1章 灯り⑤境界を越えた朝
前回のあらすじ
ラピス教国へ侵入したオベリア部隊は激戦の末、犠牲者を出すことなく戦いを終えた。しかしその裏では五名の司教が死亡し、教国側に大きな損害が出ていた。マリークは戦闘記録映像の中に映るリヒトの姿を確認し、わずかに感情を揺らす。彼女が謁見した教皇サフィラスは侵入者たちが再びこの地へ現れることをどこか期待するように静かに命令を下した。一方マリークはリヒトの戦う映像を見つめながら苦悩を滲ませ、記録媒体を自ら握り潰すのだった。
夜明けを告げる薄明の空の下。リヒトとカタリーナはラピス教国の国境である反り返った巨大な壁を登っていた。壁の上まで伸びたワイヤーを巻き取られていく音と共に、二人の身体が空へ引き上げられていく。冷たい風が吹き抜ける。壁の表面を削るような乾いた風だった。
リヒトは終始無言だった。しかし、彼の体にしがみつくカタリーナは違う。視線を左右に流し、このラピス教国を見渡している。まるで初めて外の世界を見た子供のように。
リヒトは小さく眉を寄せた。不思議な感覚だった。誰かを連れて帰るなど今まで考えたこともない。それなのに自分は彼女をここまで連れてきてしまった。
壁の頂上へ辿り着く。眼下には荒廃した大地。崩れた建造物。乾いた荒野。
強い向かい風が吹き、リヒトの青みがかった黒髪を大きく揺らした。この冷たい風も今はどこか懐かしく感じる。まるで長い間忘れていた景色を見ているようだった。
「おぉ。これがラピス……。想像よりもずっと広いですね」
カタリーナは小さく息を漏らすように呟いた。
彼女の横顔からリヒトは視線を逸らした。胸の奥が妙にざわつく。カタリーナを連れてきたことに迷いはない。ようやく掴んだ過去への手掛かりでもある。だから連れてきた。
しかし問題はこの先だった。オベリア部隊の連中が元ラピス教徒である彼女を素直に受け入れてくれるだろうか。リヒトは小さく息を吐き、眉間に皺を寄せた。面倒なことになる。だが、今さらだ。
胸の奥ではざらついた焦燥が静かに燻り続けている。それでも進むしかない。一瞬だけ伏せていた目を上げる。その瞳に迷いは残っていなかった。薄明の空の向こうでは新しい朝がゆっくりと世界を照らし始めていた。そして二人はラピス教国の国境を越えたのだった。
リヒトはレイルモービルと呼ばれる反重力装置を内蔵した二人乗りバイクの後部座席にカタリーナを座らせ、荒野を突き進んでいた。草木は一本も生えておらず、時折目にするのは屍のように大地を彷徨うヴィールのみ。乾いた風が荒野を吹き抜け、巻き上がった砂塵が空に舞い上がる。低い駆動音だけが静まり返った世界に響いていた。
しばらくすると、視線の奥にオベリア部隊専用移動車両――ステルスシェルが見えてくる。
それを捉えた瞬間、リヒトの顔に僅かな緊張が走った。胃の奥が重く沈む。これから何が起きるのかくらい、嫌というほど分かっていた。その感情を押し潰すようにアクセルを強く吹かす。レイルモービルが低く唸り、荒野を裂くように加速した。
やがて速度を緩める。作業をしていた何人かの隊員たちの視線が一斉に向けられた。空気が変わる。
涼しげな風が吹いているはずなのに息苦しい。だが、リヒトは表情を崩さない。ハンドルから静かに両手を離す。ホバーしていたレイルモービルは羽根が落ちるようにゆっくり地面に降下した。ふわりと砂煙が広がる。リヒトは一度だけ長く息を吐く。そして顔を上げた。
その瞬間。目の前には仲間たちの冷たい顔。銃口。黒く空いた穴が向けられた。服の裾を引っ張られる感覚。視線だけ向けると、白い手が服の裾を弱々しく掴んでいた。
空気が凍ったように誰も口を開かない。引き金に添えられた指先だけがわずかに緊張を滲ませていた。
リヒトが奥歯を噛み締める。予想していた光景。しかし、実際に突き付けられると胸の奥が鈍く軋んだ。黒い瞳だけが微かに揺れながら仲間たちを真っ直ぐ見据えていた。
「リヒト。お前に言わなければいけないことが多々あるが一旦それは後回しにする。――それは何だ。説明次第ではこの場で撃ち殺す」
腰の辺りまで伸びた深紅の髪を風になびかせながら、精悍な顔立ちの女性――ローザが顎で後ろのカタリーナを差した。
凛々しい目が鋭く細められている。隊長としての視線だった。
それでも、リヒトは目を逸らさない。喉の奥が焼けるように乾く。
「こいつは信者ではありません。あそこにいればヴィールに殺されていたので、俺が保護しました」
短く、端的に言葉を並べる。感情を抑え込み、聞き取りやすい口調を意識した。今は少しでも冷静さを見せなければならない。
ローザは一瞬真顔になったが銃口は下ろさない。
「証明ができないだろう。まさか、アトルサに連れて帰るわけじゃないだろうな」
「はい。そのつもりです。だから隊長の許可を。……お願いします」
リヒトはローザの顔を真っ直ぐ見つめた。
「な……。ダメに決まっているだろう!あの国の人間を我が領土に入れるなど……」
空気が張り詰める。ローザの声に苛立ちが滲む。それは感情論だけではない。隊長として当然の反応だった。もしカタリーナが信者だった場合、被害を受けるのは部隊だけでは済まない。アトルサ全体を危険へ晒すことになる。
微かに揺れる深海を思わせるロイヤルブルーの瞳。それがリヒトと後ろのカタリーナを交互に見据える。張り詰めた空気の中、乾いた風だけが荒野を吹き抜けていった。
その時だった。ローザの隣にいるブロンドヘアの男――プラウドだけが静かに銃を下ろした。
「一旦落ち着こう」柔らかな口調。しかしその目はしっかり状況を見極めている。「リヒト。この子が信者ではない証拠はあるのかい?」
面長で知的な顔立ち。背筋の伸びた余裕ある立ち姿。細い切れ長の目はリヒトの心の奥まで覗き込もうとしているようだった。いつものように試されていることをリヒトは理解している。
「信者の証であるアストラを所持していません。それに、俺とこいつはヴィールに襲われました」
真剣な面持ちで答える。嘘は言わない。今ここで取り繕う必要はない。何があってもカタリーナを連れて行く。そのためには真正面から言葉をぶつけるしかなかった。プラウドはしばらく黙っていたが、やがて納得したように小さく頷いた。そしてローザの肩に手を置く。
「最終的な決定権は君にあるから君の判断に従うよ。ただ――」そこで彼はわざとらしく肩を竦める。「リヒトが僕たちにお願いするのなんて初めてじゃない?何かあれば僕も責任を取るよ」
微かに吐息の混じる声。言葉には確かな助け舟が込められていた。
ローザは険しい顔のまま沈黙し、小さく息を吐く。
「……わかった。ひとまず連れていく。一旦身柄はこちらで預かるぞ。いいな」
リヒトは小さく頷いた。彼女の言葉を聞いた瞬間、溜まっていた息を静かに吐き出した。表情は変えない。しかし、張り詰めていた神経がほんの僅かに緩む。
ローザが「ウルスラ。連れていけ」と声を掛ける。するとピンクと水色のリボンで高い位置のツインテールを結んだ少女が駆け寄り、カタリーナの手を引いてステルスシェルの中へ入っていった。ウルスラがついているなら問題ないだろう……。
リヒトは空を見上げる。千切れた雲が風に煽られ、空を速く流れていた。胸の奥に残っていた重苦しさを吐き出すように長く息を吐く。
ふと感じた視線に目を向ける。プラウドが人差し指を立て「貸しだからね」と薄く笑っていた。彼は踵を返し、ステルスシェルに向かっていく。リヒトは呆れたように鼻を鳴らすと、その背中を追うように歩き出した。
読んでくださりありがとうございます。
ローザの隊長という責任ある立場であるところと人間味のあるところが気に入ってます。
次回、ローザからリヒトに衝撃の決定が下されます。
感想や評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。よろしくお願いいたします。白モン




