第26話 義母の決断と介護の足音
第26話 義母の決断と介護の足音
三月の終わりだった。
窓の外では桜が咲き始めている。
柔らかな春の日差しが、義母の家の居間へ差し込み、古い木のテーブルを優しく照らしていた。
昼食の後だった。
食卓にはまだ食器が残っている。
望が作った鶏の照り焼き。
菜の花の辛子和え。
豆腐とわかめの味噌汁。
炊き立てのご飯。
そして食後のいちご。
甘酸っぱい香りが部屋に漂っていた。
玲奈は以前よりずっと地味な服装になっていた。
薄いグレーのカーディガンに紺色のスカート。
高級ブランドのバッグもない。
ネイルもしていない。
それでも以前より表情は穏やかだった。
借金返済計画が動き始めてから、少しずつ顔色が良くなっている。
義母がお茶を飲みながらぽつりと言った。
「玲奈のことがあってからね」
全員が顔を上げた。
義母は湯飲みを見つめていた。
「いろいろ考えるようになったのよ」
窓の外で風が吹く。
桜の花びらがふわりと舞った。
「私も、いつまでも一人で暮らせるわけじゃないのよね」
静かな声だった。
しかしその言葉は、部屋の空気を変えた。
拓也が箸を置く。
「母さん?」
「最近ね」
義母は少し笑った。
「物忘れも増えてきたのよ」
「そんなことないだろ」
「あるの」
義母は首を振った。
「この前だってスーパーへ行ったのに、お財布を忘れて帰ってきたし」
玲奈も苦笑する。
「ああ、それ私も聞いた」
「お鍋を火にかけたままテレビ見てたこともあったしね」
義母は自嘲気味に笑った。
だがその目には不安があった。
望は黙って話を聞いていた。
義母は続ける。
「玲奈の借金騒動を見ていたらね」
「うん」
「お金って怖いなと思ったの」
窓から春風が吹き込む。
お茶の香りが揺れた。
「老後も同じよね」
義母は小さく息を吐いた。
「今は元気でも、十年後は分からない」
「……」
「介護が必要になるかもしれない」
その言葉に皆が静かになった。
今まで避けていた話題だった。
誰だって年を取る。
だが本当に考えるのは難しい。
義母は少し視線を落とした。
「玲奈にも迷惑はかけたくないし」
「お母さん」
玲奈が眉を下げる。
「私だって娘なんだから」
「でも今のあなたを見てるとね」
義母は優しく笑った。
「まずは自分の生活を立て直してほしいの」
玲奈は返事ができなかった。
借金問題がまだ完全に解決したわけではない。
その現実が胸に刺さる。
その時だった。
望が口を開いた。
「お義母さん」
「なあに?」
「今から準備しましょう」
義母が首を傾げる。
「準備?」
「介護保険です」
義母も拓也も玲奈も顔を見合わせた。
望は鞄からノートを取り出した。
家計改善ノートだった。
何冊も付箋が貼られている。
「介護は突然始まることが多いです」
望はページを開く。
「でも制度を知っている人と知らない人では、その後が全然違います」
「そうなの?」
「はい」
望は丁寧に説明した。
地域包括支援センター。
介護保険。
要支援。
要介護認定。
配食サービス。
見守りサービス。
通所介護。
福祉用具。
義母は驚いた顔で聞いていた。
「そんなに色々あるの?」
「あります」
望は微笑んだ。
「だから一人で抱え込まなくて大丈夫なんです」
義母の目が少し潤む。
「私ね」
小さな声だった。
「迷惑になるのが怖かったの」
望は頷いた。
その気持ちは分かる。
老後への不安。
病気への不安。
家族への遠慮。
誰だって抱える。
「だったら計画を立てましょう」
望はノートに新しいページを開いた。
「老後資金計画です」
「老後資金計画?」
「はい」
望はペンを走らせる。
年金額。
貯蓄額。
生活費。
医療費。
将来予想。
数字が並ぶ。
だが不思議なことに、数字は人を安心させることもある。
見えない不安が見える形になるからだ。
義母は真剣な顔で見つめていた。
「こんな風に考えたことなかったわ」
「私もです」
玲奈が言った。
「借金する前に知りたかった」
みんなが笑った。
少しだけ空気が軽くなる。
その後、望は夕食作りを手伝った。
春キャベツと豚肉の蒸し煮。
新じゃがの煮物。
卵焼き。
あさりの味噌汁。
台所には出汁の香りが広がる。
義母が隣で野菜を切っていた。
「望さん」
「はい」
「ありがとうね」
包丁を置きながら義母が言う。
「何がですか?」
「お金のことも」
「介護のことも」
義母は少し笑った。
「怖い話なのに、不思議と安心したわ」
望は鍋をかき混ぜながら微笑んだ。
「未来が分からないのは皆同じです」
「そうね」
「でも準備はできます」
義母は静かに頷いた。
夕方になる頃には食卓に湯気の立つ料理が並んだ。
家族全員で囲む食卓。
窓の外では桜が夕日に染まっている。
義母は味噌汁を飲みながら言った。
「老後って怖いものだと思ってた」
「うん」
「でも考えない方がもっと怖いのね」
望は頷いた。
玲奈も頷く。
拓也も頷く。
暗号資産の暴落。
借金。
老後。
介護。
どれも怖い。
だが目を背けるほど大きくなる。
向き合えば対策できる。
食卓には穏やかな笑い声が戻っていた。
未来への不安は消えていない。
それでも家族は、同じ方向を向いて歩き始めていた。
窓の外では満開の桜が春風に揺れ、その淡い花びらが新しい季節の訪れを静かに告げていた。




