表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
13/30

第12話 義母の年金通帳

第12話 義母の年金通帳


十一月の終わりだった。


朝から空は薄い灰色の雲に覆われ、窓ガラスには冷たい雨粒が当たっていた。望は台所で湯気の立つ味噌汁をかき混ぜていた。昆布と鰹節の香りが部屋中に広がり、鍋の中では大根と油揚げが静かに揺れている。


炊きたてのご飯の甘い匂いも漂っていた。


居間では義母がこたつに入りながら新聞を読んでいる。


「今日は寒いわねえ」


「そうですね」


望は焼き鮭を皿に盛り付けた。


皮がぱちぱちと音を立て、香ばしい匂いが食欲を誘う。


拓也は出勤前の支度をしながらコーヒーを飲んでいた。


「母さん、病院の日だっけ?」


「来週よ」


義母はそう答えたが、その表情はどこか暗かった。


朝食が終わった後だった。


拓也が会社へ向かい、家の中が静かになる。


雨音だけが屋根を叩いている。


望は食器を洗い終え、温かいほうじ茶を淹れた。


その時だった。


義母がぽつりと言った。


「私も老後が不安でね」


望は手を止めた。


義母は湯呑みを見つめている。


茶色い液面に窓からの光が揺れていた。


「今さら何を言ってるんだろうって思うでしょ?」


「そんなことありません」


「年金はあるし、住む家もある。でもね……」


義母は笑った。


どこか寂しそうな笑顔だった。


「病気になったらどうしようとか、介護が必要になったらどうしようとか、そんなことばかり考えちゃうの」


望は静かに聞いていた。


以前なら義母はこんな話をしなかった。


弱音を見せる人ではなかったからだ。


「玲奈には言えないのよ」


義母が続ける。


「心配かけたくないし」


「拓也さんには?」


「男の子はねえ」


義母は苦笑した。


「親の老後なんて考えたくないのよ」


望も少し笑った。


それは少し分かる気がした。


不安というものは、数字が見えない時ほど大きくなる。


漠然としているから怖いのだ。


望は立ち上がった。


「お義母さん」


「なに?」


「年金通帳、見せてもらえます?」


義母は目を丸くした。


「通帳?」


「一緒に整理してみませんか」


昼過ぎ。


食卓の上には通帳が並んでいた。


年金振込口座。


普通預金。


定期預金。


保険の資料。


病院の領収書。


介護保険の書類。


まるで小さな役所みたいだった。


義母は何度もため息をつく。


「こんなの見たくないわ」


「大丈夫です」


望はノートを開いた。


「一つずつ見ましょう」


雨はまだ降っている。


部屋の中にはストーブの暖かさが広がり、みかんの甘い香りが漂っていた。


望は数字を書き出していく。


年金収入。


医療費。


光熱費。


食費。


介護保険料。


固定資産税。


義母は不安そうに見守っていた。


一時間。


二時間。


少しずつ整理が進む。


やがて望は顔を上げた。


「思ったより大丈夫ですよ」


「え?」


義母が身を乗り出した。


「本当?」


「はい」


望は計算結果を見せた。


「もちろん贅沢はできません。でも今の生活なら十分維持できます」


義母は紙を見つめた。


何度も見つめた。


そして小さく呟いた。


「そうなの……?」


「そうです」


「私、足りなくなると思ってた」


望は優しく笑った。


「数字で見ると意外と違うんですよ」


義母の目が少し潤んだ。


「ずっと怖かったの」


「はい」


「お金がなくなったらどうしようって」


「そうですよね」


「誰にも言えなかった」


望は胸が少し痛くなった。


この人もまた、不安を抱えていたのだ。


義母だから。


年上だから。


親だから。


強く見えていただけだった。


夕方になった。


拓也が帰宅する。


玄関から寒い風と共に入ってきた。


「ただいま」


「おかえり」


「なんか紙だらけだな」


食卓を見て驚く。


義母は珍しく笑顔だった。


「家計診断してもらったのよ」


「は?」


「望さんに」


拓也は紙を見る。


数字がびっしり並んでいる。


「すげえ……」


「安心したわ」


義母が言った。


「まだ大丈夫なんだって」


拓也は望を見た。


「ありがとう」


その言葉は自然だった。


以前のような気まずさはない。


望は少し照れくさくなる。


その夜。


夕食は鶏肉と白菜の鍋だった。


湯気が立ち上る。


柚子の香りがふわりと広がる。


三人で鍋を囲みながら食べた。


体の芯まで温かくなる味だった。


食後。


義母が突然言った。


「私、家計簿つけてみようかしら」


望と拓也は顔を見合わせた。


「本当に?」


「うん」


義母は頷く。


「今まで面倒だと思ってたけど」


そう言って笑った。


「知らないから怖かったのかもしれない」


望はうれしくなった。


「じゃあ簡単なのから始めましょう」


「三日坊主になるかもよ」


「それでもいいですよ」


「笑わない?」


「笑いません」


義母は照れたように笑った。


翌朝。


望が起きると、食卓に一冊の小さなノートが置かれていた。


表紙には震える字で書かれている。


『おかねノート』


思わず笑ってしまう。


その時、台所に現れた義母が言った。


「昨日の牛乳代、もう書いたわよ」


少し誇らしげだった。


窓の外では雨が上がり、雲の切れ間から朝日が差し込んでいた。


光は食卓を明るく照らしている。


望は思った。


不安は消えない。


誰だって将来は怖い。


けれど見えないものを見えるようにすると、人は少し前へ進める。


家計簿はお金の記録だけではない。


安心を積み立てるための、小さな一歩なのかもしれなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ