第18話 玲奈の挑戦
第18話 玲奈の挑戦
九月の初めだった。
夏の名残がまだ街に残っている。
駅前の花壇では赤いサルビアが咲き、夕方になると少しだけ涼しい風が吹くようになっていた。
望はスーパーの袋を提げて帰宅する途中だった。
ナス、豆腐、豚こま肉。
今夜は麻婆茄子にする予定だ。
そんな時、スマートフォンが震えた。
画面を見る。
玲奈だった。
『助けて』
望は思わず立ち止まった。
玲奈からそんな連絡が来ることは珍しい。
慌てて電話をかける。
「もしもし?」
玲奈の声はどこか疲れていた。
「望さん……」
「どうしたんですか?」
「家計簿が三日で終わった」
望はしばらく黙った。
そして吹き出した。
「え?」
「三日坊主」
玲奈は本気で落ち込んでいるらしい。
「笑わないでよ」
「すみません」
「私、真面目にやったのよ」
望は笑いをこらえる。
「それで?」
「四日目にレシートなくした」
「はい」
「五日目に書くの忘れた」
「はい」
「六日目にやる気なくなった」
望はとうとう声を出して笑った。
玲奈もつられて笑う。
以前なら考えられない会話だった。
一週間後。
二人は駅前の喫茶店にいた。
コーヒーの香ばしい香りが漂う。
窓際の席には柔らかな午後の日差しが差し込んでいた。
玲奈はノートを広げている。
その表紙には大きな字で書かれていた。
『家計簿チャレンジ』
「本気ですね」
望が言う。
「本気よ」
玲奈は真顔だった。
だがページをめくると三日分しか書いていない。
望はまた吹き出した。
「だから笑わないで!」
「すみません」
玲奈も笑っていた。
店員がパンケーキを運んでくる。
甘いバターの香り。
メープルシロップの香ばしい匂い。
玲奈はそれを見てため息をついた。
「ほら」
「何ですか?」
「これよ」
玲奈はパンケーキを指差した。
「千百円」
「はい」
「高い」
「そうですね」
「でも食べたい」
「分かります」
玲奈は頬杖をつく。
「私ね」
窓の外を見ながら言った。
「数字見るの嫌いだったんだな」
望は静かに聞いていた。
玲奈は続ける。
「ずっとお金のこと考えてないふりしてた」
「……」
「請求書も後回し」
「……」
「カード明細も見ない」
望は少し胸が痛くなった。
怖かったのだろう。
現実を見るのが。
「見たら嫌な気持ちになるから」
玲奈が苦笑する。
「だから見ない」
「分かります」
「本当?」
「私も昔そういう時ありました」
玲奈は少し驚いた顔をした。
「望さんでも?」
「ありますよ」
「完璧じゃないんだ」
「全然」
二人は笑った。
その夜。
玲奈は自宅のテーブルに座っていた。
部屋は静かだった。
壁時計の音だけが聞こえる。
目の前にはレシートの山。
コンビニ。
ドラッグストア。
カフェ。
ネット通販。
ブランドショップ。
見たくない。
正直、逃げたい。
テレビをつけようかと思う。
動画を見ようかとも思う。
だが玲奈は深呼吸した。
そして一枚ずつ並べ始めた。
「うわ……」
思わず声が漏れる。
コンビニだけで一万二千円。
カフェ代八千円。
ネット通販一万五千円。
想像以上だった。
玲奈は頭を抱えた。
「何やってるの私」
誰もいない部屋で呟く。
その時だった。
スマホが鳴った。
望からだった。
『順調ですか?』
玲奈はすぐ返信する。
『現実がつらい』
返信はすぐ来た。
『正常です』
玲奈は思わず笑った。
それから少しずつ続けた。
翌日も。
その次の日も。
何度も挫折した。
三日続いて一日休む。
また二日続いて忘れる。
それでも以前とは違った。
完全にはやめなかった。
十月になった。
空は高くなり、金木犀の香りが街に漂い始めていた。
玲奈は久しぶりに望の家を訪ねる。
居間では義母がみかんを剥いていた。
「いらっしゃい」
「こんにちは」
玲奈は少し誇らしげな顔をしていた。
バッグからノートを取り出す。
「見て」
望はページをめくった。
びっしり書かれている。
支出。
食費。
固定費。
娯楽費。
途中で字が雑になっている日もある。
空白の日もある。
だが確かに続いていた。
「すごい」
望は素直に言った。
玲奈は照れたように笑う。
「まだ全然だけどね」
義母も覗き込んだ。
「頑張ったじゃない」
玲奈は少し目を伏せる。
「初めてだったの」
「何が?」
望が尋ねる。
玲奈は静かに答えた。
「自分自身と向き合うの」
部屋が少し静かになった。
玲奈は窓の外を見る。
秋空が広がっている。
昔の自分なら、もっと稼げばいいと思っていた。
もっと高い物を持てばいいと思っていた。
もっと人に羨ましがられれば満たされると思っていた。
でも違った。
足りなかったのはお金ではない。
自分の現実を見る勇気だった。
「私ね」
玲奈は笑う。
「最近、コンビニ行く回数減ったの」
「へえ」
「ネット通販も減った」
「いいですね」
「でもね」
玲奈は少し嬉しそうだった。
「前より不安が減った」
望は頷いた。
それが一番大きな変化なのだろう。
家計簿は魔法じゃない。
借金が消えるわけでもない。
急にお金持ちになるわけでもない。
それでも数字を見つめることで、人は少しだけ現実と仲直りできる。
帰り際。
夕焼けが街を赤く染めていた。
玲奈は空を見上げる。
「私、まだ頑張れそう」
望は微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
玲奈は頷いた。
完璧ではない。
失敗もする。
三日坊主にもなる。
それでも前に進むことはできる。
秋風が優しく吹き抜ける中、玲奈の足取りは以前よりずっと軽くなっていた。




