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最終章 百万回と一回目⑪赦しの光

 肩で激しく息をするビリアは天から降り注ぐような美しいオレンジ色の光を見つめていた。オルフェニアの巨大な体躯が霧散し始めた時、呼応するようにヴィールたちも糸が切れた人形のごとく動きを止め倒伏し、塵になり灰色の空に消えていく。やがてその光が消えた瞬間、緊迫していた戦場でアトルサの兵たちが武器を掲げ、勝利の雄たけびが上がる。だが、ビリアだけは静かに吸い込まれるように落下していくリヒトの姿を捉えていた。

 

 ビリアはわかっていた。すべてが終われば彼の命の刻限が訪れることを。そして彼が離すまいと大事そうに抱いている彼女もまた同じように。ビリアの頭の中にどろりとした悪魔の言葉が囁く。


——リヒトだけ助けられれば、この先も……。


 リヒトの視線を独占したかった。施設で過ごしていたあの頃。自分の恋心に気づいてから、ずっと。だが、彼はラナを追い、死の運命を共にした。


——リヒト。リヒトを。リヒトだけでも。


 悪魔に魂を売ってでも、彼を繋ぎ止めたかった。再び脳裏で囁く悪魔。


——僕の命の半分を与えれば、リヒトだけは助けられる。


 たとえ嫌われてもいい、生きていてさえくれれば。


——リヒトの幸せのために。


 ふと思う。リヒトの幸せってなんだ。


——リヒトの幸せ……。


 ビリアは奥歯が砕けるほど噛みしめ、爪が掌を破るほど拳を握りしめた。ビリアはたまらず駆け出した。


——違う違う違う! もう僕はいいから! リヒトは僕を見てくれた。それだけで十分だ。


 祝杯を挙げる軍勢を抜け、肺が破れそうになりながらも突き進んだ。


——僕はずるい人間だ。全部全部自分のためだった。だから次は絶対に……。


 視線の奥二人はすでに奈落の闇へと呑み込まれていた。


「あああああぁぁぁぁ!」


 ビリアは魂を振り絞るような雄たけびと共に闇へ飛んだ。


——リヒトの幸せだけを願う。


 必死に手を伸ばし、落下する二人の身体を抱きかかえる。翡翠の光が溢れ出し、漆黒の虚無を鮮やかに照らし出した。やがて到達した地底は戻れないほど深く、冷たい死の淵だった。ビリアは地面の上に二人を寝かせた。


「死なせない!」と声を張った時、視線の端に映る肉片が呪いのように直接語り掛けてきた。


「ビリア……。その男を死なせたくはないだろう。この先も一緒にいたいだろう。お前が望めば願いを叶えてやろう。その女がいない世界で二人だけでいるなら邪魔をしないと約束しよう。さぁ。願え。我ならその願いを――」


 ビリアはその言葉を遮るように、翡翠に輝く手を翳した。すると肉片がねじ切れ、消滅する。ビリアは細めた目で「じゃあね」と冷たく呟いた。


 大きく深呼吸をすると、両手に宿る光はさらに強まり、薄暗い地底を昼間のように明るく照らす。ビリアはリヒトとカタリーナ、二人の胸にそっと手を置いた。


「僕が全部悪いから! もう僕のことなんて忘れていいから!」


 ビリアは叫んだ。胸には未だ消えないしこりが残っていた。ラナを見捨てたあの日。彼女が施設を出る時、引き留めなかった。そうすればリヒトを独占できると醜い期待を抱いた。結局リヒトは彼女を追い、自分だけが置き去りにされた。大好きな親友を裏切った罪悪感に、ビリアは長年苛まれてきたのだ。両手の輝きが臨界を突破し、ビリアの意識もどこかへ吸い込まれていく。


 


 ビリアは冷えた暗闇の中で蹲っていた。顔も上げたくない。


 ——疲れた。世界を壊し、好きな人をあれだけ長く苦しめた。僕なんかが許されちゃいけない。


 胸の奥が捻られるように痛い。だが、この痛みこそが今の自分に許された唯一の罰。


 ——僕は悪い子だから。


 この闇の中で一人、壊れていくのが相応しい。


 ——そう。これでいいんだ。


 孤独。二人に呪いをかけてしまい、世界のあり方を変えた僕に相応しい罪なのだから。


 ビリアが小さい身体をさらに縮めた時、静寂を切り裂いて、扉が開く音が聞こえた。死を待つ小動物のように、ビリアの肩が小さく跳ねる。何者かに肩を突かれ、反射的に身を強張らせたが、蹲ったまま動けない。その直後、温かな手が力強くビリアの手を引き、闇の外へと引きずり出した。


 

 暗がりに慣れた瞳には、その世界はあまりに眩しすぎた。誰に、どこに連れ出されたのかもわからぬまま、ビリアは瞼を恐る恐る開いていく。そこは真っ白で境界のない空間だった。宙を舞う仄白い光の欠片が凍えていた肌を優しく温める。そして、ビリアは目の前にいる女性を足元から上に辿る。白いワンピース、桃色の毛先、そして空色の瞳。すぐに視線を落とした。目を背けたかった。


「ビリア? なんでそんな顔してるの?」


 鈴を鳴らすような声音、あの頃から変わらない優しい口調で彼女はそう言った。自分が今どういう顔をしているのかわからない。ただし鼓動が早くなっていることだけはわかる。口を開きたくない。口を開けばすべてが崩れてしまいそうだから。指先が微かに震えていた。


「ねぇ。顔を上げて? 私はあなたの笑っている顔が好きだよ」


 泣いた子供を諭すような口調。ビリアはその声に誘われるように面を上げた。視界に映ったのは、美しさの中にあどけなさを残した、懐かしい面影。まつ毛の長い大きな目は、あの日施設を出ていった時と同じ。透き通る空色の瞳に春の陽だまりのような光を宿している。


 いなくなることを喜んだ人。彼女を裏切り、自分の利しか考えない醜い僕。


「なんでそんなことが言えるの?」


 ビリアは枯れ葉が擦れるような震える声で呟いた。目の前の彼女は不思議そうに首を傾げて覗いてくる。その無垢な仕草さえ、今のビリアには眩しすぎて目を細めて見ることしかできない。


「僕のせいで君は何度も……。何度も何度も何度も死んだんだよ! どういうつもりなのさ! 君の方こそなんでそんな顔ができるの!」


 ビリアの悲痛の叫び声がこの白い空間に響き渡る。

 

「ビリアのせいじゃないと思うけどな。この運命は誰かに決められたものじゃない。私のものだよ」


 彼女は指を頬に当て、視線が宙を辿った。彼女の表情からは憎しみや怒りを一片も感じなかった。


 ビリアは激しく首を振り、自分の胸を握り込んだ。白い装束に皺が刻まれる。


 ——違う。あの時、僕が願ってしまったから。


 自分の醜い欲望の代償で彼女は何度も生まれ変わる羽目になり、死ぬことを繰り返した。最愛の人と恋に落ち、彼の苦しむ顔を最後に見ることがどれだけの苦痛を伴うことか。


「なんで僕を罵らないのさ! 罵倒された方がマシだよ! ほら! 言ってよ! お前のせいで私は苦しんだ。お前のせいだって! もうお前の顔なんか見たくないって!」


 ビリアは胸に溜まったものを吐き出すように叫んだ。何を言われても、どんな罵詈雑言も、甘んじて受ける覚悟はできていた。


 自分はもうすぐ消えるのだから。


 彼女の積み重なった鬱憤を受け止める盾になりたかった。だから、逃げずに彼女の瞳を見つめ続けた。必死に溢れ出る別の何かを抑えながら。


 ラナは艶のある唇を微かに震わせた後、ビリアを覗き込むように少しだけ屈んで、静かに口を開いた。


「……そう思わないと自分を許せない?」


「あっ」と言葉が詰まる。思考がぴたりと止まってしまう。彼女の言葉がビリアの冷え固まった心にぽとりと熱い雫を落し、それが波紋のように広がっていく。強張った身体からふっと力が抜けていく。彼女は一歩、また一歩と距離を詰めてくる。ビリアは動けない。必死に目元から溢れ落そうなものを耐えることしかできない。


「ビリアはずっと、ずっと苦しんできたんだよ。あまり自分を苛めないで」


 彼女は目元を緩めて語りかけてくるが、ビリアは小さく首を振った。苦しむのは当然。それだけのことをしたのだから。


「ビリアは誰よりも優しいの。だから一人で抱えちゃうんだよね」


 柔和に微笑む彼女。いつしか目を背けたそれがビリアだけに向けられる。


「ビリアは誰よりも頑張って、頑張って、頑張って。そして苦しんだ。ビリアが自分を許せないなら。ビリアの代わりに私が許す。だってビリアは私の——大好きな友達だから」


 刹那、ビリアの視界が一気に歪み、唇が震える。言葉が出てこない。ずっと見ていたはずの彼女の姿がぼやけてくる。涙が目に溜まり、真っ白な床の上に零れ落ちる。その時、目の前の彼女が手を広げた。考える暇もなくビリアはその柔らかな胸に飛び込んだ。


「ごめんなさい! ラナ! ごめんさない!」


 子供のように泣き叫ぶことしかできない。白いワンピースの柔らかな生地に皺が寄るほど強く掴む。届けられなかった言葉が溢れ出す。頭をそっと撫でられる。その優しい手も昔からちっとも変っていなかった。


「私の方こそごめんね。私のせいで……ビリアを苦しめちゃった」

「僕は最低なことをした。君が施設を出ていったとき、引き止めることもせずに、喜んでしまった。二人が血を流していたのに僕はリヒトのことだけ考えていた。ずっと。ずっと謝りたかった。ごめんなさい」


 胸の奥に澱のように溜まっていた汚濁が、涙と共に溢れ出していく。抱きしめられる手が震えていることに気づいた。ビリアが顔を上げると、涙を浮かべ、柔和に微笑む彼女の顔があった。久しぶりに正面からちゃんと見た彼女の顔。その輝きがたまらなく懐かしくて、ビリアの涙腺を激しく刺激する。


「大丈夫。ビリアは悪くない。私がリヒトに何も言わずに出ていったのが良くなかった」


 彼女はかぶりを振り、過去を悔いるように言葉へ吐息が混ざる。彼女は目を伏せて、口を開いた。


「二人のことが大好きだから選べなかった。だから私のことを忘れてほしかった。それでもリヒトが来てくれるかもなんて期待しちゃって。中途半端なことをした私のせい。ごめんね」


 言葉の節々に後悔の念を感じる。彼女の頬を一筋の涙が伝い、ビリアの頬に落ちた。ビリアは彼女の細い腰を消えてしまわぬように、力強く抱きしめた。


「ラナは――リヒトのことが好き?」


 彼女は息を吸うだけで何も言わない。


 昔からそうだった。施設で年に一度だけ支給されるコロッケパン。僕たちは皆それを楽しみにしていた。僕やリヒトがそれを食べていると、彼女は「お腹空いてないから」と自分のパンを半分に分けて僕たちにくれた。ラナは誰かの笑顔を見ることが好きだったから。ビリアはそれに甘んじていた。あの頃のように、誰かの笑顔のために自分を後回しにする。


 ——今は本心を知りたい。言って欲しい。だって……最後だから。


「ラナ。僕はもう大丈夫。君のおかげで僕はとても幸せになれた。ありがとう。だから今度は君が幸せになる番だよ」


 ——君の幸せも僕の幸せだから。

 

「もう一度聞くね。リヒトのこと好き?」


 その問いに彼女は壊れ物を守るような必死さでビリアを抱き締め返した。耳元で彼女のすすり泣きが聞こえる。今度はビリアが子供をあやす様に彼女の背中を優しく、優しく摩った。


「……好き。ずっと一緒にいたい」と振り絞るような声で言った。その瞬間、ビリアの胸に凪のような穏やかさが訪れた。張り詰めていた緊張が解け、心地よい眠気が降りてきた。力なく彼女の胸にもたれかかる。口元に柔らかな笑みを浮かべながら。


「これからも……ずっと……。友達でいてくれる?」


 消え入りそうな囁く声でそう言うと、「うん。もちろん」と声が返ってくる。ビリアの瞼が静かに閉じていく。


「……ありがとう」

 

 その言葉を最期の宝物のように抱きしめて、ビリアの意識は真っ白な光の海へと静かに蕩けるように消えていった。

読んでくださりありがとうございます。

ビリアのサブプロットが終了しました。やっぱり書きたい場面は筆が乗ります。

次回、リヒトとカタリーナ二人だけの時間。最後に紡ぐ言葉とは。


感想や評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。よろしくお願いいたします。白モン

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