第2話 見えない主婦の労働
第2話 見えない主婦の労働
朝五時。
まだ夜の名残が残る薄暗い部屋の中で、望は静かに目を開けた。
隣では拓也が毛布を肩まで引き上げ、規則正しい寝息を立てている。エアコンの弱い風がカーテンをわずかに揺らし、窓の外では新聞配達のバイクの音が遠く響いていた。
望はそっとベッドを抜け出す。
足元のフローリングは冷たく、眠気の残る身体にじんわり染みた。
クリーム色のカーディガンを羽織り、髪をひとつに結ぶ。そのままキッチンへ向かい、電気をつけると、小さな空間が温かなオレンジ色に染まった。
冷蔵庫を開ける。
昨日のうちに下味をつけておいた鶏肉、茹でたブロッコリー、卵、きんぴらごぼう。
望は慣れた手つきでフライパンに火を入れた。
じゅう、と油が弾ける音が静かな部屋に広がる。
醤油とみりんの香りが立ち上がり、少しだけ気持ちが落ち着いた。
「今日は寝坊しなかった」
小さく呟く。
誰も聞いていない独り言だった。
弁当箱に、ご飯を詰める。
梅干しを真ん中に置き、卵焼きを斜めに入れる。拓也は甘い卵焼きが好きだ。焦げ目が強いと嫌がるから、火加減にはいつも気をつかう。
味噌汁用の出汁を温めながら、望は洗濯機を回した。
ガタン、と回転音が響く。
その間に義母用の減塩食を作る。
今日は鱈の煮付けと、ほうれん草のおひたし。塩分を抑える代わりに、生姜と柚子で香りを足す。
和子は最近、少し食欲が落ちていた。
「お義母さん、これなら食べやすいかな……」
望は小鍋を覗き込みながら呟いた。
窓の外が少しずつ白み始める。
朝六時。
ようやくコーヒーを淹れる時間ができた。
インスタントではなく、安売りの日に買っておいた粉を使う。湯を注ぐと、ほろ苦い香りがふわりと広がった。
望はマグカップを両手で包み込み、ダイニングテーブルへ座る。
ほんの数分だけの休憩。
だが、その時間さえ落ち着かなかった。
頭の中では、今日の予定が次々浮かぶ。
クリーニング受け取り。
スーパー特売日。
義母の病院予約確認。
玲奈への手土産準備。
望は家計簿ノートを開いた。
薄い水色の表紙は、角が擦れて少し白くなっている。
スマホではなく、結婚してからずっと手書きで続けているものだった。
「クリーニング代……二千三百円」
「今週は野菜が高いなぁ……」
細かな数字を書き込みながら、望は小さくため息をつく。
拓也の給料だけで暮らしていくには、無駄遣いはできない。
けれど、それを拓也に言ったことはなかった。
「ただいまーって帰ってきて、ちゃんとご飯があればいいんだもんね」
ぽつりと漏れた声は、自分でも驚くほど寂しかった。
七時を過ぎた頃、寝室のドアが開いた。
「……あー、いい匂い」
拓也が眠そうな顔で出てくる。紺色のスウェットにぼさぼさの髪。まだ半分夢の中みたいな顔だった。
「おはよう。ご飯できてるよ」
「んー」
拓也は椅子に座り、スマホを見ながら味噌汁を飲んだ。
「今日、鮭か」
「うん。昨日安かったから」
「へえ」
それだけだった。
卵焼きも、焼き加減も、味噌汁の出汁も、何も気づかない。
けれど望は慣れていた。
「今日、クリーニング寄ってくれる?」
拓也がご飯をかき込みながら言う。
「ワイシャツ、もうないんだよね」
「うん、分かった」
「あと母さんから連絡きてたよ。今度の通院付き添えるかって」
「大丈夫。私行くね」
「助かる」
拓也はそう言って立ち上がる。
本当に“助かる”と思っているのだろうか。
望には分からなかった。
「弁当、持った?」
「あ、ありがと」
拓也は片手で弁当を受け取ると、そのまま玄関へ向かう。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
ドアが閉まる。
部屋が静かになった。
さっきまで温かかった食卓が、一気に冷えた気がした。
望は一人で空になった茶碗を下げる。
味噌汁の湯気はもう消えていた。
午前十時。
スーパーは特売日の客で混雑していた。
店内には揚げ物の匂いと、野菜売り場の青臭い香りが混ざって漂っている。
望はカートを押しながら値札を見比べた。
「こっちの方が三十円安い……」
小さな計算を繰り返す。
肉を買えば魚を減らす。
キャベツが高ければもやしを使う。
そんな調整を毎日繰り返していた。
レジ袋を両手に提げて帰宅した頃には、腕が赤くなっていた。
それでも休む暇はない。
洗濯物を取り込み、掃除機をかけ、義母へ届ける減塩のおかずをタッパーへ詰める。
気づけばもう夕方だった。
窓の外が茜色に染まり始める。
望はエプロンの裾で汗を拭った。
「……疲れたな」
ぽつりと呟く。
誰もいない部屋。
時計の針の音だけが響く。
その時、スマホが鳴った。
玲奈からだった。
『今度のお母さんの誕生日、焼き菓子よろしく』
『前の店のやつ美味しかったから』
望はしばらく画面を見つめた。
ありがとう、の一言はない。
でも、きっと玲奈に悪気はないのだろう。
拓也と同じだ。
“やってもらえること”に慣れているだけ。
望は静かにスマホを伏せた。
キッチンからは、炊飯器の炊き上がり音が聞こえる。
温かな湯気の匂い。
柔らかな白米の香り。
その匂いに包まれながら、望はふと昨日の言葉を思い出していた。
「夫の給料で食べてるだけ」
違う。
本当は違う。
私は毎日、この家を回している。
見えない場所で。
誰にも気づかれないまま。
けれど、その言葉を口にする相手は、どこにもいなかった。




