表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
2/30

第2話 見えない主婦の労働

第2話 見えない主婦の労働


 朝五時。


 まだ夜の名残が残る薄暗い部屋の中で、望は静かに目を開けた。


 隣では拓也が毛布を肩まで引き上げ、規則正しい寝息を立てている。エアコンの弱い風がカーテンをわずかに揺らし、窓の外では新聞配達のバイクの音が遠く響いていた。


 望はそっとベッドを抜け出す。


 足元のフローリングは冷たく、眠気の残る身体にじんわり染みた。


 クリーム色のカーディガンを羽織り、髪をひとつに結ぶ。そのままキッチンへ向かい、電気をつけると、小さな空間が温かなオレンジ色に染まった。


 冷蔵庫を開ける。


 昨日のうちに下味をつけておいた鶏肉、茹でたブロッコリー、卵、きんぴらごぼう。


 望は慣れた手つきでフライパンに火を入れた。


 じゅう、と油が弾ける音が静かな部屋に広がる。


 醤油とみりんの香りが立ち上がり、少しだけ気持ちが落ち着いた。


「今日は寝坊しなかった」


 小さく呟く。


 誰も聞いていない独り言だった。


 弁当箱に、ご飯を詰める。


 梅干しを真ん中に置き、卵焼きを斜めに入れる。拓也は甘い卵焼きが好きだ。焦げ目が強いと嫌がるから、火加減にはいつも気をつかう。


 味噌汁用の出汁を温めながら、望は洗濯機を回した。


 ガタン、と回転音が響く。


 その間に義母用の減塩食を作る。


 今日は鱈の煮付けと、ほうれん草のおひたし。塩分を抑える代わりに、生姜と柚子で香りを足す。


 和子は最近、少し食欲が落ちていた。


「お義母さん、これなら食べやすいかな……」


 望は小鍋を覗き込みながら呟いた。


 窓の外が少しずつ白み始める。


 朝六時。


 ようやくコーヒーを淹れる時間ができた。


 インスタントではなく、安売りの日に買っておいた粉を使う。湯を注ぐと、ほろ苦い香りがふわりと広がった。


 望はマグカップを両手で包み込み、ダイニングテーブルへ座る。


 ほんの数分だけの休憩。


 だが、その時間さえ落ち着かなかった。


 頭の中では、今日の予定が次々浮かぶ。


 クリーニング受け取り。

 スーパー特売日。

 義母の病院予約確認。

 玲奈への手土産準備。


 望は家計簿ノートを開いた。


 薄い水色の表紙は、角が擦れて少し白くなっている。


 スマホではなく、結婚してからずっと手書きで続けているものだった。


「クリーニング代……二千三百円」

「今週は野菜が高いなぁ……」


 細かな数字を書き込みながら、望は小さくため息をつく。


 拓也の給料だけで暮らしていくには、無駄遣いはできない。


 けれど、それを拓也に言ったことはなかった。


「ただいまーって帰ってきて、ちゃんとご飯があればいいんだもんね」


 ぽつりと漏れた声は、自分でも驚くほど寂しかった。


 七時を過ぎた頃、寝室のドアが開いた。


「……あー、いい匂い」


 拓也が眠そうな顔で出てくる。紺色のスウェットにぼさぼさの髪。まだ半分夢の中みたいな顔だった。


「おはよう。ご飯できてるよ」


「んー」


 拓也は椅子に座り、スマホを見ながら味噌汁を飲んだ。


「今日、鮭か」


「うん。昨日安かったから」


「へえ」


 それだけだった。


 卵焼きも、焼き加減も、味噌汁の出汁も、何も気づかない。


 けれど望は慣れていた。


「今日、クリーニング寄ってくれる?」


 拓也がご飯をかき込みながら言う。


「ワイシャツ、もうないんだよね」


「うん、分かった」


「あと母さんから連絡きてたよ。今度の通院付き添えるかって」


「大丈夫。私行くね」


「助かる」


 拓也はそう言って立ち上がる。


 本当に“助かる”と思っているのだろうか。


 望には分からなかった。


「弁当、持った?」


「あ、ありがと」


 拓也は片手で弁当を受け取ると、そのまま玄関へ向かう。


「行ってきます」


「いってらっしゃい」


 ドアが閉まる。


 部屋が静かになった。


 さっきまで温かかった食卓が、一気に冷えた気がした。


 望は一人で空になった茶碗を下げる。


 味噌汁の湯気はもう消えていた。


 午前十時。


 スーパーは特売日の客で混雑していた。


 店内には揚げ物の匂いと、野菜売り場の青臭い香りが混ざって漂っている。


 望はカートを押しながら値札を見比べた。


「こっちの方が三十円安い……」


 小さな計算を繰り返す。


 肉を買えば魚を減らす。

 キャベツが高ければもやしを使う。


 そんな調整を毎日繰り返していた。


 レジ袋を両手に提げて帰宅した頃には、腕が赤くなっていた。


 それでも休む暇はない。


 洗濯物を取り込み、掃除機をかけ、義母へ届ける減塩のおかずをタッパーへ詰める。


 気づけばもう夕方だった。


 窓の外が茜色に染まり始める。


 望はエプロンの裾で汗を拭った。


「……疲れたな」


 ぽつりと呟く。


 誰もいない部屋。


 時計の針の音だけが響く。


 その時、スマホが鳴った。


 玲奈からだった。


『今度のお母さんの誕生日、焼き菓子よろしく』

『前の店のやつ美味しかったから』


 望はしばらく画面を見つめた。


 ありがとう、の一言はない。


 でも、きっと玲奈に悪気はないのだろう。


 拓也と同じだ。


 “やってもらえること”に慣れているだけ。


 望は静かにスマホを伏せた。


 キッチンからは、炊飯器の炊き上がり音が聞こえる。


 温かな湯気の匂い。


 柔らかな白米の香り。


 その匂いに包まれながら、望はふと昨日の言葉を思い出していた。


「夫の給料で食べてるだけ」


 違う。


 本当は違う。


 私は毎日、この家を回している。


 見えない場所で。

 誰にも気づかれないまま。


 けれど、その言葉を口にする相手は、どこにもいなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ