第11話 投資って怖い?
第11話 投資って怖い?
秋の夜だった。
夕食の片付けを終えた望は、湯気の立つほうじ茶を二つの湯呑みに注いだ。香ばしい香りが台所いっぱいに広がる。窓の外では虫の声がかすかに聞こえ、住宅街は静かな夜に包まれていた。
食卓にはノートパソコンが一台。
その画面を、拓也はさっきから何度も見ていた。
「なあ……」
拓也が口を開く。
「やっぱり信じられないんだよな」
望は苦笑した。
「何が?」
「全部」
拓也は頭をかいた。
「だってさ、結婚して何年も一緒にいたのに、俺、望がそんな資産持ってるなんて全然知らなかったんだぞ」
望は肩をすくめた。
「聞かれなかったし」
「そういう問題じゃないだろ」
拓也はため息をついた。
画面にはビットコインの価格推移グラフが表示されている。
数年前なら信じられない金額だった。
今では、さらに大きな数字になっている。
「なあ」
拓也は少し身を乗り出した。
「俺も買った方がいいのかな?」
望は湯呑みを置いた。
そして静かに首を振る。
「焦って買う人が一番失敗するの」
「でも今後もっと上がるかもしれないだろ?」
「下がるかもしれない」
「うっ……」
「未来なんて誰にも分からないよ」
望は穏やかに笑った。
その笑顔は、以前のような我慢の笑顔ではない。
自分の意見を言える人の笑顔だった。
拓也は腕を組む。
「でもさあ、もし今買わなかったら損する気がするんだよ」
「それをね」
望は指を一本立てた。
「FOMOっていうの」
「ふぉも?」
「取り残される恐怖」
「そんな言葉あるのか」
「あるよ」
拓也は黙り込んだ。
確かにそうだった。
自分だけ儲け話に乗り遅れる。
自分だけ置いていかれる。
そんな焦りが胸の中で膨らんでいた。
望は棚から一冊の本を取り出した。
少しくたびれた投資の入門書だった。
「今日はこれ読もう」
「え?」
「投資の勉強会」
「今から?」
「今から」
拓也は本を見た。
派手な成功談でもない。
億万長者になる方法でもない。
地味な表紙だった。
「なんかもっとさ」
「うん」
「一週間で百万円儲かる方法とか」
「そんな本を信じる人がお金なくなるの」
「厳しいな」
「現実だから」
望は笑った。
二人で本を開く。
紙の匂いがほのかに漂う。
ページをめくる音だけが静かな部屋に響く。
『投資で最も大切なのは資産配分です』
拓也は顔をしかめた。
「地味だな」
「地味だね」
「全然ワクワクしない」
「投資って基本的に地味なの」
望はそう言いながらページをめくった。
昔を思い出す。
父が病院のベッドで言った言葉。
『お金は働かせなさい』
当時は意味が分からなかった。
百万円をビットコインに入れた時も、宝くじのような気持ちはなかった。
ただ、将来が不安だった。
結婚するかも分からない。
子供ができるかも分からない。
病気になるかもしれない。
だから少しだけ備えた。
それだけだった。
拓也が突然言った。
「なあ」
「ん?」
「望は怖くなかったの?」
「何が?」
「百万円入れた時」
望は少し考えた。
そして正直に答えた。
「怖かったよ」
「やっぱり」
「毎日価格見てた」
「だろうな」
「三割下がった時もあったし」
「えっ!?」
拓也は目を丸くした。
「売らなかったの?」
「売らなかった」
「なんで?」
「生活費じゃなかったから」
拓也は言葉を失った。
望は続ける。
「なくなったら困るお金だったら投資しちゃ駄目なの」
「なるほど……」
「生活費を賭けるのは投資じゃなくてギャンブル」
ほうじ茶の香りが漂う。
時計の針が静かに進む。
二人は再び本に目を落とした。
しばらくすると、風呂から上がった義母が居間へやってきた。
パジャマ姿で髪をタオルで拭いている。
「あら」
義母が驚いた顔をした。
「夫婦で何してるの?」
「勉強会」
望が答える。
「投資の?」
「そう」
義母は目をぱちぱちさせた。
「億万長者って毎日豪遊してると思ってたわ」
拓也が吹き出した。
「俺もそう思ってた」
望も笑う。
「残念でした」
義母は冷蔵庫から梨を取り出した。
秋の甘い香りが広がる。
三人で梨を切り分ける。
しゃりっとした音が心地いい。
「おいしい」
拓也が言う。
「うん」
望も頷く。
以前の食卓なら、こういう時間はなかった。
誰かが我慢していた。
誰かが気を遣っていた。
誰かが傷ついていた。
けれど今は違う。
完璧ではない。
それでも少しずつ変わっている。
拓也は本を閉じた。
「なあ、望」
「なに?」
「俺さ」
少し照れくさそうに笑う。
「投資より先に勉強することいっぱいあるな」
望は吹き出した。
「そうかもね」
「家事とか」
「うん」
「家計簿とか」
「うん」
「人への感謝とか」
望は思わず笑顔になった。
窓の外では秋の虫たちが鳴いている。
派手な成功もない。
劇的な逆転もない。
けれど温かな灯りの下で、本を読みながら梨を食べるこの時間が、望には何より豊かに思えた。
投資の勉強は始まったばかりだ。
お金について。
人生について。
そして夫婦について。
二人はこれから、ゆっくり学んでいくのだった。




