変わる」
「ちゃんと見る」
「望に任せきりにしない」
望はその姿を見つめた。
信じたい気持ちは、まだ残っている。
でも簡単には戻れない。
積み重なったものは、それほど軽くなかった。
その時、スマホが震えた。
玲奈からだった。
拓也が画面を見る。
『今日はごめん』
短い一文。
いつもみたいな軽い絵文字はなかった。
望は小さく目を伏せる。
窓の外では、遠くを走る終電の音が聞こえた。
静かな夜だった。
けれど望の中では、何かが確かに変わり始めていた。
初めてだった。
自分の気持ちを飲み込まずに、ちゃんと口にできたのは。
湯呑みから立ち上る温かな湯気を見つめながら、望は静かに思う。
これからは、自分を後回しにしない。
誰かのためだけに、自分を削ったりしない。
その小さな決意が、胸の奥で静かに灯っていた。




