第9話 ひっくり返る立場
第9話 ひっくり返る立場
翌月の月曜日。
朝から空はどんより曇っていた。
望はキッチンで味噌汁を温めながら、ちらりと時計を見る。
午前七時半。
いつもなら拓也はもうスーツに着替えている時間だった。
だが今日は違う。
「薬手帳、これで合ってる?」
ダイニングテーブルで、拓也が慣れない手つきで書類をまとめていた。
紺色のパーカーにジーンズ姿。会社へ行く時とは違う、どこか頼りない格好だった。
「うん。あと保険証も」
「これか」
拓也は何度も確認している。
今日は有給を取り、和子の通院へ付き添う日だった。
あの日以来、家族で分担することになったのだ。
望は焼き鮭を皿へ移しながら言う。
「病院、冷えるから上着持って行った方がいいよ」
「あー……分かった」
拓也の返事は少し硬い。
たぶん緊張しているのだろう。
望は小さく息を吐いた。
以前なら、こういう準備も全部自分が黙って済ませていた。
でも今は違う。
「お義母さん、今日は採血あるから朝ご飯少なめにしてね」
「はぁい」
和子が居間から返事をする。
最近、和子は以前より望へ遠慮するようになった。
それが少し寂しくもあった。
食卓には焼き鮭の香りが広がる。
炊きたてのご飯。
豆腐とわかめの味噌汁。
ほうれん草のお浸し。
拓也は黙って食べていたが、途中でぽつりと言った。
「……毎朝これ作ってたんだよな」
「うん?」
「いや、なんでもない」
望は少しだけ目を細める。
拓也の中で、少しずつ何かが変わり始めているのを感じていた。
午前九時。
「行ってきます」
「気をつけてね」
玄関で和子を支えながら、拓也がぎこちなく靴を履かせている。
和子が苦笑した。
「拓也、不器用なんだから」
「しょうがないだろ、普段やらないんだから」
その言葉に、拓也自身がはっとした顔をした。
望は何も言わない。
ただ静かに見送った。
ドアが閉まる。
部屋に静けさが戻った。
望はキッチンへ戻り、空になった食器を洗う。
窓の外では、小雨が降り始めていた。
午後四時。
玄関のドアが重たく開いた。
「ただいま……」
拓也だった。
顔色がひどく疲れている。
肩には和子の荷物が掛かったままだ。
「おかえり。大丈夫?」
「……無理」
拓也はそのままソファへ倒れ込んだ。
「病院って、あんな大変なの……?」
望は苦笑しながら麦茶を差し出す。
「お疲れさま」
拓也は一気に飲み干した。
「待ち時間長いし、移動だけでも大変だし」
「母さん、トイレ何回も行くし」
「薬局でも待つし……」
その声には、本気の疲労が滲んでいた。
「これを、望はずっと一人で……?」
望はタオルを畳みながら静かに頷く。
「うん」
拓也が目を伏せる。
「俺、本当に何も知らなかったな……」
望は返事をしなかった。
責めたいわけじゃない。
でも、その言葉を聞いても、すぐには許せない自分がいた。
夕方、玲奈からLINEが届いた。
『お母さん大丈夫でしたか?』
『今度のお見舞い、私も行きます』
以前の玲奈なら、
『通院よろしくー』
だけだった。
最近は文面に妙な丁寧さが混じる。
“専業主婦なんだから”という言葉も消えた。
望は短く返信する。
『ありがとうございます』
送信してから、少しだけ疲れた笑みが漏れる。
人って、立場が変わるとこんなに態度が変わるんだ。
その日の夜。
夕飯は生姜焼きだった。
フライパンから立ち上る甘辛い匂いに、拓也が「うまそう」と呟く。
以前なら、それで終わりだった。
でも今日は違った。
「手伝う」
拓也が皿を運ぶ。
その姿がぎこちなくて、望は思わず少し笑ってしまった。
「箸、逆」
「え、マジ?」
二人の間に、小さな空気が戻り始めていた。
食後。
拓也が皿を洗っている間、望は寝室へ向かった。
クローゼットの奥からノートパソコンを取り出す。
しばらく画面を見つめ、それから静かにリビングへ戻った。
「拓也」
「ん?」
「ちょっと見せたいものある」
拓也は手を拭きながらソファへ座る。
望は隣へ腰掛け、パソコンを開いた。
画面の白い光が二人の顔を照らす。
「……何これ」
「私の資産」
拓也の眉が寄る。
「資産?」
望は静かに口を開いた。
「結婚前に、ビットコイン買ってたの」
「ビットコイン?」
「うん。百万円だけ」
拓也は半分笑いかけた。
「え、でもそんなの……」
その時、表示された数字を見て固まった。
空気が止まる。
拓也の目が大きく開いた。
「……え?」
望は何も言わない。
拓也は画面を何度も見直す。
「待って」
「これ、桁……間違ってないよな?」
掠れた声だった。
望は静かに笑う。
「結婚前に買ったビットコイン」
「ずっと持ってただけ」
拓也が言葉を失う。
何億という数字。
自分が必死に働いても届かない金額。
その現実が、拓也の常識を一瞬で壊していた。
「望、お前……」
「黙っててごめん」
「いや、そうじゃなくて……」
拓也は混乱したように髪を掻き上げた。
「じゃあ、お前」
「別に俺の給料なくても……」
「生きていけるよ」
望は穏やかに言った。
「たぶん、一人でも」
その言葉に、拓也の顔が強張る。
ようやく理解したのだ。
望は“養われていた側”ではなかった。
いつでも自由に生きられた。
それでも、この家に残っていた。
家族でいたかったから。
拓也は震える声で聞いた。
「なんで……言わなかった?」
望は窓の外を見る。
夜の街に、小さな雨が降っていた。
「お金があることより」
「ちゃんと家族になれる方が、大事だったから」
拓也は何も言えなかった。
ただ、目の前の妻を見つめる。
今まで、自分がどれほど小さな視野で望を見ていたのか。
その事実だけが、重く胸へ沈んでいった。




