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第17話 見えない安心

第17話 見えない安心


八月の夕暮れだった。


窓の外では蝉が最後の力を振り絞るように鳴いている。昼間の暑さはまだ残っているが、風の中にはほんの少しだけ秋の気配が混じり始めていた。


望はベランダに干した洗濯物を取り込んでいた。


太陽の匂いを吸い込んだタオルはふわりと温かい。


空は茜色に染まり始めている。


「望ー」


居間から拓也の声が聞こえた。


「なんですか?」


「今月も入った」


望は苦笑する。


まただ。


最近の拓也は月末になると同じことを言う。


居間へ入ると、拓也がノートパソコンの前で嬉しそうな顔をしていた。


「見て」


「はいはい」


画面には積立投資の口座が表示されている。


毎月一万円。


半年前に始めた積立だ。


「今月で七回目」


「そうですね」


「なんか達成感ある」


まるで夏休みのラジオ体操カードを埋めている子供みたいだった。


望は思わず笑った。


「金額はそんなに増えてませんよ」


「分かってる」


拓也は頷く。


実際、資産は劇的には増えていなかった。


ニュースでは相変わらず株価が上がった下がったと騒いでいる。


世界情勢も不安定だ。


それでも積立口座の数字は、少しずつゆっくり増えていた。


「不思議だな」


拓也が言う。


「何がですか?」


「昔だったらもっと焦ってた」


望はその言葉に少し驚いた。


確かにそうだ。


半年前の拓也なら毎日値動きを確認していただろう。


上がれば喜び。


下がれば落ち込む。


まるでジェットコースターみたいだった。


今は違う。


週に一回見るかどうかだ。


「慣れたんじゃないですか」


「そうかも」


その時、義母が麦茶を持ってやって来た。


グラスの表面には細かな水滴がついている。


「何見てるの?」


「積立」


「増えた?」


拓也は首を傾げた。


「少しだけ」


義母は笑う。


「じゃあ合格ね」


「そんなもんかな」


「そんなもんよ」


三人で笑った。


夕食は冷しゃぶだった。


氷水で締めた豚肉に大葉とみょうがを添える。


ポン酢の爽やかな香りが食欲を刺激した。


キュウリの浅漬け。


トマト。


枝豆。


夏らしい食卓だった。


食事をしながら、拓也が突然言った。


「そういえば最近ケンカしてないな」


望は箸を止めた。


確かにそうだった。


以前は些細なことで言い争いになっていた。


電気代。


食費。


急な出費。


義母の通院。


将来への不安。


お金の話になると空気が重くなった。


だが今は違う。


もちろん問題が消えたわけではない。


電気代は高い。


物価も上がっている。


将来だって分からない。


それでも不思議と以前ほど不安ではなかった。


「なんでだろうな」


拓也が呟く。


義母が笑う。


「話すようになったからじゃない?」


その言葉に望ははっとした。


そうかもしれない。


昔は一人で抱えていた。


家計簿も。


節約も。


将来の心配も。


全部一人だった。


だから苦しかった。


今は違う。


月に一度の投資会議。


家計の確認。


お金の相談。


たったそれだけのことなのに、心が軽くなっていた。


食後。


望は一人で食器を洗っていた。


蛇口から流れる水の音。


洗剤の香り。


窓の外では虫たちが鳴いている。


その時、背後から声がした。


「手伝うよ」


拓也だった。


自然な口調だった。


もう珍しくもない。


望は皿を渡した。


二人で並んで洗い物をする。


食器が触れ合う小さな音が心地いい。


「なあ」


拓也が言った。


「ん?」


「俺さ」


少し照れくさそうだった。


「最初、投資って金持ちになるためのものだと思ってた」


望は笑う。


「私も昔はそうでした」


「でも違うな」


「どう違うんですか?」


拓也は少し考える。


そして言った。


「安心を買うものなのかも」


その言葉を聞いた瞬間、望の胸が少し熱くなった。


まさにそれだった。


通帳の数字だけではない。


将来への安心。


話し合える安心。


助け合える安心。


お金があるから安心なのではなく、備えているという事実が安心をくれる。


洗い物を終えた頃には空はすっかり暗くなっていた。


夜風が少しだけ涼しい。


望はベランダへ出た。


住宅街の灯りが静かに輝いている。


遠くで花火の音が聞こえた。


どこかの夏祭りだろうか。


夜空に小さな光が咲いては消える。


望は手すりにもたれた。


半年前。


積立を始めた時。


もっとお金が増える話だと思っていた。


けれど実際に増えたのは別のものだった。


夫婦の会話。


家族の信頼。


未来への希望。


そして安心。


目には見えない。


数字にもならない。


けれど確かに存在するもの。


「何見てるの?」


後ろから拓也が声をかける。


「花火です」


「どこ?」


「見えませんね」


二人で笑った。


音だけの花火だった。


それでも不思議と楽しい。


拓也は隣に並ぶ。


肩が少し触れた。


「来月も続ける?」


「もちろん」


「よし」


拓也は頷いた。


その横顔は穏やかだった。


億万長者になったわけではない。


資産が何倍にもなったわけでもない。


それでも望は思う。


投資とは、お金を積み立てるだけではない。


安心を積み立てることでもあるのだと。


夜風が優しく吹き抜ける。


その風は、少しだけ秋の匂いがした。



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