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第7話 数字が語る真実

第7話 数字が語る真実


 店へ戻った時、個室の空気はさっきまでとまるで違っていた。


 料理はまだテーブルに並んでいる。


 炊き込みご飯の湯気。

 焼き魚の香ばしい匂い。

 吸い物から立ち上る柚子の香り。


 けれど誰も箸を動かしていなかった。


 望は静かに席へ座る。


 玲奈は気まずそうにワイングラスを弄り、和子は不安げに二人を見比べている。


「どうしたの?」


 和子が小さな声で尋ねた。


 拓也は答えなかった。


 ただ、スマホを見つめていた。


 画面の明かりが、青白く顔を照らしている。


 その指先は微かに震えていた。


 望は何も言わない。


 もう説明する気力もなかった。


 ただ、見れば分かると思った。


 自分がどんな毎日を過ごしていたのか。


 どれだけ小さなことを積み重ねていたのか。


 拓也の指がゆっくり画面をスクロールする。


『終電逃し タクシー代 八四〇〇円』


『ワイシャツクリーニング』


『義母通院付き添い交通費』


『義母用サポーター購入』


『特売日調整 食費マイナス三〇〇〇円』


 拓也の喉が、ごくりと動いた。


「……これ、全部」


「毎日つけてた」


 望が静かに答える。


 玲奈が口を開いた。


「そんな細かく記録してたの……?」


「細かくしないと回らないから」


 望は俯いたまま言った。


「拓也のお給料だけで、ちゃんと貯金もしたかったし」


 拓也はさらに画面を下へ送る。


『玲奈さん用 手土産』


 その文字を見た瞬間、玲奈の顔色が変わった。


「え……」


「玲奈さん、前にあそこのフィナンシェ好きって言ってたから」


 望は淡々と続ける。


「でも少し高かったから、その週はお肉減らした」


 玲奈が言葉を失う。


 店内には、遠くで食器の触れ合う音だけが響いていた。


 拓也は無言のまま画面を見つめ続ける。


 スクロールするたびに、自分が知らなかった望の毎日が現れる。


『義母誕生日積立 一〇〇〇円』


『拓也 風邪用スポーツドリンク』


『拓也 営業靴修理』


『節約のため弁当用作り置き』


 その全部が、自分の知らない場所で積み重なっていた。


 望は毎日、自分たちの生活を支えていたのだ。


 当たり前みたいに。


 文句も言わず。


「俺……」


 拓也の声が掠れる。


「全然、分かってなかった……」


 望は顔を上げなかった。


 その言葉を、ずっと待っていた気もする。


 でも今さら言われても、胸の奥はもう冷え切っていた。


「望さん……」


 玲奈が小さく呟く。


 いつもの強気な声ではなかった。


「私、そんなつもりじゃ……」


「分かってる」


 望は静かに言った。


「悪気ないんだよね」


 玲奈が息を呑む。


 それは、拓也が何度も言っていた言葉だった。


 悪気はない。

 冗談。

 気にしすぎ。


 でも。


 悪気のない言葉は、少しずつ人を削っていく。


 和子が震える声で言った。


「望ちゃん……あなた、こんなに……」


「お義母さんが困らないようにしたかっただけです」


「でも、何も言わなかったじゃない」


「言っても、きっと伝わらないと思ったから」


 その瞬間、拓也が顔を上げた。


 目が赤くなっている。


「なんで言わなかったんだよ……」


 望は苦笑した。


「言ったよ」


「え……」


「疲れたって」

「大変だって」

「少し手伝ってって」


 拓也の顔が固まる。


 望はゆっくり続けた。


「でも拓也、いつも“悪気ないから”って笑ってた」


 思い出す。


 熱を出した日も、洗濯物を干していた。


 義母の通院帰り、荷物を抱えたままスーパーへ寄った日もある。


 それでも、自分は“家にいる人”だった。


「私ね」


 望の声が少し震えた。


「家族だから、分かってくれるって思ってた」


 テーブルの上の料理は、もう冷め始めていた。


 せっかく減塩でお願いした吸い物も、表面に薄い膜が張っている。


 和子がぽつりと言う。


「望ちゃん、ごめんなさい……」


「お義母さんは悪くないです」


「でも私、全部甘えてた」


 和子の目に涙が滲む。


 玲奈は俯いたまま動かない。


 真っ赤だった唇が、少し青ざめて見えた。


「私……そんな風に考えたことなかった」


「うん」


「専業主婦だから、時間あるんだって……」


「うん」


「でも、違ったんだね」


 玲奈の声は小さかった。


 望は何も答えなかった。


 今さら責めたいわけじゃない。


 ただ、知ってほしかった。


 見えないだけで、

 自分も毎日必死だったことを。


 拓也が突然立ち上がる。


 椅子が大きな音を立てた。


「望」


「……なに」


「ごめん」


 その声は震えていた。


「俺、本当に分かってなかった」


 望は夫を見上げる。


 初めてだった。


 拓也がこんな顔をするのを見るのは。


 いつもどこか他人事みたいだった夫が、初めて痛そうな顔をしている。


 でも。


 望の胸は、不思議なくらい静かだった。


 怒りも涙も、もう通り過ぎた後だった。


 ただ、長い間積もっていた雪が、ようやく崩れ落ちたみたいに疲れていた。


 窓の外では、夜の街の灯りが静かに瞬いている。


 店員が気を遣うように、そっと新しいお茶を置いていった。


 湯気が細く立ち上る。


 誰も、すぐには口を開けなかった。


 その沈黙だけが、今まで見えなかったものの重さを物語っていた。



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