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第16話 初めての暴落

第16話 初めての暴落


二月の終わりだった。


朝から冷たい雨が降っている。


灰色の雲が空を覆い、窓ガラスを叩く雨粒が筋を描いて流れていた。暖房の効いた居間では、義母が編み物をしながらテレビを見ている。


望は台所でほうれん草のおひたしを作っていた。


茹で上がった葉から湯気が立ちのぼり、かつお節の香りがふわりと広がる。


その時だった。


テレビのニュースキャスターの声が一段高くなった。


「本日の東京市場は全面安となり、大幅な株価下落となりました――」


義母が顔を上げる。


「また下がったの?」


画面には真っ赤な数字が並んでいた。


株価急落。


世界同時株安。


投資家に広がる不安。


そんな文字が次々と表示される。


その夜。


会社から帰宅した拓也は、玄関を開けるなりスマホを取り出した。


「ただいま!」


いつもより声が大きい。


そして靴も脱ぎきらないうちに居間へ飛び込んだ。


「望!」


「おかえりなさい」


「大変だ!」


望は味噌汁をよそいながら振り返った。


「何がですか?」


「下がってる!」


「何が?」


「全部!」


望は吹き出しそうになった。


食卓には鯖の味噌煮と菜の花のおひたしが並んでいる。


甘辛い味噌の香りが漂い、炊きたてのご飯からは白い湯気が立っていた。


しかし拓也の頭の中は食事どころではないらしい。


スマホを差し出してくる。


「見て!」


望は画面を覗いた。


確かに下がっていた。


夫婦で始めた積立投資も赤い数字になっている。


マイナス表示だった。


「なるほど」


「なるほどじゃないよ!」


拓也は青ざめている。


「減ってる!」


「そうですね」


「どうする!?」


「ご飯食べましょう」


「そんな場合か!」


義母が横で笑い出した。


「拓也、顔が真っ青よ」


「笑い事じゃないんだよ母さん!」


義母は肩を震わせる。


「数千円でしょう?」


「数千円でもお金はお金だ!」


望は席についた。


そして味噌汁を一口飲む。


昆布と味噌の優しい香りが体に染みる。


拓也は落ち着かない。


スマホを何度も見ている。


「売った方がいい?」


望は湯呑みを手に取った。


温かいお茶から立つ湯気を見つめながら笑う。


「だから勉強が必要なの」


拓也はうなだれた。


「またその台詞」


「だって本当だもの」


食卓に静かな空気が流れる。


雨音が窓を叩いていた。


望はゆっくり話し始めた。


「拓也さん」


「なに」


「積立を始めた時、何年やる予定でした?」


「え?」


「何年ですか?」


拓也は考える。


「二十年とか?」


「そうですよね」


「うん」


「今は何日目ですか?」


拓也は黙った。


義母が代わりに答える。


「一か月」


望が頷く。


「まだスタート地点です」


拓也は頭を抱えた。


「でも減ってるじゃん」


「減りますよ」


「そんな普通に言う?」


「上がる日もあるし下がる日もあります」


望は穏やかだった。


だが実は自分も昔は同じだった。


初めてビットコインを買った頃。


値動きが気になって眠れなかった。


朝起きて確認。


昼に確認。


夜も確認。


数字に振り回され続けた。


「実はね」


望は少し笑った。


「私も昔、暴落した時に泣きそうになった」


拓也が顔を上げる。


「本当に?」


「本当に」


「意外だな」


「人間ですから」


義母がくすっと笑う。


食後。


拓也はソファに座りながら再びスマホを見る。


数字は変わらない。


むしろ少し下がっている。


胸がざわざわした。


心臓の奥が落ち着かない。


まるで試験結果を待っているような気分だった。


その時だった。


望が一冊のノートを持ってきた。


「これ見ます?」


「何それ」


「昔の記録」


開いてみる。


そこには望の字で書かれた数字が並んでいた。


資産額。


購入価格。


損益。


そしてあるページで拓也は目を見開いた。


「えっ」


大きな赤字が書かれている。


「こんなに減ったの?」


「減りました」


「嘘だろ」


「本当です」


拓也は絶句した。


今の損失とは比べものにならない。


何十万円ものマイナスだった。


「その時どうしたの?」


望は笑った。


「ご飯食べた」


「は?」


「お風呂入った」


「は?」


「寝た」


義母が吹き出した。


「最高ね」


拓也は呆れる。


「それだけ?」


「それだけ」


望は真面目な顔になった。


「相場は自分で動かせません」


「うん」


「でも自分の行動は決められる」


拓也は黙り込んだ。


窓の外では雨が降り続いている。


ニュースも不安ばかり流していた。


だが不思議と少し落ち着いてきた。


問題は数字ではなかったのだ。


減った金額でもない。


恐怖だった。


失敗するかもしれないという不安。


損をするかもしれないという恐れ。


その感情が自分を振り回していた。


「なるほどな」


拓也がぽつりと言う。


「何です?」


「投資って」


しばらく考えてから続けた。


「お金との戦いじゃないんだな」


望は微笑んだ。


「そうですね」


「自分との戦いか」


義母がみかんを剥きながら言う。


「人生も同じじゃない?」


二人は顔を見合わせる。


確かにそうだった。


怒り。


不安。


嫉妬。


焦り。


人はいつも自分の心に振り回される。


投資もまた同じなのかもしれない。


その夜。


寝る前に拓也はもう一度スマホを見た。


数字はまだ赤い。


けれど昼ほど怖くはなかった。


そして画面を閉じる。


代わりに望の寝顔を見る。


穏やかな寝息が聞こえる。


外では雨が静かに降っていた。


相場は明日も動く。


上がるかもしれない。


下がるかもしれない。


でも今は眠ろう。


拓也はそう思った。


初めての暴落は終わっていない。


だが本当の戦いが数字の向こう側にあることを、彼は少しだけ理解し始めていた。



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