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第6話 沈黙を破る家計簿

第6話 沈黙を破る家計簿


 店の外へ出ると、夜風が頬を撫でた。


 昼間の暑さが嘘みたいに空気は冷えていて、道路脇の街路樹がさらさらと揺れている。


 望は小さく息を吐いた。


 胸の奥が重い。


 和子の誕生日会は終わったはずなのに、まるで長い何かに押し潰されたみたいだった。


「望、駅まで歩ける?」


 拓也が背後から声をかける。


「うん」


 望は微笑もうとしたが、上手くできなかった。


 玲奈はヒールを鳴らしながら先を歩いている。スマホを片手に、誰かと笑いながら通話していた。


「ほんと今日疲れたー」


 その声だけが夜道に響く。


 望は花束の包み紙を抱え直した。


 白いトルコキキョウは少しだけ萎れ始めている。


 駅へ向かう途中、玲奈が振り返った。


「そういえばさ」


「ん?」


 拓也が返事をする。


「この前言ってたロボット掃除機、マジおすすめだよ」


「あー、あれ?」


「そうそう。もう家事とか時短しないと無理」


 玲奈は笑った。


「まぁ望さんは時間あるから、別にいらないか」


 望の足が止まりかける。


 けれど玲奈は気づかない。


「私なんて仕事して帰って家事してだもん。ほんと毎日戦争」


「玲奈、頑張ってるよな」


 拓也が苦笑する。


「でしょ?」


「望も見習わないと」


 玲奈は冗談みたいに笑った。


 その瞬間だった。


 胸の奥で、何かがぷつりと切れる音がした。


 静かだった。


 でも確かに切れた。


 望は立ち止まる。


「……もう、やめよう」


 玲奈が振り返る。


「え?」


 拓也も驚いた顔をした。


「望?」


 夜風が吹く。


 駅前のネオンが滲んで見えた。


 望はゆっくり顔を上げる。


 自分でも驚くほど声は静かだった。


「もう、そういうのやめて」


「何それ」


 玲奈が眉をひそめる。


「冗談じゃん」


「玲奈も悪気があったわけじゃ……」


 拓也が慌てたように口を挟む。


 その言葉だった。


 また、それ。


 悪気はない。


 悪気がなければ、人は傷つけてもいいのだろうか。


 望は拓也を見た。


 何年も一緒にいた夫。


 優しいと思っていた人。


 でも、この人は一度も、自分が何に傷ついているのか理解しようとしなかった。


「悪気がないなら、何を言ってもいいの?」


 拓也が黙る。


 玲奈は不機嫌そうに腕を組んだ。


「ちょっと大げさじゃない?」


「大げさ……?」


 望は小さく笑った。


 でもその笑顔は、自分でも怖いくらい冷えていた。


「私、ずっと我慢してた」


「望……」


「専業主婦だから時間あるよねって」

「稼いでないって」

「いなくてもどうにでもなるって」


 声が震える。


 けれど、もう止められなかった。


「私、何もしてなかった?」


 玲奈が目を逸らす。


「そんな意味じゃ」


「じゃあ、どういう意味?」


 沈黙が落ちた。


 駅前を行き交う人たちの笑い声だけが遠く聞こえる。


 望はゆっくり拓也へ手を伸ばした。


「スマホ、貸して」


「え?」


「いいから」


 拓也は戸惑いながらスマホを差し出す。


 望は慣れた手つきで画面を開いた。


 そして、奥に埋もれていたアプリを起動する。


「……これ」


「何?」


「共有家計簿」


 拓也が眉をひそめる。


「そんなの入れてたっけ?」


 望は小さく息を飲んだ。


 やっぱり。


 一度も見ていなかったんだ。


「結婚した時に入れたの。いつでも見られるようにって」


 画面には細かな記録が並んでいた。


 日付。

 金額。

 内容。


 望は静かにスクロールする。


「これ、見て」


 拓也が覗き込む。


『拓也 終電逃しタクシー代 八千四百円』


『義母通院付き添い交通費』


『減塩調味料』


『玲奈さん用 手土産』


『誕生日積立』


 玲奈の表情が変わった。


「……え」


「全部、記録してた」


 望の声は淡々としていた。


「どこで節約したか」

「何を削ったか」

「何に時間を使ったか」


 指先が震える。


 でも、止まらない。


「拓也のワイシャツ、クリーニング高い月は自分の服買うの我慢した」


「望……」


「お義母さんの減塩食、毎回別に作ってた」


「そんなの頼んでないだろ」


 玲奈が反射的に言う。


 望はゆっくり玲奈を見た。


「頼まれてなくても、必要だったからやってたの」


 玲奈が黙る。


 拓也はスマホを見つめたまま動かない。


 そこには、望が積み重ねてきた毎日が全部残っていた。


 誰にも見えなかったもの。


 見ようとされなかったもの。


「私は、“食べてるだけ”だった?」


 その言葉が落ちた瞬間。


 空気が凍った。


 玲奈の顔から笑みが消える。


 拓也は画面を見たまま、何も言えない。


 望は続けた。


「私、自分のために使ったお金なんてほとんどない」


「……」


「でも、みんなが困らないようにって考えてた」


 喉が熱い。


 涙が出そうになる。


 でも、ここで泣きたくなかった。


「なのに、なんで私は“いるだけの人”みたいに言われなきゃいけないの?」


 拓也がようやく口を開いた。


「俺……」


 その声は掠れていた。


「知らなかった……」


 望は笑った。


 静かに。


 でも悲しい笑いだった。


「見ようとしなかっただけだよ」


 夜風が強く吹く。


 誰も何も言えなかった。


 駅前の明かりだけが、やけに白く滲んで見えた。



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