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最終章 百万回と一回目⑫愛とは

 深く冷たい闇だった。底のない深淵へとリヒトが落ちていく。自分が何者であるのか、何のために生きていたのか。思い出が一つずつ剥がれていくように消えていく。その時、誰かが手を掴む感覚が。耳に幕が張ったように朧げな声が聞こえてくる。


——もういいんだ。


 最後に彼女を抱きしめられたから。身体の力を抜くリヒトだが、その手は力を緩めない。微かに目を開くとその腕は褐色で細かった。その細い腕からは考えられないほど強い力でリヒトの身体が引っ張られる。徐々に闇が薄れていき、眩しい光に目を瞑った。リヒトの意識は世界へと引き戻されたのだった。



「ここは……」


 意識の糸が幾重にも重なる薄い膜を突き破りゆっくりと現実へと手繰り寄せられる。夢を見ていた気がする。遠くに見える灰色の空を見上げているリヒトは首だけ動かした。見つけたのは桃色の髪の女性の背中。リヒトはゆっくりと起き上がり、重たい体を引きづるように彼女の元へ。一歩歩く度に命の灯が風に揺られるような気がする。理解していた。自分の命はもう長く持たないことを。


 近づいていくとカタリーナがビリアの身体を抱えているのが分かった。リヒトがカタリーナの肩に手を置く。彼女は一度振り返ると、柔らかな表情を向け、再び目を閉じているビリアに視線を注いだ。彼女はすべての重荷を下ろしたかのように安らな表情だった。


 リヒトはカタリーナの横に膝をついて、小さく口元に笑みを浮かべたまま、動かないビリアを優しく見つめる。そして、彼女の小さな手に自分の手を重ねる。


「まだ温かいんだな」


 リヒトが言葉を溢すと、カタリーナは無言で頷いた。ビリアは一人でずっと苦しみ、今日まで生きてきた。リヒトはわかっていたのだ。自分が彼女を許しても彼女の気は晴れないことを。しかし目の前にいる彼女はきっと満たされているのだろう。


「俺を生かしてくれてありがとう」


 リヒトは小さく呟いた。その時、ビリアの身体が蛍の光を淡くしたような幻想的な浅緑色に光り出すと、身体の末端が塵になっていく。リヒトは目を背けることなく、彼女の最後を見つめていた。光の粒子は末端から静かに、美しくこの世界から解き放っていく。


 ビリアがいたからあの時の間違いをやり直すことができた。いつまでも彼女を忘れない。彼女が託してくれたこの短い時間をしっかりと生き抜こうと決意した。やがて、彼女のすべてが塵となって灰色の空へと溶けて消えていった。


「行っちまったな」

「そうですね」


 肺を刺すような冷たい空気がリヒトに現実を突きつける。リヒトは自分の命が長くない、そしてカタリーナも同じ運命を辿ることを分かっていた。目の前にいるこの女性の幸せのために。あの時できなかったことをやらなくては。


 リヒトは壁に背を預けた。そしてカタリーナに視線を注ぎ、手招いた。彼女はゆっくりと立ち上がり、足元をふらつけせながら、彼女がリヒトの前へ。いつまでも見ていたい。できるならばずっとこの先も一緒に生きていたい。


 リヒトはカタリーナに手を差し出した。彼女がリヒトの手を取ると、リヒトは彼女の身体を引き寄せ、後ろから包み込むように抱きしめる。ミルクのような甘い香りがリヒトの鼻をくすぐる。たまらなく愛おしい。回した手に彼女の手が重なるのを感じる。手の温かさが伝わってこない。


「カタリーナ。最後は一緒にいてくれるか」


 リヒトは掠れる声で呟くと、腕の中のカタリーナはリヒトの手を握り、頷く。


「もちろんです。一人でずっとあそこにいた時からずっとこうしてほしかった。リヒトさんが嫌と言っても離してあげません」

「嫌なんていうわけないだろう。カタリーナの気が済むまで、いや。気が済んでもこうしていよう」


 カタリーナがふふっと鈴を転がすような声音で笑い、腕に頭を寄せてきた。リヒトの胸の奥にある凍てついた何かが溶けていく。もう他に何もいらない、と感じるほどに。


「カタリーナをここから連れ出した日のことを思い出すよ」


 カタリーナのくすりとした笑い声が聞こえた。何事かとリヒトは彼女の横顔を覗き込む。


「最初はびっくりしましたよ。傷だらけで私の家の突っ込んできて。治療しようとしたのに、手を叩かれたことを覚えています」

「それは……すまん。生き急いでいたのかもしれない」


 リヒトは口元に小さな弧を描いて、その時のことを思い出していた。自らの過去を探し求め、余裕がなかった。心に開いた穴を塞ぐため、戦闘に明け暮れ、世界を拒絶していたあの日。そんな自分ですら、今はたまらなく懐かしい。


 その時、天からガラガラと音を立てて瓦礫が落ちてきた。世界が終わりを告げようとしているのを肌で感じながら、遠い空を見上げ、彼女を抱きしめる腕に力を込めた。最期までこの温もりを離さないと決意しながら。


「あの時なぜ、俺を追いかけてきた。どこかへ逃げるという選択もあったんじゃないか?」


 ずっと聞きたかった問いを投げかける。カタリーナは少しの間を置くと、微風に揺られる草のように頭を揺らしていた。


「……気が付いたら走り出していました。頭よりも身体が勝手に動いたっていう感じ。心が反応したというのでしょうか。人生を大きく動く時ってそういうことなんだと思います」


 リヒトも同じような経験があった。プラウドに監禁されていた時、駆けつけたカタリーナを見つけた瞬間、考える間もなく彼女を抱きしめていた。あの時確かに自分の人生が大きく動いたのかもしれない。思い出すたびに瞼は弛み、口元に弧が描かれる。


「リヒトさんが連れ出してくれたから、私はオベリア部隊に入れました。そうしなければウルスラちゃんやローザさんにも出会えませんでしたし、やっぱり私はあの時……リヒトさんを追いかけてよかったです」

「部隊に合流した時は冷や冷やしたけどな」

「あの時だってリヒトさんが守ってたじゃないですか。私も内心ドキドキでした」


 語られる思い出の欠片たちが、積み重なるほどに。灰色の空が気にならなくなるほど、周囲は色鮮やかな色彩で満たされていく。


「実は初めてステルスシェルに乗った時、私は不安で一杯でした。だって周りの皆さんからしたら、私は敵国の人間ですから。そんな時、ウルスラちゃんは震える手をずっと握ってくれていました」

「そうだったのか。あいつは本当に優しい奴だよ」

「リヒトさんへの好意を真っ先に見破ったのもウルスラちゃんでした。覚えていますか? あの白いワンピース。リヒトは絶対こういうの好きだからって。教えてくれたのはウルスラちゃんでした」

「そんな話したことないんだけどな」


 彼女の思わぬ話につい視線が泳ぐ。彼女はリヒトを覗き込むように後ろを見ながら悪戯っぽく笑った。


「お嫌いでしたか?」

「……いいや。ドンピシャだよ」

「ふふっ。ウルスラちゃんは良く周りを見てますから。ローザさんだってリヒトさんのことよく見てましたよ。リヒトさんが夢のことで悩んでいた時だって真っ先に気づきましたから」

「なぁ。俺ってそんなにわかりやすいか? なるべく感情を表に出さないようにしているんだが」


 心底不思議に思って問いかけると、腕の中でカタリーナの肩が小さく、小刻みに揺れ始めた。堪えきれないといった様子で漏れ出したのは鈴を転がすような、それでいてどこか慈しみを含んだ笑い声だった。


「リヒトさんをずっと見ていれば自ずとわかります。例えば……コロッケパンの時なんかすぐにわかりましたよ」

「あれは……。そうだな。意外と顔に出てしまうのかもしれない。お手上げだよ」


 鼻で笑った後、降参するように小さく手を上げて見せた。気恥ずかしさは微塵もなかった。それよりも、誰かが自分を見ていてくれた、誰かと繋がっていたという嬉しさが、胸を熱くさせる。


 再びガラガラと重低音を響かせ、巨大な瓦礫が降り注ぐ。視界の端が白く霞んでいく。いよいよ、その時が近づいてきた。


 ——もう長くないな。


「カタリーナ。お前に出会って俺はたくさんの物を与えてもらった。満たされなかった心が満たされた。ありがとう」

「私もです。リヒトさんは気づいているかわかりませんが、私こそたくさんの物を与えてもらいました」

 

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。何かを得たからではない。彼女のために何かを成し遂げられたこと、それがたまらなく誇らしく、嬉しかったのだ。愛する人の幸せを願い、寄り添う。それ以上に自分を満たしてくれるものはないのだと、消えゆく意識の中で深く刻み込んだ。彼女の身体を包み込み、永遠を誓うように言葉を紡いだ。


「俺はいつまでもカタリーナを愛する。俺の生が終わってもお前の幸せをずっと願っているよ」

「私も。いつまでもリヒトさんの幸せを願っています」


 いつまでも柔らかい笑みを浮かべて、二人は溶けあうように身体を寄せ合っていた。空から瓦礫が落ちて、この空間が埋められていてもずっと互いの愛を噛みしめるように、静かに、そして強く抱き合い続けた。カタリーナをその腕の中にしっかりと包み込み、彼女の鼓動を感じながら。リヒトの意識は、深く、温かな眠りの中へと落ちていった。

 

読んでくださりありがとうございます。

特に言うことはありません。感じていただけると嬉しいです。

次回、エピローグの分割です。最後までお楽しみください。


感想や評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。よろしくお願いいたします。白モン

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