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エピローグ 春の食卓

エピローグ 春の食卓


 三月の終わり。


 柔らかな春の陽射しが、リビングの窓から静かに差し込んでいた。


 ベランダでは、小さな鉢植えのローズマリーが風に揺れている。


 望はキッチンでいちごを洗いながら、小さく微笑んだ。


 水滴をまとった赤い実が、ガラスボウルの中でころころ転がる。


「望ー、これどこ置けばいい?」


 背後から拓也の声がした。


 振り返ると、スーパーの袋を両手いっぱいに抱えて立っている。


 薄いカーキ色のパーカーに、ラフなデニム姿。休日らしい格好だった。


「冷蔵のはこっち」

「お肉は下の段ね」


「了解」


 拓也は以前よりずっと自然にキッチンへ立つようになった。


 冷蔵庫を開けながら、


「あ、卵もう少しで切れそう」


 なんて言うようにもなった。


 そんな小さな変化が、望には不思議なくらい嬉しかった。


 今日は義母の和子と玲奈が家へ来ることになっていた。


 和子の退院祝いを兼ねた昼食会。


 望は朝から少し緊張していたが、以前みたいな重苦しさはない。


「カレー、焦がさないでよ?」


 望が笑うと、拓也が眉を寄せる。


「まだ言うの?」


「だってあの時、本当に焦げ臭かったし」


「初めてだったんだからしょうがないだろ」


 二人が笑っていると、インターホンが鳴った。


「はーい」


 玄関を開けると、和子が柔らかく笑った。


「こんにちは、望さん」


 薄い藤色のカーディガンに白いブラウス。以前より少し痩せたものの、顔色はだいぶ良くなっている。


 その隣には玲奈が立っていた。


 ベージュのロングコートに、小さな紙袋を抱えている。


「……こんにちは」


 少しだけ気まずそうだった。


「どうぞ、入ってください」


 望が笑うと、玲奈はほっとしたように息を吐いた。


「これ、お土産」


「ありがとう」


 紙袋からは、甘い焼き菓子の香りがふわりと漂う。


 以前なら、玲奈はこういう時もどこか上からだった。


 でも今は違う。


 食卓には、菜の花の和え物、ちらし寿司、蛤のお吸い物が並んでいた。


 春らしい彩りに、和子が嬉しそうに目を細める。


「まあ、綺麗ねぇ」


「蛤、高かったんじゃない?」


 玲奈が気を遣うように言う。


 望は笑った。


「今日はお祝いだから」


「……ありがとう」


 玲奈は少し俯く。


 その姿を見て、望はふと思う。


 人って変わるんだな、と。


 食事が始まる。


 和子はお吸い物を一口飲んで、ほっとした顔をした。


「優しい味」


「塩分少なめにしてあります」


「本当に望さんは気が利くわね」


 その言葉に、昔みたいな“当然”の響きはなかった。


 ちゃんと感謝があった。


 拓也がちらし寿司を食べながら言う。


「最近さ、俺コンビニ行かなくなった」


「え、珍しい」


 玲奈が笑う。


「家計簿見ると怖くて」


「やめてよ」


 望も笑ってしまう。


 以前なら、こんなふうに笑い合う空気はなかった。


 玲奈が湯呑みを持ちながらぽつりと言った。


「……私さ」


 みんなが顔を上げる。


 玲奈は少し迷うように視線を落とした。


「前、望さんにひどいこと言ってたよね」


 部屋が静かになる。


 窓の外では、小鳥の鳴き声が聞こえていた。


「専業主婦だから楽とか」

「時間あるとか」


 玲奈は苦く笑った。


「でも最近、自分で家のことやるようになって分かった」

「普通にめちゃくちゃ大変」


 拓也が苦笑する。


「だろ?」


「お兄ちゃんは今さら気づくの遅い」


「うるさい」


 少しだけ空気が和らぐ。


 玲奈は真っ直ぐ望を見た。


「……ごめんね」


 望はしばらく玲奈を見つめた。


 あんなに苦しかった言葉。


 何度も傷ついた。


 でも今は、不思議と怒りが薄れている。


「うん」


 望は静かに頷いた。


「もう大丈夫」


 玲奈の目が少し潤む。


 和子が嬉しそうに笑った。


「本当に良かったわぁ」


 食後。


 拓也が自分から食器を下げ始める。


「望、これ洗っとく」


「ありがとう」


 玲奈が驚いた顔をした。


「え、お兄ちゃん皿洗いしてるの?」


「するだろ普通に」


「昔絶対しなかったじゃん」


「……反省したんだよ」


 拓也がそう言って笑う。


 その横顔を見ながら、望は静かに思う。


 あの日、ちゃんと声を上げて良かった。


 ずっと怖かった。


 嫌われるのが怖しくて、

 空気を壊すのが怖しくて、


 ずっと我慢していた。


 でも、本当に壊れていたのは、自分の心だったのだ。


 夕方。


 和子と玲奈を見送ったあと、部屋に静けさが戻る。


 窓の外は、淡い夕焼けに染まっていた。


 キッチンでは、拓也が洗い終わった皿を拭いている。


「望」


「ん?」


「今日、楽しそうだった」


 望は少し笑う。


「うん」


「前より、よく笑うようになった」


 その言葉に、胸がじんわり温かくなる。


 望はふと窓の外を見た。


 春の風がカーテンを揺らしている。


 昔の自分は、“誰かのために我慢すること”が優しさだと思っていた。


 でも違った。


 自分を大切にしながら、

 相手とも向き合うこと。


 本当に必要だったのは、きっとそれだった。


 拓也が隣へ来る。


「コーヒー飲む?」


「飲む」


「今日は俺淹れる」


「また薄いんじゃない?」


「ひどいな」


 二人で笑う。


 部屋には、穏やかな空気が流れていた。


 もう望は、

 “夫の給料で食べてるだけの人”ではない。


 最初からずっと、

 誰かの人生を支えながら、

 自分の人生もちゃんと生きていた。


 そのことを、ようやくみんなが理解し始めていた。


 春の夕陽が、食卓を柔らかく照らしている。


 そこにはもう、

 冷たい沈黙も、

 見えない我慢もなかった。


 ただ、温かな日常だけが静かに続いていた。



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