第23話 玲奈の悲鳴
第23話 玲奈の悲鳴
暴落が始まってから三日目の夜だった。
窓の外では冷たい雨が降っていた。
街灯の明かりに照らされた雨粒が斜めに流れ、アスファルトを黒く濡らしている。
望は夕食の後片付けを終え、温かいほうじ茶を淹れていた。香ばしい香りがキッチンに広がる。
食卓には食べ終えたばかりの鶏の照り焼きと白菜の味噌汁の名残があった。拓也はソファに座り、テレビのニュースを見ている。
画面には相変わらず真っ赤なチャートが映っていた。
「また下がったらしいな」
拓也が不安そうに言った。
「そうみたいね」
望は湯呑みを手にした。
その時だった。
テーブルの上のスマートフォンが激しく震えた。
着信。
画面に表示された名前を見て、望はわずかに眉をひそめる。
玲奈だった。
こんな時間に珍しい。
電話に出た瞬間だった。
受話器の向こうから、聞いたこともないような泣き声が響いた。
「望さん……!」
玲奈だった。
息がうまくできていないのか、言葉が途切れ途切れになっている。
「助けて……!」
望は思わず姿勢を正した。
「玲奈さん? 落ち着いて。何があったの?」
「お金が……お金が全部消えちゃう……!」
しゃくり上げる声。
その向こうでは何かが倒れる音まで聞こえた。
「今どこ?」
「家……家よ……」
「分かった。画面を見ながら話して」
望の声が低くなる。
隣で聞いていた拓也も立ち上がった。
「玲奈?」
「お兄ちゃん……」
玲奈は泣き崩れていた。
十分後。
二人は車で玲奈のマンションへ向かっていた。
ワイパーが雨を払う音だけが車内に響く。
拓也はハンドルを握りながら落ち着かない様子だった。
「何なんだろう」
「たぶん投資ね」
望が静かに答える。
「投資?」
「かなり危ない感じがする」
玲奈の部屋へ到着すると、すぐに異変が分かった。
部屋が荒れている。
コンビニ弁当の空き容器。
飲みかけのエナジードリンク。
床に転がるお菓子の袋。
いつもは見栄えを気にする玲奈らしくない。
玲奈自身もひどい状態だった。
髪は乱れ、化粧は涙で崩れている。
大きめのパーカーにスウェット姿。
何日もまともに眠っていない顔だった。
「玲奈!」
拓也が駆け寄る。
玲奈はソファに座ったままスマートフォンを握り締めていた。
「お兄ちゃん……」
「何があったんだよ!」
玲奈は震える指でスマートフォンを差し出した。
望が画面を見る。
その瞬間、すべてを理解した。
「そういうこと」
玲奈は再び泣き出した。
「私、借金があったの……」
「借金?」
拓也が目を見開く。
「カードローン……」
望は無言で画面を確認していく。
取引履歴。
レバレッジ倍率。
証拠金。
残高。
どれも最悪だった。
「玲奈さん」
「ううっ……」
「いくら借りてたの?」
玲奈は顔を伏せた。
「二百万円……」
拓也が息を呑む。
「そんなに!?」
「最初は美容ローンだけだったの……」
玲奈は震える声で話し始めた。
ブランドバッグ。
エステ。
旅行。
少しずつ積み重なった支払い。
気付けば借金になっていた。
返済に追われるうちに焦り始めた。
そんな時だった。
SNSで見たのだ。
暗号資産で大儲けした人たちを。
「みんな簡単に稼いでたの……」
玲奈は涙をぬぐった。
「私も一発で返せると思ったの」
望は黙って聞いていた。
「最初は勝ってたのよ」
玲奈の声が小さくなる。
「十万円が十五万円になって……二十万円になって……」
典型的だった。
成功体験。
そして欲。
「もっと増やせると思ったの」
「だから借りたの?」
望が聞く。
玲奈はうなずいた。
「全部……」
「全部?」
「カードローンも……消費者金融も……」
拓也が頭を抱えた。
「何やってんだよ……」
「だって!」
玲奈が叫んだ。
「だって怖かったの!」
涙が止まらない。
「借金なんて誰にも言えなかった!」
部屋に沈黙が落ちる。
雨音だけが聞こえる。
望は再び画面を見た。
そこに表示されていたのは赤い警告だった。
強制ロスカットまで残りわずか。
あと数%下がれば終わる。
すべて失う。
借金だけが残る。
玲奈は絶望した顔で望を見た。
「望さん」
「なに?」
「助かる?」
その声は幼い子供のようだった。
望は嘘をつかなかった。
「難しい」
玲奈の顔が真っ青になる。
「そんな……」
「でもまだ終わってない」
玲奈は顔を上げた。
わずかな希望にすがるように。
「本当?」
望は静かに言った。
「今なら自分で決められる」
「え?」
「損失を確定するか」
「……」
「全部失うまで待つか」
玲奈は固まった。
現実だった。
奇跡の方法などない。
魔法もない。
あるのは現実だけ。
「嫌よ……」
玲奈は首を振る。
「認めたくない……」
「分かる」
望は静かだった。
「でもね」
そして玲奈の前に座る。
目線を合わせる。
「相場は願いを聞いてくれないの」
玲奈の肩が震える。
「お願いだから上がってって祈っても?」
「上がらない」
「もう少し待てば?」
「分からない」
「奇跡が起きたら?」
「それを期待するのが一番危険」
玲奈は声を上げて泣いた。
悔しさ。
恐怖。
後悔。
全部が一気に押し寄せていた。
望はティッシュを差し出した。
そして静かに言う。
「玲奈さん」
「ううっ……」
「借金より怖いものがある」
「何?」
「現実を見ないこと」
玲奈は言葉を失った。
望はスマートフォンの画面を指差す。
赤い数字。
減り続ける資産。
冷酷な現実。
「ここで認めよう」
「……」
「失敗したって」
玲奈は泣きながらうなずいた。
窓の外では雨が降り続いている。
けれど。
初めてだった。
玲奈が本当の意味で、自分の現実から目を背けるのをやめたのは。
望は静かに深呼吸した。
長い夜になる。
だが本当の再生は、ここから始まるのだった。




