第3話 都合のいい“時間がある人”
第3話 都合のいい“時間がある人”
昼過ぎの陽射しが、薄いレースカーテン越しに部屋へ差し込んでいた。
望は洗濯物を畳みながら、小さく肩を回した。午後二時を過ぎたばかりだというのに、もう一日分働いたような疲労が背中に溜まっている。
白いTシャツを揃えて重ね、拓也のワイシャツの皺を伸ばす。
洗剤の清潔な香りが、静かな部屋に漂っていた。
その時、テーブルの上に置いていたスマホが震えた。
玲奈からだった。
『来週のお母さんの誕生日のお店、予約しといてくれる?』
続けて、すぐに次のメッセージが届く。
『専業主婦って時間あるもんね?』
望は一瞬だけ指を止めた。
画面の文字が、じわりと胸に沈む。
悪気なんてないのだろう。
玲奈はいつもそうだ。
軽い調子で、冗談みたいに人を傷つける。
望は小さく息を吐き、返信を打った。
『分かりました。お義母さんが食べやすいお店、探してみますね』
送信した直後、今度は店の候補が何件も送られてきた。
都内の高級レストラン。
ホテルディナー。
夜景の見える鉄板焼き。
どれも値段が高い。
しかも駅から遠く、階段の多い店ばかりだった。
望は眉を寄せる。
義母の和子は最近、膝を痛めている。長い距離を歩くのは辛そうだった。さらに塩分制限もある。
「これは……難しいな」
望はノートを開き、店名を書き出した。
予算。
アクセス。
塩分対応。
椅子席。
義母が疲れない距離。
ひとつずつ確認していく。
窓の外では、夏の終わりを告げる蝉の声が弱々しく鳴いていた。
午後三時。
望はベージュのカーディガンを羽織り、駅前へ向かった。
少しでも実際の雰囲気を見ておきたかったのだ。
商店街には、焼き鳥の香ばしい匂いが漂っている。八百屋の店先には特売の梨が積まれ、子供たちの笑い声が遠くから聞こえた。
望はメモ帳を片手に、何軒もの店を見て回った。
「すみません、減塩対応ってできますか?」
「高齢者なんですが、入口に段差ありますか?」
「個室はありますか?」
何度も頭を下げる。
そのたび店員の表情が変わる。
面倒そうな顔をする人もいれば、丁寧に対応してくれる人もいた。
四軒目の和食店で、ようやく希望に近い店が見つかった。
駅から徒歩三分。
エレベーターあり。
減塩対応可能。
座敷ではなく椅子席。
木目調の落ち着いた店内には、ほのかに出汁の香りが漂っていた。
「こちらでしたら、お母様にもゆっくりしていただけると思いますよ」
年配の店員が穏やかに微笑む。
望はようやく肩の力を抜いた。
「ありがとうございます……」
外へ出ると、空は薄い茜色に染まり始めていた。
どっと疲れが押し寄せる。
それでも少し安心していた。
これなら和子も喜んでくれるかもしれない。
帰宅した頃には、もう夕方六時を回っていた。
急いで夕飯の準備に取りかかる。
今日は鯖の味噌煮と、小松菜のお浸し。拓也は味噌煮が好きだ。生姜を多めに入れると喜ぶ。
鍋から立ち上る甘辛い匂いに包まれながら、望は玲奈へ店の詳細を送った。
『駅から近く、減塩対応も可能なお店がありました。こちらで予約しました』
数分後。
返信が届く。
『え、本当細かいねー』
その文字を見た瞬間、望の指が止まった。
さらに追い打ちみたいに、次のメッセージが表示される。
『働いてる人が決めた方が早そう笑』
笑。
たった一文字なのに、胸の奥がじくりと痛んだ。
望はしばらく画面を見つめていた。
台所では鍋が小さく音を立てている。
ぐつぐつ、と味噌が煮える匂い。
換気扇の低い音。
夕暮れの薄暗い部屋。
その全部が急に遠く感じた。
「……細かくしなきゃ、お義母さん困るのに」
思わず呟く。
けれど、その声を聞く人はいない。
玄関のドアが開いた。
「ただいまー」
拓也だった。
ネクタイを緩め、疲れた顔で入ってくる。
「おかえり」
「うわ、味噌煮? いい匂い」
拓也は鞄を置きながら笑った。
その笑顔を見ていると、玲奈の言葉を言い出せなくなる。
「今日さ、玲奈から連絡きてただろ?」
「うん。お店、予約したよ」
「ありがと。助かるわー」
本当に軽い口調だった。
まるで宅配便の受け取りでも頼んだみたいに。
望は皿に料理を盛り付ける。
湯気の向こうで、拓也はもうテレビを見ていた。
「母さん、足悪いからさ。望がいてくれると安心なんだよな」
「……そう」
「玲奈、気が強いけど悪い奴じゃないし」
望は箸を並べながら、小さく笑った。
「分かってるよ」
また、その言葉だった。
分かってる。
ずっと分かってる。
玲奈に悪気はない。
拓也も責めているつもりはない。
でも。
だからこそ苦しかった。
誰も、自分を傷つけている自覚がない。
夕飯を食べながら、拓也は会社の話をしていた。
「部長がさー、急に資料やり直せって」
「大変だったね」
「ほんと疲れた」
望は頷きながら味噌汁をよそう。
湯気が頬を撫でた。
疲れているのは、きっと自分も同じだった。
でも、その疲れは誰にも見えない。
食後、拓也はソファへ寝転がり、そのまま眠ってしまった。
望は静かに食器を洗う。
水の冷たさが、じんわり指に沁みる。
玲奈からのメッセージは、まだスマホの画面に残っていた。
『専業主婦って時間あるもんね?』
望はそっと電源を消した。
暗くなった画面に、自分の顔が映る。
少し疲れた顔。
笑うのに慣れすぎた顔。
時計は夜十一時を回っていた。
窓の外では、どこかの部屋の明かりがぽつぽつ灯っている。
望は静かに目を伏せた。
“時間がある人”。
そう見えるなら、それでいい。
誰も知らないだけだ。
自分が毎日、どれだけの時間を誰かのために使っているのかを。




