第5話 積み重なる侮辱
第5話 積み重なる侮辱
義母の和子の誕生日当日。
朝から望は落ち着かなかった。
キッチンには花束を包むための薄紙とリボンが広がり、冷蔵庫には和子の好きな栗羊羹が冷やされている。
時計を見る。
午前十時。
「……そろそろ行かなきゃ」
望は鏡の前に立ち、淡いネイビーのワンピースの皺を整えた。派手すぎず、地味すぎない服を選んだつもりだった。義母は落ち着いた格好を好むし、玲奈は少しでも野暮ったいと笑うからだ。
小さなパールのイヤリングをつける。
鏡に映る自分の顔は、少し疲れて見えた。
「大丈夫、大丈夫」
誰に言うでもなく呟き、望は花束を抱えた。
店に着くと、ほのかな檜の香りが漂っていた。
駅近くの和食店。
木目調の落ち着いた店内には、柔らかなジャズが流れている。
「ご予約の中村様ですね」
着物姿の店員が丁寧に頭を下げた。
「はい。足の悪い者がいるので、入口近くの席をお願いしていたんですが……」
「もちろんです。こちらへどうぞ」
望はほっと胸を撫で下ろした。
席は段差のない半個室になっていた。椅子も背もたれが高く、和子でも座りやすそうだ。
窓の外には小さな日本庭園が見える。
陽射しに照らされた青葉が静かに揺れていた。
「まあ、素敵なお店ねぇ」
和子は嬉しそうに笑った。
薄いグレーの着物姿で、今日は少しだけ顔色が良い。
「ありがとうございます。お義母さんが歩きやすい所を探してみました」
「気を遣わせちゃったわね」
「そんなことないです」
望は微笑む。
その時、拓也が腕時計を見ながら言った。
「玲奈、また遅れてるな」
「仕事忙しいんじゃない?」
和子が苦笑する。
予約時間を二十分ほど過ぎた頃だった。
カツカツ、とヒールの音が近づいてくる。
「ごめーん! 遅れた!」
玲奈だった。
ベージュのブランドバッグを肩に掛け、真っ赤なワンピースに高いヒール。甘い香水の匂いがふわりと広がる。
「もう、電車混んでて最悪」
「玲奈、忙しいのにありがとうねぇ」
和子が嬉しそうに言う。
玲奈は髪をかき上げながら席に着き、周囲を見回した。
「でもここ、いい店じゃん」
そして当然みたいな顔で笑う。
「この店、私が見つけたの」
望の手がぴたりと止まった。
テーブルの上には、朝から選びに行った花束が置かれている。
和子の好きな白いトルコキキョウ。
薄桃色のカーネーション。
優しい色合いにまとめてもらったものだ。
予約も。
料理の相談も。
減塩対応の確認も。
全部、望が準備した。
けれど玲奈は当然みたいに笑っている。
「さすが玲奈ねぇ」
和子が感心したように言った。
望は小さく笑った。
「本当に素敵なお店ですね」
自分でも驚くほど穏やかな声だった。
料理が運ばれてくる。
湯葉のお刺身。
鱧のお吸い物。
炊き込みご飯。
出汁の香りがふわりと広がり、和子は嬉しそうに目を細めた。
「優しい味ねぇ」
「減塩でお願いしたんです」
望が言うと、店員が微笑む。
「はい。特別に調整しております」
「へえ、そんなことできるんだ」
拓也が感心したように呟く。
玲奈は箸を動かしながら、スマホを見ていた。
「あ、そうだ」
突然、玲奈が顔を上げる。
「最近出た最新のロボット掃除機知ってる? めっちゃ便利らしいよ」
「テレビで見たかも」
拓也が言う。
「でしょ? あと乾燥機付き洗濯機も神。家事ほぼ終わるじゃん」
玲奈は笑いながらワインを飲んだ。
「望さんも買えばいいのに」
望は困ったように笑う。
「うーん……今月は車検もあったし、少し厳しくて」
「えー?」
玲奈が鼻で笑った。
「稼いでない人ほど財布握りたがるよね」
その瞬間。
空気が少しだけ止まった。
和子が気まずそうに箸を置く。
「玲奈さん……」
「だって本当じゃない?」
玲奈は悪びれない。
「正直、今って外食もあるし家電も進化してるし。望さんがいなくても、どうにでもなるでしょ?」
望は黙った。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
悔しいのに、声が出ない。
すると拓也が苦笑した。
「まぁまぁ」
それだけだった。
止めない。
否定もしない。
望の頭の中に、昔の言葉が蘇る。
『専業なんだから、それくらいやってくれると助かる』
結婚したばかりの頃。
拓也は仕事で疲れて帰ってきて、ソファへ寝転がりながらそう言った。
悪気なんてなかった。
むしろ感謝しているつもりだったのかもしれない。
でも。
その“当然”が、ずっと積み重なっていた。
望は湯呑みに手を添える。
熱いはずなのに、指先は冷えていた。
「望?」
拓也が不思議そうに見る。
「大丈夫?」
「……うん」
望は無理に笑った。
和子が空気を変えようとするみたいに言う。
「この炊き込みご飯、美味しいわねぇ」
「本当ですね」
望も合わせる。
でも味なんて、もう分からなかった。
料理の香りも。
店内の落ち着いた音楽も。
全部が遠い。
玲奈だけが楽しそうに話し続ける。
「今度さ、みんなで温泉行こうよ」
「いいな、それ」
「望さん、暇でしょ? 予約お願いね」
また自然に押し付けられる。
頼む、ではなく、当然みたいに。
望は静かに箸を置いた。
誰も気づかない。
自分が今、どれほど傷ついているのか。
窓の外では風が吹き、庭の青葉が揺れていた。
まるで、自分だけがこの場所から少しずつ取り残されていくみたいだった。




