第12話 義母の年金通帳
第12話 義母の年金通帳
十一月の終わりだった。
朝から空は薄い灰色の雲に覆われ、窓ガラスには冷たい雨粒が当たっていた。望は台所で湯気の立つ味噌汁をかき混ぜていた。昆布と鰹節の香りが部屋中に広がり、鍋の中では大根と油揚げが静かに揺れている。
炊きたてのご飯の甘い匂いも漂っていた。
居間では義母がこたつに入りながら新聞を読んでいる。
「今日は寒いわねえ」
「そうですね」
望は焼き鮭を皿に盛り付けた。
皮がぱちぱちと音を立て、香ばしい匂いが食欲を誘う。
拓也は出勤前の支度をしながらコーヒーを飲んでいた。
「母さん、病院の日だっけ?」
「来週よ」
義母はそう答えたが、その表情はどこか暗かった。
朝食が終わった後だった。
拓也が会社へ向かい、家の中が静かになる。
雨音だけが屋根を叩いている。
望は食器を洗い終え、温かいほうじ茶を淹れた。
その時だった。
義母がぽつりと言った。
「私も老後が不安でね」
望は手を止めた。
義母は湯呑みを見つめている。
茶色い液面に窓からの光が揺れていた。
「今さら何を言ってるんだろうって思うでしょ?」
「そんなことありません」
「年金はあるし、住む家もある。でもね……」
義母は笑った。
どこか寂しそうな笑顔だった。
「病気になったらどうしようとか、介護が必要になったらどうしようとか、そんなことばかり考えちゃうの」
望は静かに聞いていた。
以前なら義母はこんな話をしなかった。
弱音を見せる人ではなかったからだ。
「玲奈には言えないのよ」
義母が続ける。
「心配かけたくないし」
「拓也さんには?」
「男の子はねえ」
義母は苦笑した。
「親の老後なんて考えたくないのよ」
望も少し笑った。
それは少し分かる気がした。
不安というものは、数字が見えない時ほど大きくなる。
漠然としているから怖いのだ。
望は立ち上がった。
「お義母さん」
「なに?」
「年金通帳、見せてもらえます?」
義母は目を丸くした。
「通帳?」
「一緒に整理してみませんか」
昼過ぎ。
食卓の上には通帳が並んでいた。
年金振込口座。
普通預金。
定期預金。
保険の資料。
病院の領収書。
介護保険の書類。
まるで小さな役所みたいだった。
義母は何度もため息をつく。
「こんなの見たくないわ」
「大丈夫です」
望はノートを開いた。
「一つずつ見ましょう」
雨はまだ降っている。
部屋の中にはストーブの暖かさが広がり、みかんの甘い香りが漂っていた。
望は数字を書き出していく。
年金収入。
医療費。
光熱費。
食費。
介護保険料。
固定資産税。
義母は不安そうに見守っていた。
一時間。
二時間。
少しずつ整理が進む。
やがて望は顔を上げた。
「思ったより大丈夫ですよ」
「え?」
義母が身を乗り出した。
「本当?」
「はい」
望は計算結果を見せた。
「もちろん贅沢はできません。でも今の生活なら十分維持できます」
義母は紙を見つめた。
何度も見つめた。
そして小さく呟いた。
「そうなの……?」
「そうです」
「私、足りなくなると思ってた」
望は優しく笑った。
「数字で見ると意外と違うんですよ」
義母の目が少し潤んだ。
「ずっと怖かったの」
「はい」
「お金がなくなったらどうしようって」
「そうですよね」
「誰にも言えなかった」
望は胸が少し痛くなった。
この人もまた、不安を抱えていたのだ。
義母だから。
年上だから。
親だから。
強く見えていただけだった。
夕方になった。
拓也が帰宅する。
玄関から寒い風と共に入ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
「なんか紙だらけだな」
食卓を見て驚く。
義母は珍しく笑顔だった。
「家計診断してもらったのよ」
「は?」
「望さんに」
拓也は紙を見る。
数字がびっしり並んでいる。
「すげえ……」
「安心したわ」
義母が言った。
「まだ大丈夫なんだって」
拓也は望を見た。
「ありがとう」
その言葉は自然だった。
以前のような気まずさはない。
望は少し照れくさくなる。
その夜。
夕食は鶏肉と白菜の鍋だった。
湯気が立ち上る。
柚子の香りがふわりと広がる。
三人で鍋を囲みながら食べた。
体の芯まで温かくなる味だった。
食後。
義母が突然言った。
「私、家計簿つけてみようかしら」
望と拓也は顔を見合わせた。
「本当に?」
「うん」
義母は頷く。
「今まで面倒だと思ってたけど」
そう言って笑った。
「知らないから怖かったのかもしれない」
望はうれしくなった。
「じゃあ簡単なのから始めましょう」
「三日坊主になるかもよ」
「それでもいいですよ」
「笑わない?」
「笑いません」
義母は照れたように笑った。
翌朝。
望が起きると、食卓に一冊の小さなノートが置かれていた。
表紙には震える字で書かれている。
『おかねノート』
思わず笑ってしまう。
その時、台所に現れた義母が言った。
「昨日の牛乳代、もう書いたわよ」
少し誇らしげだった。
窓の外では雨が上がり、雲の切れ間から朝日が差し込んでいた。
光は食卓を明るく照らしている。
望は思った。
不安は消えない。
誰だって将来は怖い。
けれど見えないものを見えるようにすると、人は少し前へ進める。
家計簿はお金の記録だけではない。
安心を積み立てるための、小さな一歩なのかもしれなかった。




