第4話 結婚前の秘密
第4話 結婚前の秘密
雨の音がしていた。
窓ガラスを細かく叩く水音が、静かな部屋に絶え間なく響いている。
夜十一時過ぎ。
拓也はソファで寝落ちしていた。ネクタイを緩めたまま、テレビの青白い光を浴びて小さく寝息を立てている。
望はダイニングテーブルの上に散らばった食器を片づけ、最後のグラスを洗い終えた。
指先がふやけて白くなっている。
今日は一日中、雨だった。
スーパーへ行く時も、義母へおかずを届けに行く時も、濡れたアスファルトの匂いがまとわりついていた。
エプロンを外し、望は小さく息をつく。
疲れていた。
身体より、心が。
玲奈の言葉は、時間が経っても胸の奥に残っていた。
「専業主婦って時間あるもんね?」
「働いてる人が決めた方が早そう」
軽い声。
笑いながら投げられる言葉。
けれど、そのたびに望の中の何かが少しずつ削れていく。
望は静かに寝室へ向かった。
クローゼットの奥から、小さな黒いケースを取り出す。
古びた通帳と、ノートパソコン。
結婚してからも、誰にも見せたことがないものだった。
雨音が少し強くなる。
望はベッドに腰掛け、パソコンを開いた。
薄暗い部屋の中で、画面だけが白く浮かび上がる。
慣れた手つきでパスワードを入力する。
数秒後。
表示された数字に、望は静かに目を細めた。
「……増えてる」
桁数を見ても、もう驚かない。
何億という数字。
結婚した頃より、さらに増えていた。
拓也が毎朝満員電車に揺られ、何十年も働いて得るはずだった金額を、とっくに超えている。
それでも望は、誰にも言わなかった。
言う必要がないと思っていた。
画面の光を見つめているうちに、ふと父の声を思い出す。
『望』
あの頃、父はまだ元気だった。
冬の夕方。
古い実家の居間。
石油ストーブの匂い。
高校生だった望は、みかんを剥きながらテレビを見ていた。
父は新聞を畳み、ぽつりと言った。
『女でも、自分のお金だけは持っておきなさい』
「急にどうしたの?」
『世の中、何があるか分からないからな』
父は少し笑った。
『誰かに養ってもらう人生は、楽そうに見えて怖いんだ』
その時は、よく分からなかった。
けれど数年後。
父は突然倒れた。
病院の消毒液の匂い。
白い天井。
痩せた手。
望は今でも忘れられない。
『望』
酸素マスク越しに、父は苦しそうに息をしながら言った。
『自分で生きていける力を持ちなさい』
あの声だけが、ずっと胸に残っていた。
父が亡くなった後、望は遺された貯金の一部を使った。
百万円。
決して安い金額ではなかった。
当時付き合っていた友人に、「怪しい」「危ない」と笑われながら、それでもビットコインを買った。
理由は単純だった。
もし何かあっても、自分で生きていけるように。
ただ、それだけ。
「まさか、こんなになるなんてね……」
望は小さく笑った。
画面の数字は、もう現実感がない。
けれど、その数字を見るたびに思う。
私は、本当はいつでも自由になれる。
この家を出ようと思えば、出られる。
働き口を探して、マンションを借りて、一人で暮らしていける。
玲奈に馬鹿にされる必要もない。
誰かの顔色をうかがう必要もない。
それなのに。
望はこの家に残っていた。
その時、寝室のドアが少し開いた。
「……望?」
拓也だった。
眠そうな顔で立っている。
望は慌てて画面を閉じた。
「ごめん、起こした?」
「いや……まだ寝ないの?」
「うん、ちょっと家計見てただけ」
嘘ではなかった。
ただ、本当のことも言っていない。
拓也は欠伸をしながら近づいてくる。
「最近、疲れてない?」
「そう見える?」
「なんか顔色悪い」
そう言いながら、拓也は冷蔵庫から麦茶を取り出した。
氷の触れ合う音が静かな部屋に響く。
「玲奈のこと、気にしてる?」
望は少し黙った。
気にしていないわけがない。
でも。
「……別に」
そう答えるしかなかった。
拓也は麦茶を飲みながら苦笑する。
「玲奈って昔からああいう性格だからさ」
「うん」
「悪気ないんだよ」
また、その言葉だった。
悪気はない。
だから許せということなのだろうか。
望は静かに視線を落とした。
拓也は続ける。
「でもさ、母さんも望のこと頼りにしてるし」
「……そうかな」
「そりゃそうだろ。料理も上手いし、気も利くし」
拓也は本当に悪人ではない。
優しい時もある。
風邪を引けば心配してくれるし、重い荷物を持ってくれることもある。
だから余計に苦しかった。
自分が傷ついていることに、拓也自身が気づいていない。
「ねえ、拓也」
「ん?」
望は少し迷ってから聞いた。
「もし私がいなくなったら、困る?」
拓也はきょとんとした顔をした後、笑った。
「何それ」
「例えばの話」
「そりゃ困るよ」
「どうして?」
「どうしてって……」
拓也は少し考え込み、それから当然みたいに言った。
「家のこと回らなくなるじゃん」
望の胸が、静かに冷えた。
ああ。
そうなんだ。
拓也にとって私は、“必要”ではある。
でもそれは。
愛しているからではなく、
生活に必要だから。
望は小さく笑った。
「そっか」
「何? 変なこと聞くなあ」
拓也はそう言って欠伸をした。
「俺先寝るわ」
「うん、おやすみ」
ドアが閉まる。
また静寂が戻った。
望は再びパソコンを開く。
画面には莫大な数字が並んでいた。
自由になれる金額。
誰にも頭を下げずに生きていける金額。
それでも望は、まだここにいる。
きっとどこかで信じていた。
家族なら。
夫婦なら。
いつか分かり合える日が来ると。
窓の外では、まだ雨が降り続いていた。
まるで、終わらない夜みたいに。




