第22話 やれやれ売りの連鎖
第22話 やれやれ売りの連鎖
翌朝、望が目を覚ました時には、窓の外の雨はすでに上がっていた。
しかし、空はどんよりとした鉛色の雲に覆われている。
まるで市場そのものの空模様だった。
望はキッチンへ向かい、炊飯器の蓋を開けた。湯気とともに炊き立てのご飯の甘い香りが立ち上る。味噌汁の鍋には昨夜のうちに仕込んでおいた大根と油揚げがたっぷり入っていた。
フライパンでは塩鮭がじゅうじゅうと音を立てている。
香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がった。
テーブルには卵焼きと小松菜のおひたしも並んでいる。
いつもと変わらない朝だった。
少なくとも、家の中は。
「おはよう」
寝癖のついた頭のまま、拓也がリビングへ入ってきた。
灰色のスウェット姿で、まだ眠そうに目をこすっている。
「おはよう。ご飯できてるわよ」
「ありがとう」
そう言ったものの、拓也は席につく前にスマートフォンを取り出した。
画面を開いた瞬間だった。
「うわっ!」
思わず大声が出る。
望は鮭を皿へ移しながら静かに尋ねた。
「どうしたの?」
「また下がってる!」
拓也の顔から血の気が引いていた。
昨夜よりさらに価格が落ちている。
ニュースアプリも真っ赤だった。
『暗号資産市場大暴落』
『恐怖指数11』
『投資家パニック』
『全面安』
そんな文字が次々と並んでいる。
拓也は慌てて食卓についた。
しかし箸を持つ手が落ち着かない。
ご飯を口に運びながらも、何度もスマートフォンを確認している。
「そんなに気になる?」
望が味噌汁をすすりながら聞いた。
「だってさ……」
拓也は苦笑した。
「ネットが大騒ぎなんだよ」
「そう」
「ほら見て」
スマートフォンを差し出してくる。
投資系の掲示板。
動画配信。
SNS。
どこも阿鼻叫喚だった。
『終わった』
『もう全部売った』
『家の頭金が消えた』
『助けてくれ』
『人生終わった』
怒りと恐怖と後悔が渦巻いている。
望は一瞥しただけだった。
「望」
「なに?」
「大丈夫なの?」
「何が?」
「資産」
拓也は小さな声で言った。
「望も投資してるだろ?」
望は湯呑みに熱い緑茶を注いだ。
新茶特有の爽やかな香りが立ち上る。
「減ってるわよ」
「えっ」
「当然でしょう」
あまりにもあっさりした答えだった。
拓也は目を丸くする。
「そんな平然と言う?」
「事実だもの」
望は微笑んだ。
「上がる時もあれば下がる時もあるわ」
「でも大暴落だよ?」
「ええ」
「怖くないの?」
望は湯気の立つ緑茶を口に含んだ。
ほんのりとした苦味。
その後に広がる甘み。
昔から好きな味だった。
「怖いわよ」
「え?」
拓也は驚いた。
「怖いの?」
「もちろん」
望は頷いた。
「お金が減るのは誰だって嫌よ」
「じゃあどうしてそんな平気そうなの?」
「平気じゃないわ」
望は少し考えた。
そして静かに言った。
「慣れているだけ」
拓也は言葉を失った。
望はこれまで何度も暴落を経験している。
リーマンショック。
コロナショック。
為替暴落。
株価急落。
市場は何度も人を恐怖に陥れてきた。
そしてそのたびに、多くの人が同じ行動を繰り返す。
欲で買う。
恐怖で売る。
その繰り返しだ。
「ねえ拓也」
「うん」
「昨日までみんな何て言ってた?」
「え?」
「絶対上がるって言ってたでしょう」
「まあ……」
「今日は?」
「終わったって」
「そういうことよ」
望は笑った。
「人間の感情なんて、その程度なの」
その日の昼。
拓也は会社へ向かった。
しかし仕事中も市場が気になって仕方がなかった。
昼休み。
社員食堂。
カレーライスの匂いが漂う中でも、話題は暗号資産一色だった。
「俺もう売った」
「マジ?」
「だって怖いだろ」
「でも今売るの遅くない?」
「いやいや、もっと下がるって」
みんな不安そうだった。
拓也も落ち着かない。
帰宅した頃には、さらに状況が悪化していた。
夕方のニュースでは、専門家たちが深刻な顔で解説している。
市場の恐怖指数は十一。
極度の恐怖。
投資家心理は完全に冷え込んでいた。
そして何より問題なのは――。
「やれやれ売り、か」
望が呟いた。
夕食は肉じゃがだった。
甘辛い醤油の香りが部屋に広がる。
拓也は意味が分からず顔を上げた。
「やれやれ売り?」
「昔、高値で買った人たちがいるでしょう?」
「うん」
「ずっと含み損だったの」
望はじゃがいもを箸で割った。
ほくほくと湯気が立つ。
「その人たちはずっと思っていたのよ」
『元の値段まで戻ったら売ろう』って」
「ああ……」
拓也も理解した。
「価格が戻った」
「だから売る」
「それがやれやれ売り」
望は頷く。
「やっと助かった、やれやれってね」
しかし問題は、それが何万人もいることだった。
売り。
売り。
売り。
市場には売り注文が溢れ始める。
その結果。
価格はさらに下がる。
下がるからまた売る。
そしてまた下がる。
恐怖が恐怖を呼ぶ連鎖だった。
「人間って面白いわよね」
望が言った。
「上がっている時はもっと欲しくなる」
「下がると今度は全部捨てたくなる」
「でも本当は、どちらも同じ感情なの」
拓也は静かに聞いていた。
窓の外では夕焼けが街を赤く染めている。
テレビでは相変わらず暴落ニュースが流れていた。
アナウンサーの緊張した声。
赤いチャート。
専門家の解説。
世界中が騒いでいる。
けれど食卓には温かい肉じゃががあり、炊き立てのご飯があり、味噌汁の香りがあった。
望は穏やかにお茶をすすった。
「大丈夫」
そう言って微笑む。
「相場はこういうものだから」
その言葉は市場に向けたものなのか。
それとも不安でいっぱいの拓也に向けたものなのか。
拓也には分からなかった。
ただ一つだけ確かなことがあった。
テレビの中の専門家たちよりも。
ネットで騒いでいる誰よりも。
今、自分の目の前で静かにお茶を飲んでいる望の方が、ずっと落ち着いて見えたのだった。




