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第21話 暗雲、そして「7万ドル」の崩壊

第21話 暗雲、そして「7万ドル」の崩壊


六月の終わりだった。


窓の外では梅雨の雨が静かに降り続いている。アパートのベランダに干された洗濯物は室内へ移され、リビングには柔軟剤の甘い香りが漂っていた。


望は夕食の後片付けを終え、温かいほうじ茶を湯呑みに注いだ。食卓には食べ終えたばかりの鶏の照り焼きと、ほうれん草のおひたし、豆腐とわかめの味噌汁の名残が残っている。


「今日の照り焼き、すごく美味しかったよ」


拓也が満足そうにお腹をさすった。


白いワイシャツの袖をまくり上げ、くつろいだ様子でソファに腰を下ろしている。


「ありがとう。特売だったのよ」


望は微笑みながら食器を重ねた。


その時だった。


拓也のスマートフォンから甲高い通知音が鳴った。


「あっ」


拓也が慌てて画面を見る。


最近の彼は、少額ながら積立投資を始めていた。毎月のお小遣いの範囲で、少しずつ投資信託や暗号資産を買っている。


「どうしたの?」


「また上がってる」


拓也の顔が明るくなる。


「ほら見て。ビットコイン」


望も画面を覗き込んだ。


確かに上昇している。


ニュースサイトも暗号資産一色だった。


『過去最高値更新』


『新時代の資産形成』


『今からでも遅くない』


そんな文字が並んでいる。


「もっと買っておけば良かったなあ」


拓也が苦笑した。


「先月迷ったんだよ。あと十万円だけ追加しようかなって」


「でも買わなかったのよね」


「うん。結局怖くて」


望は静かに湯呑みを持ち上げた。


投資は悪いものではない。


だが、人間は利益が出始めると不思議なほど欲深くなる。


もう少し。


あと少し。


その気持ちが冷静な判断を奪っていく。


その危うさを、望は何度も見てきた。


翌日。


玲奈から電話がかかってきた。


「望さん!」


開口一番、興奮した声だった。


「聞いた!? ビットコイン!」


「聞いたわ」


「すごいのよ! 私ね、三か月前に買った分だけで結構増えてるの!」


玲奈は嬉しそうだった。


以前の彼女ならブランドバッグやアクセサリーの話ばかりしていた。


しかし最近は投資動画に夢中らしい。


「会社の同僚もみんな買ってるの」


「そう」


「専門家も十万ドル行くって言ってるし!」


望は少しだけ眉をひそめた。


市場が盛り上がる時ほど、人は強気になる。


誰もが成功する未来しか見なくなる。


それは昔から変わらない。


チューリップバブルも。


ITバブルも。


不動産バブルも。


いつだって同じだった。


その夜。


望は家計簿を確認していた。


ノートには細かい数字が並んでいる。


食費。


光熱費。


積立額。


老後資金。


将来の介護費用。


すべてを確認してから万年筆を置いた。


時計は午後十一時を回っていた。


外では雨がさらに強くなっている。


ザーッという音が窓を叩いていた。


その時だった。


テーブルの上のスマートフォンが突然震えた。


ピコン。


見慣れた通知音。


しかし内容を見た瞬間、望の目が細くなった。


ビットコイン価格急落。


七万ドル割れ。


望は画面を凝視した。


数分後。


また通知。


さらに下落。


さらに通知。


さらに下落。


世界中の市場が悲鳴を上げ始めていた。


海外ニュースが次々と更新される。


大口投資家の動き。


巨大ファンドの売却観測。


SNS上では恐怖と怒号が飛び交っていた。


「嘘だろ」


「終わった」


「助けてくれ」


「まだ下がる」


そんな言葉が画面を埋め尽くしている。


望は静かにソファへ腰を下ろした。


隣で寝転がっていた拓也が顔を上げる。


「どうしたの?」


望はスマホを見せた。


拓也の顔色が変わる。


「えっ……」


画面の数字は真っ赤だった。


先ほどまで上昇を続けていた市場が、一転して奈落へ向かって落下している。


「七万ドル割ったの?」


「ええ」


「そんな……」


拓也が言葉を失う。


テレビをつけると経済ニュースでも緊急速報が流れていた。


キャスターの緊張した声。


赤いチャート。


慌ただしく切り替わる数字。


リビングの空気が一気に重くなる。


窓の外では雷が鳴った。


ゴロゴロという低い音が夜空を震わせる。


拓也は落ち着かない様子でスマホを何度も確認していた。


「大丈夫かな」


「何が?」


「市場」


望は小さく息を吐いた。


そして湯呑みに残っていたほうじ茶を口に運ぶ。


少し冷めていたが、香ばしい香りは変わらない。


「拓也」


「うん」


「相場は上がり続けることもなければ、下がり続けることもないの」


「……」


「でもね」


望は再び画面を見た。


赤く染まった数字。


世界中の投資家たちの悲鳴。


膨らみ過ぎた期待。


そして恐怖。


それらが一気に噴き出そうとしていた。


長年数字を見続けてきた望には分かる。


これはまだ始まりに過ぎない。


本当のパニックはこれからやって来る。


望は静かに呟いた。


「……始まった」


窓の外で稲妻が走った。


その白い光が、一瞬だけ暗いリビングを照らし出した。


次は第22話「やれやれ売りの連鎖」で、暴落が本格化し、拓也と玲奈の反応の違いを描きながら不穏さを強めていけます。



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