最終章 百万回と一回目⑬新しい空の下へ
オルフェニアとの死闘、その最期の瞬間はアトルサ全土に放映されていた。世界の災いであるヴィールそしてオルフェニアが消え去った後、国中は地鳴りのような歓喜に包まれた。人々は画面越しに、命を賭して戦った者たちの雄姿をその目に焼き付けたのだ。やがて帰還した兵士たちを待っていたのは、鳴り止まない喝采と祝福の嵐だ。凱旋パレードの熱狂は国中の宴へと姿を変え、その熱模様は三日三晩、途切れることなく続いた。
ほどなくしてオベリア部隊の解散が告げられた。ヴィール殲滅のために組織された非公式の部隊。彼らこそがこの世界を救った立役者であることは誰の目にも明らかだった。彼らの功績は決して色褪せることのない伝説として後世に語り継がれていくことだろう。
それから数ヶ月が経ったある日のこと。かつてオベリア部隊の拠点だった基地では、隊員たちが荷造りを進めていた。戦いの役目を終えたこの場所は、文明を発展させる人材育成の学校へと生まれ変わるのだという。
綺麗に清掃が行き届いた廊下は窓から差し込む柔らかな光を強く反射している。その時、とある部屋をノックする音が響く。聞き慣れた返事を確認し、ドアノブを押し下げて扉を開いた。
「カタリーナ。準備はできたか?」
「いや~。ちょっと思い出に浸っていたら全然進まなくて」
リヒトは小さく苦笑を滲ませ、床に散乱とした荷物を眺めた。
「出発は明日だぞ? 間に合うのか?」
「わかってますぅ。でもしょうがないじゃないですか。女の子の支度は時間がかかるものなんですよ!」
頬を膨らまして言い返す彼女に、リヒトは「はいはい」と笑って肩を竦ませ、床に散らばった本や小物を拾い上げた。
「ほら手を動かせ。俺も手伝うから」
「流石リヒトさん! 頼りにしてますよ!」
こんな日々が訪れるなんて夢にも思わなかった。あの時死ぬ覚悟は出来ていたのに。
——また……助けられたな……。
小さな笑みを浮かべて心の中で呟いた。散らかった部屋で手を動かしながら、リヒトはあの日のことを思い出していた。
瓦礫の山に飲み込まれ、意識は途切れた。が、目を開いた先にあったのは、無機質な灰色の天井だった。意識が混濁し、身体が鉛のように重い。天国か、地獄か。それにしては現実味のある景色だった。徐々に身体が動かせるようになり、首を横に向けると隣のベッドで静かに目を閉じているカタリーナの姿があった。
リヒトは身体を引きずるようにしてベッドから転げ落ちながらも彼女の元へと這い寄った。この時は自分が生きているか、死んでいるかなど頭になかった。カタリーナしか見えなかった。
やっとのことで辿り着いたリヒトはベットのフレームを力の入らない手で掴み、何度も崩れ落ちながら立ち上がった。荒げた息のまま、カタリーナの顔を覗き込み、頬に触れる。温かい。生を感じる温かみだった。リヒトの瞳から一滴の涙がこぼれ、彼女の頬を伝う。
その直後、カタリーナの瞼がゆっくりと持ち上がり、その奥から澄んだ空色の瞳が覗いた。溢れ出しそうな愛しさを必死に抑えようとした。彼女が静かに腕を動かし、リヒトの頬に手を触れると、カタリーナは柔和に微笑んだ。堰を切ったように感情が溢れ出す。リヒトは壊れ物を扱うように、けれど彼女の身体を強く抱きしめた。もう二度と離さない。そう誓いながら。
リヒトが顔をあげ、周囲を確認すると、ここが病院であることがようやく気づいた。そして、自分たちが生きていることにも。その時、部屋の扉が徐に開いた。そこにはローザとマリークが立っていた。ローザは目を見開いて、一瞬飛び出そうとしたが、歩調を緩めた。リヒトはローザに言われるまま、ベットに腰を下ろし、ローザとマリークはパイプ椅子に腰を下ろした。そしてローザがこの状況に至るまでの経緯を教えてくれたのだ。
地底に落ちたリヒトたちの元へビリアが駆け出した時、満身創痍のローザとマリークも後を追った。走り続けたが、やがて視線の先で地面が崩落したのだ。しかし、ローザは諦めなかった。アトルサの兵、そしてオベリア部隊の生き残りを指揮し、必死に土砂を掘り進めたのだ。
「底の方に緑色の光が見えてな……」
ローザは優しい口調でそういった。リヒトとカタリーナは、翡翠の膜に守られながら身体を寄せていたという。そして、さらに範囲を広げて掘り進めても、ビリアの姿はなかったらしい。
リヒトは眉を寄せ、未だ口を閉ざしたままマリークを見つめる。
「マリーク……。ビリアは――」
マリークは窓の外、降り注ぐ光を見つめたまま、固く組んだ腕を解いて言葉を遮った。
「……ビリア様が選んだことだ。最初から分かっていた。分かっていた……さ」
毅然としていたはずの彼女の声が弱々しく聞こえる。最も近くでビリアに仕えていたマリーク。あの瞬間、ビリアが何を捨て、何を繋ごうとしたのか、本当は誰よりも理解していたに違いない。消沈する空気が流れる中、その静寂をカタリーナが破る。
「ビリアはね……。あなたのことが大好きだったんだと思うよ」
カタリーナの柔らかな声が病室の白い壁に吸い込まれていく。マリークは眉間に皺を寄せ、顔を俯かせる。
「お前に……何がわかるというのだ」
肩を震わせ、突き放すような言葉。そこにはやり場のない悲しみとビリアが遺した想いを受け止めきれない苦悩が混ざっているようだった。しかし、カタリーナは穏やかな笑みを絶やさなかった。
「わかるよ。だって、ビリアは寂しがり屋だもん。あなたがずっと傍にいてくれたからあの子は生きてこられたの。ビリアはあなたのことも心から愛していたよ」
マリークの肩の震えが止まった。数秒間の沈黙の後、静かに立ち上がると部屋の外に向かって歩き出し、扉に手をかけた。そんな彼女の背中からリヒトは目を離さなかった。
「マリーク。ありがとう。お前がいてくれたから俺たちは今ここにいる」
扉が半分ほど開き、マリークの動きが止まる。
「……うるさい」
マリークは部屋から出ていった。彼女がこの喪失を乗り越えるにはまだ長い時間が必要だろう。リヒトはいつか彼女の心が癒えるまで、心から笑える日が来ることを願っていた。
残されたローザが鼻から息を吐き、再びリヒトたちに向き直った。
「ひとまず、マリークのことは私に任せろ。……二人とも、本当によく無事でいてくれた」
まるで母のような温かい顔つきが目に飛び込む。
「おそらく数日後、オベリア部隊は解散となる。ヴィールのいない世界には必要ない。……今日まで私についてきてくれてありがとう。二人を誇りに思う」
ローザは背筋を伸ばし、深く頭を下げた。自然とリヒトも姿勢を正し、彼女の言葉をしかと受け止めた。寂しさはあったがそれは同時に平和が訪れた証でもある。顔を上げたローザは背負った重荷を下ろしたように少し子供っぽい笑みを浮かべていた。
「二人にも国から報奨金が出るはずだ。新しい職も紹介できる。退院してからで構わないから考えておいてくれ」
そういうとローザも病室から出ていった。彼女が去り、静寂が戻った病室でカタリーナが口を開いた。
「しばらくお休みですね」
「そうだな」
リヒトの心には、一つの確かな願いだけが残っていた。これまで自分が生きてきたのは過去を知りたかったから。そして過去のすべてを知った。抜け出せなかった過去の呪縛からも解放され、これから先のこと。未来のこと。願うのはたった一つだけだった。
「カタリーナ」
「はい」
リヒトがベッドを降りると、彼女もまた、すべてを悟ったような眼差しで立ち上がった。その麗しい顔を見ると、心臓の鼓動がうるさいほどに高鳴っていた。それでも今言わなくてはいけない。後にしようなんて気持ちは微塵もなかった。
「何度カタリーナを苦しめてしまったかわからない」
——感情は魂に刻まれているはずだ。
「こうやって今お前の前に立てていることも、ビリアや隊長たちのおかげだ。俺だけじゃできなかった」
——支えてくれた皆がいたから。
鼓動の音が耳を支配する。リヒトは長く息を吐き、目元を引き締め、カタリーナを見つめる。
「この先、俺はカタリーナと一緒にいたい。派手な暮らしなんていらない。カタリーナと一緒にいることだけが俺の望みだ。だから……」
見つめる空色の瞳がきらきらと輝き、涙が溜まっていく。それでも彼女は目を反らさなかった。
「いえ……。すみません……。ずっと……ずっと……。私も同じ気持ちでした」
リヒトは彼女の涙を指でそっと拭う。気が付くと視界が滲んでくる。
「必ず幸せにして見せる。これからの人生を共に歩んでくれ。愛している」
「私も愛しています」
リヒトは彼女の身体を包み込むように抱きしめた。二人の心は、ようやく安らげる場所を見つけた。この先どんな困難が待ち受けていようと、この温もりだけは離さない。彼女の幸せのために生きると心から誓ったのだから。
二人は病院で過ごしながら、未来のことについて話した。そして新しい人生の舞台は元ラピス教国だった場所に決めた。ビリアを一人にはさせない。いつか交わした約束を果たすために。その地へ移ることを決めたのだ。
そしてそれから幾らか時間は過ぎ、今に至る。準備は整った。思い出の詰まった部屋に別れを告げ、二人は新しい空の下へと歩き出す。その足取りは、驚くほど軽やかだった。
とうとうこの地を旅立つ日がやってきた。見上げれば、かつてアトルサを覆っていたあの膜はない。リヒトたちの門出を祝うように遮るもののない蒼穹がどこまでも広がっていた。
アトルサ兵や元オベリア部隊の面々が活気ある声を掛け合いながら資材を運び込んでくれている。あの荒れ果てた地を再び人の住める場所にする。二人だけでは到底不可能な計画も、ローザが国へ熱心に働きかけてくれたおかげで着実に形になろうとしていた。
リヒトがステルスシェルに荷物を積み込んでいると、背後から足音が近づいてくる。振り返ると後ろに手を回した薄ら笑みを浮かべる男と彼から伸びる紐を引くローザの姿が。
「やぁリヒト。久しぶりだね。いや。こう呼ぶべきかな。この世界を救った英雄様と」
プラウドはいつも通りの薄ら笑いを浮かべていた。獄中生活を送っているとは思えないほどその立ち居振る舞いは昔と変わらない。リヒトは呆れ半分といった気持ちで思わず口元を綻ばせた。
——どういうメンタルをしてるんだ。本当に。
「減らず口は相変わらずだな。そっちはどうなんだ。じめじめした地下はお似合いじゃないか?」
「言うようになったね。さっさと抜け出したいよ。リヒトからも言ってやってくれ。ローザが許してくれれば僕は外に出られるのに」
「たわけ! お前は本当なら死罪も同然! リヒトの証言がなかったら今頃あの世だろう!」
ローザが鋭い声で一喝し、手錠に繋がれた紐をグイと力任せに引く。プラウドの身体が前につんのめるが、彼は意に介した様子もなく、首を捻ってローザの怒った顔を覗き込み、口元に弧を描いていた。
「知ってるよ~。……でもさ。ローザだって僕が有利に働く証言をいくつもしてくれてたんでしょう?」
「んな! なんでお前がそれを!」
ローザは身体をのけ反らせた。なんだかこのやり取りすら懐かしい。あの頃に戻ったかのようにじゃれ合っているようにしか見えない。そんな二人のやり取りをリヒトは温かな心地で見守っていた。
「僕の情報網は舐めてもらっちゃ困るな。そんなに僕のことを心配してくれるのはありがたいけど、そろそろ返事が欲しいんだけど?」
プラウドがいたずらな表情で彼女を覗き込む。ローザは「返事……」と小さく呟いた後、顔が真っ赤に染まっていく。恥ずかしさに耐え切れなくなったように彼の背中を力いっぱい叩いた。軽快な音が青空に吸い込まれていく。
「ばかたれ!そう言うことは……。その、なんだ。こう。あぁ! うるさい! もっと時間が必要なのだ。時間が!」
腕を組んでそっぽを向くローザ。しかしその横顔はそこはかとなく嬉しそうに見えた。彼女を見るプラウドはいつもの薄ら笑いではなく、童心のような笑顔を滲ませていた。
リヒトはそんなプラウドをじっと見つめ、思い出したように口を開いた。
「なぁ。俺の部屋に本を置いたの……お前だろ?」
淡々とした口調。唐突な問いかけにプラウドは一瞬だけ口を窄め、すぐにニヤリと不敵な笑みを返した。
「ほう? どうしてそう思うの?」
人を試すような探るような視線。これもまた彼の変わらない癖なのだろう。リヒトは一つ溜息をつき、澄み渡る空と同じくらい真っ直ぐに彼を見つめ返した。
「お前ぐらいしか鍵を外から開けられる奴なんていないだろ。それに外から見て俺の部屋を正確に知っているのも部隊の人間だけだ。詰めが甘いぞ」
「これは一本取られたね。これで借りは無しだ。あの本結構探すの大変だったんだから。……どう? 面白かった?」
プラウドの晴れやかな表情に、リヒトは大きめに鼻を鳴らした。
「くそつまらない駄作だったよ」
「それはなにより」
二人の間に不思議と心地よい凪のような沈黙が流れた。ローザが再び手錠の紐をぐいっと引っ張る。
「ほら、行くぞ。これ以上こいつの馬鹿話に付き合う必要はない。リヒト、準備ができ次第出発しよう」
二人は踵を返し、アトルサの街の方へと歩き始めた。遠ざかっていくプラウドの後ろ手に回された手。その親指が一瞬だけクイと立てられるのが見えた。リヒトは消えていくその背中を表情を緩ませながらいつまでも眺めていた。アトルサを包む空気はどこまでも軽くこれからの旅路が希望に満ちていることを予感させていた。
読んでくださりありがとうございます。
やっぱりエピローグじゃなくて、最終章として扱います。
次回、新たな地へ。後二話で完結予定です。
感想や評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。よろしくお願いいたします。白モン




