1章 灯り⑥知らない痛み
前回のあらすじ
ラピス教国を脱出したリヒトはカタリーナを連れ、荒野を越えてオベリア部隊の元へ戻った。しかし、ラピス教国出身の彼女に対し、ローザたちは銃口を向けて警戒を露わにした。リヒトは彼女が信者ではなく、ヴィールから保護した存在だと説明する。疑念は晴れないままだったが、プラウドの助け舟もあり、ローザは一時的にカタリーナの同行を許可する。張り詰めた空気の中、リヒトはようやく息をついたのだった。
大きな球体のような移動施設――ステルスシェルが荒野を滑るように進んでいく。
駆動音はほとんど聞こえない。その巨体は反重力駆動によって地面から僅かに浮かび、荒れ果てた大地を音もなく進んでいった。
廊下の窓の外を眺めていたリヒトは掌の上に乗せた瑠璃色の石に視線を移した。
薄暗い室内灯を受けた石が静かに青い光を返していた。昨日の出来事が何度も脳裏を巡る。今まで自分の過去に繋がるものは何一つ存在しなかった。空っぽのまま戦い続けてきた。
リヒトは石を握りしめた。石の硬い感触が掌へ食い込む。
カタリーナ。彼女の顔を思い出した瞬間、胸の奥にあのざわつきが蘇った。澄んだ瞳。柔らかな声。思い出すだけで胸の奥がじんわりと熱を帯びる。しかし同時に、締め付けられるように苦しかった。何も思い出せないもどかしさ。手を伸ばせば届きそうなのに、霧の向こうに消えていくような感覚がずっとまとわりついている。まるで忘れていた感情を無理やり呼び起こされているようだった。
リヒトは小さく目を伏せ、長い息を吐いた。窓の外には灰色の荒野がどこまでも流れている。
「リヒト~。隊長が呼んでるよ。ちょっときて~」
深い思考が途切れる。振り返ると階段の踊り場からウルスラが顔を覗かせていた。可愛げのあるたまご型の輪郭にぱっちりとした丸い目。高い位置で結ばれたツインテールにはピンクと水色のリボンが飾られており、落ち着きなく身体を揺らすたびに、その髪と鮮やかなリボンが弾むように踊っていた。
小柄な体つきとあどけない顔立ちは年相応の幼さを感じさせる。じっとしていられない性分なのか、彼女は体を揺らしながら、リヒトへ向かって手を振っていた。明るく伸びのある声に促され、リヒトは小さく息をついた。そして、彼女に連れられるように二階の会議室に向かい、その扉を開けた。
部屋の中は中央を取り囲むように四つの長い机が設置されており、椅子が縦横に八席ずつ整然と並んでいる。壁の至るところに埋め込まれたモニターのブルーライトが室内を青白く照らしていた。不気味なほど静かな空間はどこか冷たく、息苦しい緊張感を漂わせている。
ローザはカタリーナの正面に座っていた。腕を組み、背筋を真っ直ぐ伸ばしたその姿には隙がない。ローザのロイヤルブルーの瞳がリヒトに向けられる。表情を動かさない彼女が今何を考えているのか読み取れなかった。
リヒトがローザの方へ歩き出すと、腕を組んでいた彼女は無言のままカタリーナの隣の席を指さした。その仕草に込められた意図をリヒトはすぐ理解する。
リヒトは小さく頷いてカタリーナの隣の椅子へ手を掛けた。しかし次の瞬間。
「ダメ~。ここは私の席ね」
間延びした明るい声と共にウルスラがするりとリヒトの腕の下を潜り抜け、その席へ勢いよく腰を下ろした。高い位置で結ばれたツインテールがふわりと揺れ、ピンクと水色のリボンが跳ねる。猫のような口角を上げた笑顔を浮かべ、彼女はカタリーナに身体を寄せた。
「カタリーナちゃん髪きれ~。あとなんかいい匂いする~」
張り詰めていた空気を無邪気に掻き回していく。警戒心がないのか、それとも空気を読んだ上でわざと崩しているのか。
ローザが呆れたように片手で顔を覆い、ため息をついていた。リヒトは結局、その隣の席に浅く腰掛けた。
「私はまだ納得していない。しかし連れてきてしまった以上仕方がない。だから私から条件を出す」
リヒトは小さく息を呑む。ローザが次の言葉を口にするまでの僅かな沈黙がいつもより長く感じられる。
「カタリーナにはバイオリモデルを受けてもらう」
彼女の言葉が耳に入った瞬間。リヒトは机の下で拳を強く握り込んだ。指先が軋み、爪が掌に食い込む。
バイオリモデル。致死率九割を誇る人体改造手術。脳裏に今まで見てきた失敗が次々と浮かび上がる。骨が皮膚を突き破り、叫びながら動かなくなった隊員。飛び散る血。耳に焼き付いた悲鳴。冷え切った実験室の光景。成功する未来が、まるで想像できなかった。
やっと掴んだのに。自分の過去へ繋がる、たった一つの手掛かりを。ここで失えば、もう二度と届かない気がした。抑え込もうとしても動揺が黒い瞳に滲み出る。
「待ってください。戦闘要員にならなくても、補給係とか色々あるじゃないですか!」
「だめだ。私が必要だと判断した。ヴィールから身を守れる能力があると聞いた。それが本当なら彼女は戦力になる。――アトルサに移住する条件はこれ以外認められない」
隊長としての声だった。情を切り捨て、合理だけを並べた言葉。だからこそ反論が難しい。リヒトは言葉を失う。脳裏に、あの時の自分の声が蘇った。
「役に立てば、お前の命は俺が守る」
自分で口にした言葉なのに、今はそれが喉へ棘のように刺さっていた。自分が彼女をここへ連れてきた。それなのに。今の自分では何一つ状況を変えられない。拳を握る手にさらに力が入る。爪が掌へ深く食い込み、鈍い痛みが走った。どうすればいい。何を言えばいい。
ローザからの通達が終わった後、リヒトはカタリーナの顔をまともに見ることができなかった。いつもならそんなこと気にしないはずなのに。
会議室を出た後、リヒトは足を引きずるようにステルスシェルの薄暗い廊下を歩いていた。青白い照明。低く微かな振動音。誰かとすれ違った気もしたが、ほとんど記憶に残っていない。
三階にある自室へ戻り、リヒトはベッドに身体を投げ出した。薄い照明に照らされた無機質な天井を見つめていた。何も感じないはずだったのに。胸の奥がずっと重たい。
やがて目を閉じる。自然と昨日までの日々が脳裏に浮かび上がってきた。
一番古い記憶はアトルサにあるオベリア基地の中だった。医務室のような場所で目を覚ました時、全てが頭の中から消えていた。唯一残っていたのはリヒトという名前だけ。それ以外は本当に何もなかった。
なぜリヒトがそこにいたのか。それはプラウドが国の外でヴィールに引きずられていた彼を救出したかららしい。腹から臓物が飛び出し、腕もぎりぎり繋がっている程度。顔もヴィールに喰われ、原型を留めていなかったそうだ。それでも、まだ息だけはあったようだ。まるで他人事みたいな話だった。
バイオリモデルを受けた後、さらに分かったことがある。体の中に超高濃度のバルムエネルギーが巡回しているらしい。ヴィールに近い組織構造をしているとも聞いた。納得はしていない。しかし傷を負えば体は勝手に修復され、死にかけても蘇る。気付けば再生能力まで操れるようになっていた。だからオベリア部隊としてヴィールを殺し続けた。戦い続ければ、そのうち記憶が戻るかもしれないと思っていたから。しかし現実は違った。時間が過ぎても自分の中は空っぽのまま。気付けば戦うことすら惰性になっていた。
リヒトは小さく眉を寄せる。そんな止まっていた日々の中でようやく見つけたのだ。過去へのヒントを。瑠璃色の石。そしてカタリーナ。彼女が本当に自分の過去と関係しているのかはまだ分からない、でも、あの石が重なった瞬間。あの瞳を見た瞬間。確かに胸の奥で何かが動いた。今まで何も感じなかったはずなのに。それなのに――。リヒトは薄く唇を結ぶ。
リヒトはゆっくりと目を開き、「痛ぇ……」と掠れた声で呟いた。
その時、部屋の扉をノックする音が聞こえる。リヒトはベッドに沈み込んでいた重い体をゆっくり起こした。無気力な感情を引きずったまま、リヒトは扉へ向かう。誰だ……プラウド?隊長?
扉を開けると、自分の想像していた位置に人の顔がなかった。視線をやや下に落とす。そこにはウルスラが立っていた。いつもの騒がしさはなく、不安そうに眉を下げていた。一瞬の静寂が訪れる。
「あの……。リヒト。ごめんね。カタリーナちゃんがバイオリモデル受けなきゃいけないの……。私のせいかも」
その声は弱々しく、今にも消えてしまいそうだった。
リヒトは何も言わず、彼女を部屋の椅子に座らせた。彼女が腰掛けた途端、堪えていたものが決壊したみたいに涙を零した。ぱっちりとした丸い目からぽろぽろと涙が落ちていく。肩が小さく震えていた。
リヒトは黙ってベッドに腰掛けたまま、彼女が話し出すのを待つことしかできなかった。
「あのね……。カタリーナちゃんが光のバリア見たいものをやってくれて、それがすごい綺麗で……。隊長にも見せたの」
涙で詰まりそうになる声を必死に繋ぎながらウルスラは話し続ける。
「それで……カタリーナちゃんがオベリアに入ったら、部隊がすごく強くなるねって……。私は本当に思ったから……そう言っちゃって」
言葉の最後が震えてる。自分の一言がカタリーナを追い込んだ。そう思っているのだろう。ウルスラは両手で服の裾をぎゅっと握り締める。小さな肩がさらに縮こまっていた。
リヒトは眉間に小さく皺を寄せた。胸の奥で燻る焦燥と苛立ちを押し込めるようにゆっくり立ち上がる。
その瞬間、ウルスラの細身の身体がびくりと小さく跳ねた。まるで怒鳴られるのを構えているように。
リヒトは一瞬だけ動きを止める。どういう顔をすればいいのか分からず、小さく視線を逸らしかける。しかし、そのまま何も言わずにいる方が余計に怖がらせる気がした。だからリヒトは小さく息を吐き、ウルスラの震える肩にそっと手を置いた。
「許してくれるの?」
ウルスラが涙で濡れた瞳を向けてくる。星空を閉じ込めたみたいにきらきらとしたサファイヤブルーの瞳が不安そうに揺れていた。リヒトはその視線に無理やり目を合わせる。
「隊長が連れていくと言った時、すでに決まっていたはずだ。だから……お前は気にするな」
低く静かな声だった。ウルスラだけに責任を背負わせたくなかった。
「リヒトはカタリーナちゃんが死んだら悲しい?」
涙ぐみながら上目遣いで真っ直ぐ見てくる。リヒトは言葉に詰まった。そこから先を考えるのをやめた。今はまだその答えを無理に出さなくてもいい気がした。ただ一つだけ確かなことがある。あの場所から彼女を連れ出したのは自分だ。それだけは変わらない。
リヒトは迷いを押し固めるように何度か小さく頷く。彼の顔つきが静かな決意を宿したものへ変わっていった。
「そうだ。俺が連れてきたから……。あいつの人生、最後まで面倒みないと」
一言一句に自らの責任を乗せるように言葉を落とす。その声には派手な熱量はない。しかし、一度決めたことを絶対に曲げないという覚悟が滲んでいた。
部屋の中に凪のような空気が流れこむ。すると次の瞬間、ウルスラはぱっと表情を明るくし、跳ねるように椅子から立ち上がった。高い位置で結ばれたツインテールが元気よく揺れる。そして彼女は勢いよく扉の方を向き、両手を口元に添えた。
「ねぇねぇ!リヒト怒ってなかったよ!」
リヒトは「ん?」と小さく声を漏らした。その時、部屋の扉が申し訳なさそうにゆっくりと開いていく。
そこに立っていたのは腕を抱えながらどこか居心地悪そうにしているローザと、照れくさそうに小さく笑うカタリーナだった。数秒、 なんとも言えないむず痒い沈黙が流れる。
ローザはいつもの鋭い表情を作ろうとしているのに耳の先がほんのり赤い。そんな空気の中、こちらを振り返ったウルスラが口元に手を当て、肩を震わせていた。笑いを堪えている。
彼女の意図に気付いた瞬間、リヒトの額に青筋が浮かび上がる。このガキ……図りやがったな。リヒトが一歩前に踏み出そうとする。しかし、もう遅かった。
「ひゃっ」とウルスラは小動物みたいな声を上げ、ぴょんとローザの後ろに飛び込む。高い位置で結ばれたツインテールがぶんぶん揺れ、リボンが楽しそうに跳ねていた。どう見ても反省していない。
ローザはそんなウルスラを背後に庇う形になり、誤魔化すように小さく咳払いをした。普段なら堂々としている彼女なのに今は妙に落ち着きがない。
「カタリーナに対して、それだけの覚悟があることは伝わった。だから……その……」
言葉が途中で止まる。ローザは頬を指で掻き、珍しくもごもごと言葉を探しているようだった。
「何かあるなら早めに教えてくれ。こんな成りだが私も女だ。頼りにしていいぞ!」
最後だけ勢いよく言い切った。彼女の背後ではウルスラが「ふふっ……」と吹き出しそうになっている。
リヒトはそんな光景を無言で見つめる。勇敢でいつも頼りになる隊長。しかし今回だけは、間違いなく頼りにならない。そう確信していた。リヒトは表情を変えることなく、自室の扉をゆっくりと閉めたのだった。
読んでくださりありがとうございます。
空気を和ませるウルスラがこの荒廃した世界でいい味を出している気がします。
次回、リヒトたちがアトルサへ帰還。カタリーナから悲しげな表情が滲むその理由とは。
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