第24話 夜の緊急家族会議
第24話 夜の緊急家族会議
雨は深夜になっても降り続いていた。
拓也の実家の窓ガラスを細かな雨粒が叩き、時折吹く風が庭の木々を揺らしている。居間の暖色の照明だけが、暗い夜の中で小さな避難所のように温かく灯っていた。
テーブルの上には、義母が急いで用意した肉じゃがとほうれん草のおひたし、湯気の立つ豆腐とわかめの味噌汁が並んでいる。しかし誰一人として箸を伸ばそうとしなかった。
食欲などあるはずがない。
居間の空気は重かった。
玲奈はソファの端に小さく座り、両手でスマートフォンを握りしめている。淡いベージュのセーターの袖口は涙で濡れ、肩は小刻みに震えていた。
義母は向かい側に座ったまま、呆然としている。
「借金が……そんなにあったなんて……」
かすれた声だった。
玲奈は顔を伏せた。
「ごめんなさい……」
「いつからなの……?」
「三年くらい前から……」
義母は目を閉じた。
まるで大きな衝撃を受けた人のように。
拓也も言葉を失っていた。
自分の妹がここまで追い詰められていたことに気付かなかった。
そして今もなお、スマートフォンの画面には真っ赤な数字が並んでいる。
暗号資産市場は下落を続けていた。
望は静かにテーブルの端に座っていた。
温かいほうじ茶から立ち上る香ばしい香りだけが、張り詰めた空気をわずかに和らげている。
玲奈は震える声で言った。
「もう少し待てば戻るかもしれないの……」
誰に言うでもなく。
自分に言い聞かせるように。
「ニュースでも言ってたの。反発する可能性があるって」
望は答えなかった。
玲奈はさらに続ける。
「今売ったら全部終わっちゃう」
「玲奈」
拓也が口を開いた。
「望に見てもらった方がいい」
玲奈は唇を噛んだ。
「でも……」
「お願いだから」
拓也の声も震えていた。
望は静かに玲奈の隣へ移動した。
スマートフォンを受け取る。
画面を見る。
数秒。
それだけだった。
玲奈の運命を判断するのに、望には長い時間は必要なかった。
「玲奈さん」
静かな声。
「今すぐ決済して」
玲奈は固まった。
「え……」
「今すぐ」
「そんな……」
「これ以上は傷口が広がるだけ」
玲奈の目から涙があふれた。
「嫌よ!」
思わず叫ぶ。
「嫌! そんなの嫌!」
義母がびくりと肩を震わせた。
玲奈は泣きながら首を振る。
「だって全部なくなるじゃない!」
「もうほとんど残ってない」
望の声は冷静だった。
残酷なほどに。
しかし優しさもあった。
「残っているのは希望じゃない」
「……」
「未練よ」
玲奈は息を呑んだ。
誰も言えなかった言葉だった。
誰も言いたくなかった現実だった。
「望さんだって投資してるじゃない!」
玲奈は泣きながら叫んだ。
「どうして私は駄目なの!?」
「投資とギャンブルは違うから」
望は即答した。
「私は余裕資金でやってる」
「……」
「生活費は別」
「……」
「借金もしない」
居間が静まり返る。
雨音だけが聞こえる。
玲奈は涙を流しながら画面を見つめた。
数字はさらに減っている。
ほんの数分前よりも。
望はふと昔を思い出した。
結婚したばかりの頃。
義実家で食事をしていても、まるで空気みたいに扱われていた日々。
誰も話を聞いてくれなかった。
いてもいなくても同じだった。
寂しかった。
苦しかった。
何度も泣いた。
だから分かる。
追い詰められた人間の孤独が。
自業自得だと言うのは簡単だ。
馬鹿だと切り捨てるのも簡単だ。
でも。
誰かが手を差し伸べなければ、人は本当に沈んでしまう。
望は玲奈の隣に座った。
そして静かに言う。
「玲奈さん」
「……」
「失敗してもいいの」
玲奈が顔を上げた。
「え?」
「人間だから」
涙で濡れた瞳。
望は続けた。
「でもね」
「……」
「失敗を認めないと終われない」
玲奈は泣いた。
声を上げて。
子供みたいに。
義母も目を潤ませていた。
拓也は何も言えない。
望だけが静かだった。
「決済しよう」
玲奈は震える指でスマートフォンを持つ。
赤いボタン。
損切り。
それを押せば終わる。
夢も。
希望も。
一発逆転も。
全部。
「怖い……」
玲奈が呟いた。
「うん」
望はうなずく。
「怖いよね」
「望さん……」
「でも大丈夫」
玲奈は目を見開いた。
望は微笑んでいた。
「借金は残る」
「……」
「でも玲奈さんは残るから」
その瞬間だった。
玲奈の中で何かが崩れた。
張り詰めていたものが。
涙が止まらない。
「私……」
「うん」
「馬鹿だった……」
「うん」
「怖かった……」
「うん」
望はただ聞いた。
否定しなかった。
責めなかった。
玲奈は何度も泣きながらうなずいた。
そして。
震える指で。
スマートフォンの画面を見つめる。
最後の確認画面。
損失額。
残高。
借金。
すべて表示されていた。
玲奈は目を閉じた。
深呼吸する。
そして――
タップした。
決済完了。
無情な通知音が鳴った。
居間に沈黙が落ちる。
すべて終わった。
資産は消えた。
残ったのは借金だけだった。
玲奈はしばらく画面を見つめていた。
やがて力が抜けたようにソファへ沈み込む。
「終わった……」
小さな声だった。
しかしその声には、奇妙な安堵も混じっていた。
義母がそっと玲奈の肩を抱く。
「玲奈……」
「お母さん……」
二人は泣いた。
拓也も目を赤くしていた。
望は静かに立ち上がる。
そして冷めかけた肉じゃがの鍋を温め直した。
醤油と出汁の優しい香りが居間に広がる。
「お腹空いたでしょう」
玲奈が顔を上げる。
「こんな時に……?」
「こんな時だから」
望は笑った。
「借金があっても朝は来るし、お腹も空くから」
玲奈は思わず泣き笑いになった。
義母も小さく笑う。
張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。
外では雨が降り続いている。
けれど。
玲奈にとって本当の再出発は、資産を失った今夜から始まるのだった。




