最終章 百万回と一回目⑩この手が届くまで
巨神となったオルフェニアに何度も叩き落とされたリヒトの身体は限界を迎えていた。それでも己を奮い立たせ、一歩踏み出すが、膝の力が抜け、ついに立ち上がれなくなってしまう。霞む視界の中リヒトは戦場に視線を巡らせた。圧倒的な量を前にアトルサ軍の兵士たちが次々と地面に伏せている。戦場は恐怖と疲弊。その果てにあるのは全滅の二文字。
視線先に捉える傷だらけになりながらも一人で奴に挑み続けるビリアの姿にリヒトの胸が熱く締め付けられる。まだ戦う意志はあるのに、身体が言うことを聞いてくれない。その時、背中に何かが触れる。
「動くな。今は回復に専念しろ」
振り返るとマリークだった。背中から温かいものが身体に流れ込んでくる。身体中の痛みが和らぎ、意識がはっきりとしてくる。
「すまない」
「戯言を抜かすな。お前のためにやっているのではない」
「それでもありがたい」
リヒトは懸命に戦うビリアの雄姿を逃さないように見つめる。きっとビリアはあの時からずっともがき続けていたのだろう。その悔いを晴らすかのように一人で戦っているのだ。
「ビリア様は苦しんでおられた。お前のために胸を痛め、自らの記憶を消し、長い間眠りについたこともあった。なぜあそこまで苦しんでまで、助けるのか。私にはわからない」
マリークの低めの声が、戦場の喧騒を縫って耳に届く。
「ビリアは優しいんだよ。昔からずっとそうだった。一人で抱え込んで、苦しんで、泣いていたこともあったな」
「より一層わからぬ。理解に苦しむよ」
「その気持ちと同じなんじゃないか。マリークだってビリアのために苦しんでるんだろ?」
「……ぬかせ。お前なんかに——わかってたまるか」
マリークの声色がほんの少し和らいだ気がした。少しずつ身体に力が戻ってくるのを感じ、リヒトは拳を握った。
「マリーク。頼みがある。儀式をもう一度やってくれ」
「バカなことを言うな! 儀式を二度行えばお前はもう人ではなくなる。それらと変わらない屍になるぞ! もうじき回復も終わる。少し待ってろ」
マリークから注がれるエネルギーが多くなるのを感じた。しかしリヒトは静かにかぶりを振る。
「それでもいい。あいつを倒せる可能性が少しでも高まるならできることをする。何もしないで終わるのはごめんだ」
「お前は……。どこまで愚か者なんだ」彼女が振り絞るようにそう言うと、「昔からそうらしい」とリヒトは短く答えた。
マリークが手を離すとリヒトはゆっくりと立ち上がった。腕を回し、首を捻った後、マリークを見据えた。彼女の前髪が風でなびき、鷹のような鋭い目が真っ直ぐとリヒトを向いている。
「いつでもいい。汚れ役を頼んで申し訳ない」
リヒトは目を閉じて、ゆっくりと息を吸って長く吐いた。そしてマリークに視線を注ぐと、頷いて見せた。彼女の手から紫紺の光が溢れ出し、リヒトの足元に禍々しくも美しい幾何学模様が描かれる。
そして彼女の手がリヒトの足元を向くと、模様の輝きが増していく。
——カタリーナにはたくさんの物をもらった。
誰かと一緒にいる大切さを、誰かと一緒にいたいと言う本音も。
——俺がいない世界でも彼女の幸せを願う。
どうなろうとも。彼女だけは救い出す。
——ただそれだけを。
その時「リヒトさん」カタリーナの声が聞こえてきた。
——決めたことだ。俺を捨てても君を助けると。
できれば、共に歳を重ねたかった。
その時、「リヒトさん!」彼女の叫び声が耳に飛び込んできた。錯聴とは思えないほど鮮明に。リヒトは視線を走らせ、ある一点で止まる。オルフェニアの額。遠目でもわかるほど、狂おしいほどに青く明滅している。リヒトは胸元に手を突っ込み、取り出した。掌の上にある瑠璃色の石。それが互いの存在を確かめ合うように同じリズムで明滅している。
リヒトを取り囲んでいた儀式の光が、内側から弾け飛んだ。地面を強く踏みしめる足音。直後、リヒトはマリークに胸倉を掴み上げられた。
「お前の言うとおりになんてしてやるか! 死ぬまで、否死んでも挑み続けろ! お前がお前でなくなったら、それはお前がやったことの償いにはならん! その身体で! 手足で! 目で! 命を賭けてやれよ!」
掴んでいる彼女の手が小刻みに震えていた。
化け物になろうがカタリーナを救えるためなら何でもしようと覚悟した。それであの男の手から彼女を救えるならばそれでいいと。しかし、それでカタリーナは笑えるだろうか。本当に幸せに暮らせるだろうか。いや。彼女はそれでは幸せにならない。だって彼女のことを一番見てたのは自分だったから。彼女の幸せのために俺ができることは……。
リヒトは静かに息を吐き、マリークのトパーズの瞳を正面から見据えた。彼女は乱暴にリヒトの胸ぐらから手を離した。
「汚れ役を全うしてくれてありがとう」
「お前のためではない。ビリア様のためだ」
リヒトは再び首から瑠璃色の石をぶら下げた。
——カタリーナが呼んでいる。今、この瞬間の自分を。
大きく深呼吸をし、全身の力を抜く。刹那。リヒトの身体からこれまでとは比較にならないほど澄み渡ったオレンジ色の光が爆発した。その輝きは風に乗り、絶望の淵にいた兵士たち一人一人の心を打つ。それはこの地で戦う兵士たちに力を与えた。憔悴していた兵士たちがまた立ち上がる。まさに英雄の光だった。この地に蔓延るヴィールたちの動きがぎこちなくなり、通常個体のヴィールはその光に触れた瞬間、地面に伏した。
「お前はただ前に進め。邪魔する者は私たちが消す。次そんなしけた面をしたら本当に化け物に変えてやるからな」
腕を組んでいるマリークは静かに力強く告げる。
「肝に銘じておくよ」
マリークが疾風の如く駆け出した。彼女の手から放たれる紫紺の光の鞭が一閃。ヴィールの群れが紙吹雪のように宙へ舞う。リヒトは表情を引き締め、低く鋭く飛び出し、バルムセイバーを振るう。オレンジ色に光り輝く刃は闇夜を溶かしてしまいそうなほど優しく、美しい。リヒトは大地を蹴り上げた。カタリーナを救いたいという純粋な思いが身体から溢れ、瑠璃色の光とオレンジ色の光を織りなし、寄り添っていた。
「うっとうしい雑魚どもが……。何をしても無駄だ。我がすべてを破壊し、この愚かな世界の理ごと葬り去ってくれよう!」
オルフェニアが地鳴りのような咆哮と共に両腕を大地に突き立てた。その裂けた口の奥に凝縮された金色の光が渦巻く。今まさに世界そのものを焼き尽くすエネルギーを溜めている最中、戦場を一本の緑色の閃光が貫いた。ビリアが放った渾身のエネルギーがオルフェニアの顎を強引に跳ね上げる。が、奴は構わずにその光を解き放った。
金色の熱線は地表を溶かしながらリヒトへと迫る。が、リヒトは逃げなかった。一歩も引かず、バルムセイバーを正眼に構える。
衝突。
リヒトの視界が金色の光に塗りつぶされる。バルムセイバーを通じて伝わるのは、もはや熱という概念を超えた消滅の圧力。リヒトの足元の岩盤が耐えきれず砕け散り、身体がじりじりと押し込まれる。全身の筋肉が千切れるような感覚、骨が悲鳴を上げるように軋む。
「まだ……終わらせない!」
リヒトは腹の底から雄叫びを上げた。オレンジ色の光が爆発的に膨れ上がり、押し寄せる金色の光を真っ向から両断する。はじき返された破壊の奔流は、厚い雲を突き破って遥か上空へと消え、遅れて衝撃波が世界を震わせた。一撃でリヒトの身体は限界を迎えた。顎から滴る汗を震える拳で拭う。
周囲を見渡せば、戦場が活気立つ。巨神オルフェニアの周りを緑と紫紺の閃光が舞い、ビリアとマリークが死力を尽くしてやつの注意を逸らしている。そして周りにはアトルサの兵たちが、そしてローザが、声を枯らして剣を振るっていた。誰一人の瞳にも、絶望の色はない。
不思議な感覚だった。リヒトの身体の奥底からふつふつと熱い力が湧き上がってくる。そこの場に集うすべての命がリヒトに託した祈りの鼓動だった。リヒトは口の端を吊り上げ、笑った。
リヒトは走り出した。大地を蹴り、疾風の如く突き進み、立ち塞がるヴィールの群れを斬り刻む。かつては同じ人間だった者たち。異なる空の下で生まれ、それぞれの人生があったはずの魂。リヒトは彼らへの哀悼をその剣に込め、苦痛から解放するように的確にコアを砕いていく。その時、前線で支えていたビリアとマリークが、オルフェニアの巨大な腕に叩き落とされた。二人の身体が無残に地面を転がる。
「ビリア! マリーク! 休んでいてくれ! あとは俺がやる!」
その時、オルフェニアの低い笑い声が響き渡った。
「あとは俺がやるだって? 笑わせてくれる。女一人救えない貴様に! 何ができる!」
リヒトは走り続けながら、見上げた。天を衝くような巨躯、蠢く赤黒い肌。それでも、今のリヒトにとってそれはただの乗り越えるべき壁に過ぎなかった。
「……救い出すに決まってんだろ。これからな!」
「小賢しい!」オルフェニアの身体から無数の触手が噴き出し、意志を持つ鞭となって襲いかかる。リヒトはバルムセイバーを翻し、一閃。オレンジ色の斬撃が触手を塵へと変え、その隙間を縫って跳躍した。振り下ろされる巨大な拳。リヒトはその拳の甲を足場にし、腕を駆け上っていく。肉壁からヴィールが次々と生えてくるが、リヒトは止まらない。オルフェニアが激昂し、腕を乱暴に振り上げた。
遠心力で空中に放り出されたリヒトを、巨大な両掌が挟み込もうと迫る。リヒトはもう一本のバルムセイバーを抜き放つ。身体をコマのように回転させ、分厚い掌を切り刻んでいく。地赤に染まるトンネルを潜り抜けたリヒトは奴の腕を伝って走り続け、飛翔。目の前にはカタリーナが捕らえられている結晶。二つの刃を構えた瞬間。
「死に晒せぇ!!」
オルフェニアが凄まじい威圧の波を放つ。リヒトの身体が空中でバランスを崩す。その隙を逃さず、オルフェニアは再び口を開いた。金色の、すべてを消滅させる光が至近距離からリヒトを狙う。
——まずい。
回避不能の距離に顔を歪める。が、突然鮮烈な緑の閃光がそれを消した。だが、リヒトの焦燥は拭えない。結晶を砕くのに、距離が届かない。リヒトの体力は底をつき、もう一度ここまで登ることはできないだろう。
——くそ。あと少しなのに。
その時、体勢を崩したリヒトの背中を何か柔らかいものが弾いた。視線を巡らせると、瓦礫の端に金髪の紫色のローブを着ている男が蹲っていた。
——しぶといやつだ
リヒトがクスリと笑った。キラリと光る結晶。中にいる眠りについたようなカタリーナ。青く明滅する輝き。リヒトはバルムセイバーを天高く掲げた。刃に宿る光が、周囲の闇をすべて払い除ける。そして——。
渾身の力で振り下ろされた一撃が、結晶の芯を捉えた。パリンッ!と美しい音を立てて、絶望の檻が砕け散る。リヒトは落下する彼女の手を引き寄せ、その細い身体を強く抱きかかえた。
「二人で——終わらせよう」
穏やかにカタリーナの耳元で囁くと、彼女の長い睫毛が震え、ゆっくりとその空の瞳が開かれた。次の瞬間、二人の周囲を再び闇が覆い尽くす。
「俺を甘く見るな! 俺は神をも超えた存在! 貴様らなど捻りつぶしてくれる!」
オルフェニアの赤黒い身体が奇怪に膨れ上がり、無数の触手が二人の包囲網を形成する。逃げ場のない闇の檻。だが、リヒトは静かに笑っていた。懐からあの欠けた瑠璃色の石を取り出した。それは今青く燃え上がるように光り輝いている。カタリーナもまた、震える手で自身の首に掛かっていた同じ石を握りしめた。
リヒトは彼女の麗しい顔を見つめた。血の臭いと死の気配が満ちる戦場。彼女の温もりだけが世界のすべてだった。この瞬間が永遠に続けばいいのに。そう願わずにはいられないほど腕の中にいるカタリーナが愛おしい。リヒトが小さく頷くと、カタリーナも決意を込めた瞳で見つめ返し、リヒトの手に自分の手を重ねた。
カチリ。パズルの最後のピースがはまるように二つの石の欠けた部分が重なり合った。
刹那。
重ねた手の間から眩いオレンジ色の光が溢れ出した。朝日のような眩さの中に夕暮れのような温かさを感じるその光に触れた闇の触手は、一瞬で塵へと還っていく。彼らの手から溢れ出す光がにオルフェニアに降り注義、巨大な身体を侵食していった。
「やめろ! あぁ! あぁぁぁ!」
断末魔の叫びを上げる。その声はもはや怒りではなく叶わぬ救いを求める悲鳴のようだった。
「なぜ。なぜですか! 私は何も間違ったことをしていないのに! なぜ私に微笑んでくれないのですか!」
空に向かって伸ばされた巨大な手は何に届くこともなく指先からさらさらと砂のように崩れ去っていく。山のような巨体はやがて曇天の空へと吸い込まれて消えた。
嵐が去った後のような静寂が訪れる。リヒトは宙に浮いたままカタリーナを力の残る限り、抱きしめていた。彼女の身体から力が抜け、その華奢な腕がだらりと垂れている。
リヒト自身の意識も急速に遠のいていく。空気が冷たく、身体がどこまでも深い闇の中へと落下していく感覚。それでも、リヒトの心は不思議と満たされていた。腕の中に残る彼女の甘いミルクのような香りと最後に重なり合った掌の熱。
——最後に君の傍にいられてよかった。
瞼を閉じたリヒトはそのまま闇の中へ落下してくのだった。
読んでくださりありがとうございます。
敵を倒したけど、自分も死んでしまいそう。みたいな展開が好きだったりします。
次回、死に向かうリヒトを助ける影が。
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