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第28話 拓也の成長

第28話 拓也の成長


六月の夕暮れだった。


仕事を終えた人々が駅から吐き出されるように流れ出てくる。


蒸し暑い空気の中に、どこか夏の匂いが混じり始めていた。


拓也は会社帰りに駅前のスーパーへ立ち寄っていた。


以前の彼なら真っ直ぐ帰宅していたかもしれない。


だが最近は違う。


入口のチラシを手に取り、特売品を確認するのが習慣になっていた。


「おっ」


思わず声が漏れる。


キャベツ百円。


きゅうり三本九十八円。


玉ねぎ一袋百二十円。


かなり安い。


店内には夕方特有の活気があった。


揚げ物コーナーから漂う香ばしい匂い。


焼き鳥の甘辛いタレの香り。


魚売り場から聞こえる威勢のいい声。


拓也は買い物かごを手に野菜売り場へ向かった。


以前なら値段などほとんど見なかった。


必要なら買う。


それだけだった。


しかし今は違う。


望と一緒に家計を見直すようになってから、お金の使い方が少しずつ変わっていた。


無理な節約ではない。


ただ、自分が何にお金を使っているのかを意識するようになったのだ。


「望、喜ぶかな」


そんなことを考えながらキャベツをかごへ入れる。


自分でも不思議だった。


以前は投資動画ばかり見ていた。


仕事から帰れば動画。


休日も動画。


「今すぐ買え!」


「暴騰間近!」


「億り人続出!」


そんな刺激的な言葉に一喜一憂していた。


価格が上がれば嬉しい。


下がれば落ち込む。


毎日スマホばかり見ていた。


だが暗号資産暴落騒動を経験してから変わった。


玲奈の借金問題。


義母の老後不安。


望の冷静な判断。


それらを見ているうちに気付いたのだ。


本当に大切なのは画面の向こうの数字ではない。


目の前の生活なのだと。


スーパーを出る頃には空が茜色に染まっていた。


袋の中では野菜がごろごろと音を立てている。


拓也は少し足取りを軽くして家路を急いだ。


玄関を開けると、ふわりといい匂いがした。


出汁の香り。


醤油の香り。


炊き立てのご飯の匂い。


「ただいま!」


「おかえりなさい」


台所から望が顔を出す。


白いブラウスに紺色のエプロン姿だった。


髪は後ろでまとめられている。


その姿を見るだけで、なぜかほっとする。


「見て見て」


拓也は買い物袋を掲げた。


「今日は戦果がすごいぞ」


望が笑う。


「戦果ですか?」


「キャベツ百円!」


「安いですね」


「きゅうりも九十八円!」


「本当に安い」


拓也は得意げだった。


まるで子供のような顔をしている。


望は思わず吹き出した。


「それで嬉しそうなんですね」


「嬉しいよ」


拓也は靴を脱ぎながら言った。


「浮いた分を積立に回せるからね」


その言葉に望は少し驚いた。


数ヶ月前なら考えられない発言だった。


以前の拓也なら、


「今が買い時かな」


「暴落したから不安だ」


そんな話ばかりしていた。


今は違う。


まず生活があり、その余裕の中で投資をしている。


順番が逆転したのだ。


夕食の準備が整った。


食卓には鯖の味噌煮。


ほうれん草のおひたし。


冷や奴。


きゅうりの浅漬け。


豆腐とわかめの味噌汁。


そして炊き立てのご飯。


湯気が立ち上る。


食欲をそそる匂いが部屋中に広がった。


「いただきます」


二人で手を合わせる。


鯖は柔らかく煮えていた。


甘辛い味噌の香りが口いっぱいに広がる。


「美味しい」


拓也が目を細めた。


「よかった」


望も笑う。


しばらく穏やかな食事が続いた。


テレビでは経済ニュースが流れている。


暗号資産市場は依然として不安定らしい。


アナウンサーが深刻そうな顔で解説している。


以前なら拓也は食い入るように見ていただろう。


だが今は箸を動かしながら軽く聞き流していた。


「見ないんですか?」


望が尋ねる。


「何を?」


「投資ニュース」


拓也は少し考えた。


「昔ほど気にならないかな」


「そうなんですね」


「だって」


拓也は味噌汁を飲む。


熱い出汁が体に染み渡る。


「明日会社行くし」


「うん」


「来月も積立するし」


「うん」


「それだけだもん」


望は思わず微笑んだ。


シンプルな答えだった。


けれど、とても大切な答えだった。


食後。


二人はソファに並んで座った。


窓の外では虫の声が聞こえる。


夜風がレースカーテンを揺らしていた。


望は家計簿を開く。


拓也は麦茶を飲む。


静かな時間だった。


「ねえ」


拓也が言った。


「なんですか?」


「俺さ」


少し照れくさそうだった。


「前より幸せかもしれない」


望は顔を上げた。


「どうして?」


拓也は窓の外を見た。


「前はずっと焦ってたんだと思う」


「焦ってた?」


「もっと稼がなきゃとか」


「うん」


「もっと増やさなきゃとか」


拓也は苦笑した。


「でも今は違う」


部屋にはエアコンの静かな音だけが響いている。


「今日の晩ご飯が美味しいとか」


「うん」


「母さんが元気そうとか」


「うん」


「玲奈が頑張ってるとか」


拓也は望を見た。


「望とこうして話してるとか」


望の胸が少し熱くなった。


以前の拓也なら言わなかった言葉だ。


照れ屋で。


不器用で。


感謝を口にするのが苦手だった。


「変わりましたね」


望が言う。


「そうかな」


「はい」


拓也は頭をかいた。


「望のおかげだよ」


その言葉に望は首を振った。


「違います」


「え?」


「拓也さんが頑張ったからです」


拓也は少し照れたように笑った。


窓の外では月が昇っていた。


柔らかな光が部屋を照らしている。


望は隣に座る夫の横顔を見つめた。


大金持ちになったわけではない。


人生が劇的に変わったわけでもない。


それでも確かに変わったものがある。


目の前の幸せを大切にできるようになったこと。


日常を愛せるようになったこと。


その成長は、どんな投資の利益よりも尊いものに思えた。


拓也は気付いていない。


けれど望には分かっていた。


市場が暴落したあの日から、本当に成長したのは資産ではない。


この人自身なのだと。


夜風が優しく吹き抜ける。


望はそっと夫の隣に寄り添った。


穏やかな時間が流れていた。


それは決して暴落することのない、二人だけの大切な資産だった。



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