第19話 父からの手紙
第19話 父からの手紙
十月の終わりだった。
朝から柔らかな日差しが差し込んでいる。
空は高く澄み渡り、窓を開けると金木犀の香りが風に乗って流れ込んできた。近所の公園では子供たちの笑い声が聞こえ、どこかの家から秋刀魚を焼く香ばしい匂いが漂ってくる。
平和な休日だった。
拓也は朝から義母を連れて買い物へ出かけている。
「お昼は弁当買って帰るから」
そう言って出て行った。
家には望一人。
珍しく静かな時間だった。
洗濯物を干し終えた望は、押し入れの整理を始めた。
冬布団を出そうと思ったのだ。
押し入れの奥には古い段ボール箱が積まれている。
その一つに手を伸ばした時だった。
箱の側面に書かれた文字が目に入った。
『父の遺品』
望の手が止まった。
何年も開けていない箱だった。
埃が薄く積もっている。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
父が亡くなってから、もうずいぶん経つ。
それでも時々、声を思い出すことがあった。
「……久しぶりだな」
望は箱を居間まで運んだ。
テープは変色し、端が剥がれかけている。
ゆっくり開く。
古い紙の匂いがふわりと立ち上った。
懐かしい匂いだった。
中には父が使っていた万年筆。
古い手帳。
使い込まれた財布。
眼鏡ケース。
写真。
そして何冊ものノート。
望は一つ一つ取り出していく。
父は几帳面な人だった。
家計簿も手帳も綺麗な字で書かれている。
「本当に真面目な人だったな」
思わず笑ってしまう。
その時だった。
ノートの間から一通の封筒が落ちた。
白い封筒。
少し黄ばんでいる。
表には父の字。
『望へ』
望の心臓がどくりと鳴った。
手が震える。
父の字だった。
間違いない。
何度も見てきた字。
子供の頃、通知表にサインしてくれた字。
誕生日カードに書いてくれた字。
そのままだった。
望はゆっくり封を開けた。
中には便箋が入っている。
父の字でびっしり書かれていた。
涙が出そうになる。
まだ読んでもいないのに。
望は深呼吸した。
そして読み始める。
『望へ。
この手紙を読んでいる時、私はもういないかもしれない』
そこまで読んだだけで視界が滲んだ。
父らしい書き出しだった。
少し不器用で。
少し照れくさそうで。
優しい。
望は続きを読む。
『お前は昔から人の気持ちを考えすぎる子だった』
望は苦笑した。
本当にそうだった。
周囲の顔色ばかり見ていた。
嫌われたくなかった。
迷惑をかけたくなかった。
だから我慢することが多かった。
『それは長所でもあるが、時々お前自身を苦しめる』
望は目を閉じた。
まるで今の自分を見ているみたいだった。
義母との関係。
玲奈との関係。
専業主婦としての日々。
自分を後回しにしてきた時間。
父は分かっていたのだろうか。
ずっと昔から。
便箋を握る指に力が入る。
続きを読む。
『誰かに依存しなくても生きていける人になりなさい』
望の涙がぽたりと落ちた。
便箋に小さな染みができる。
窓の外では風が木の葉を揺らしていた。
父の声が聞こえた気がした。
あの日の夕暮れ。
高校生だった望。
進路に悩んでいた。
「女の子だから結婚すればいいかな」
何気なくそう言った時。
父は少し怒った。
「結婚はしてもいい」
「でもな」
「誰かに養ってもらうために結婚するな」
その言葉を思い出す。
父は続けた。
『お金を持ちなさい』
『知識を持ちなさい』
『自分で考える力を持ちなさい』
『そうすれば誰かを愛しても、依存せずに済む』
望は顔を覆った。
涙が止まらない。
父はお金の話をよくした。
けれど守銭奴ではなかった。
お金そのものではなく、生き方を教えようとしていたのだ。
思い返せばそうだった。
ビットコインを買った時も。
父の言葉が頭にあった。
何かあった時。
自分で立てるように。
誰かにすがらなくて済むように。
父は未来を残そうとしていたのだ。
通帳ではなく。
株でもなく。
考え方を。
生き方を。
その時、玄関が開く音がした。
「ただいまー」
拓也だった。
義母も一緒らしい。
「望?」
返事がないことに気付いたのだろう。
居間へやって来る。
そして涙を流している望を見て慌てた。
「どうした!?」
望は首を振った。
「大丈夫」
「全然大丈夫じゃないだろ」
義母も心配そうに近寄る。
「何かあったの?」
望は便箋を見せた。
「お父さんの手紙です」
二人は静かになった。
しばらく誰も話さない。
秋の日差しだけが部屋を照らしている。
やがて拓也が隣に座った。
「どんなこと書いてあった?」
望は少し笑った。
涙で声がかすれる。
「自立しなさいって」
拓也は頷いた。
「お義父さんらしいな」
「そうですね」
望は窓の外を見た。
青空が広がっている。
父はもういない。
会うこともできない。
声を聞くこともできない。
それでも今日、父に会えた気がした。
父が残したのは財産ではなかった。
大金でもなかった。
生き方だった。
人に頼るなという意味ではない。
誰かと支え合いながらも、自分の足で立てる人になれという願いだった。
望は便箋を胸に抱いた。
窓から吹き込む秋風が優しい。
遠くで子供たちの笑い声が聞こえる。
父はきっと喜んでくれるだろう。
昔より少しだけ、自分の足で立てるようになった娘の姿を。
そう思うと、不思議と涙の奥に温かさが広がっていった。




