最終章 百万回と一回目①余韻の波紋
覚悟はできている。それなのに、身体は心底正直で、身に及ぶ危険から目を背けてくれない。
儀式は明日の朝にバルムンド博士の研究室で行うことになった。あそこなら仮に失敗しても人目に晒されず対処ができる。もしヴィール化したら、ひっそりと。
ビリアたちと解散した後、儀式を受けることをローザに伝えた。彼女は潤いのある唇を噛み、瞳を揺らしていた。儀式を止めるよう打診されたが、リヒトは首をゆっくり横に振った。そして、自分の過去を全て語った。自分はビリアと同じく大昔の人間であること。一度死んだが、彼女によって再びこの世に生を受けたこと。
ローザは口を半開きで聞いていたが、リヒトの真剣に語る様、そして恐ろしいほど鮮明である話を聞き、嘘ではないことを悟ったようだ。
次こそ、けりとつけたい。自分の胸に秘めた思いと共にすべてを伝えた。話を終えるとローザは何も言わず、身体の横で拳を震わせていた。リヒトはそんな彼女に向けて「俺は死ねないので」と言葉を投げかける。彼女は口の端を下げながらも、リヒトが儀式を受けることに了承した。
その夜、リヒトは眠れなかった。固いベットから起き上がり窓を開けた。涼しい風が汗ばんだリヒトの身体を冷やす。窓から白銀の月明かりが差し込み、机の上にある濃紺の革張りの本を照らしていた。一度だけ読み終えた『最初の雫』。どうせ眠れない。リヒトは夜が明けるまでその本を読むことにした。
やがて朝日が全て顔を出した頃、リヒトは本を閉じてその本を陽の光が当たらない、机の一番端へと立てかけた。その後、シャワーを浴びた。身体にこべりついた不運を洗い流すように入念に体の隅々までを洗っていく。柄にもなく身を清めた後は、いつもの服に着替え、皺がないようにベットシーツを伸ばし、自分の寝床を整えた。
――そして。窓の鍵を施錠し、綺麗に整えたこの部屋を後にしたのだ。
エレベーターが降下を始め、青白い光が気を張るリヒトの顔を照らす。下に近づくにつれて鼓動が激しくなるのがわかる。落ち着かせるように胸に手を当て、深呼吸を繰り返した。やがて身体に重力がかかり、エレベーターの扉が開いた。冷たい金属に囲われた廊下を進むと、コツコツとした足音だけが響き渡った。
バルムンド博士の研究室の扉を開くと、中にはすでにビリア、マリーク、ローザ、そして何やらせわしなく電子機器をいじっているバルムンド博士がいた。踏み出そうとするが、縛り付けられるかのように身動きが取れない。この先に進めばもう後戻りはできない、とリヒトは生唾を飲み込む。
そんなリヒトの下にビリアが駆け寄る。彼女に悟られないよう必死に表情を取り繕っていると、温かいものが手を包み込んだ。ビリアが「冷たい」と呟き、手を摩る。リヒトは胸裏の不安や恐怖を息と共に吐き、足を踏み出した。
「その覚悟だけは褒めてやる。後はお前の気力次第だ。ヴィールになった後のことは心配するな。お前の尻拭いなど造作もない」
マリークの言葉に熱を感じる。リヒトは「頼んだ」と一言だけ彼女に言葉を渡した。
彼女の横に立つローザが真っ直ぐにリヒトを見つめ、歩み寄ってきた。
「大丈夫だ。お前を見てきた私が言うんだから間違いない。ただし、許可を出したとはいえ、もっと慎重に動くべきだ。説教は後にしてやるから、無事に帰ってこい」
胸の辺りを優しく小突く。
「リヒトや。成功したらお前の身体を検査させてくれ。そうすればバルムエネルギーの抽出がうまくいく気がするんじゃ」
バルムンド博士はせかせか動きながら、リヒトを一瞥した。まるで失敗など微塵も考えていないように。ローザが離れた後、ビリアがリヒトを見上げていた。引き締まった顔つき。彼女の意思もすでに固まっているようだ。
「絶対に失敗なんてさせないから。リヒトだったら成功するって、僕は信じているから」
そのひたむきな姿勢そして彼女の力強い言葉が背中を押す。リヒトは目元を緩め「ありがとう」と呟いた。
全員が実験室に入ると、青白い照明が絞られる。リヒトが十歩ほど歩いたところで、振り返る。彼女たちを前にすると、心臓が口から飛び出るほど激しく鼓動する。長く息を吐き、ビリアに頷いて見せた。
誰かが身を動けば衣の擦れる音が聞こえそうな静寂の中、ビリアが両手を広げ、地面に手を翳す。両手に緑色のぼんやりとした鈍い光を宿す。地面を向いていた彼女の掌が徐々にリヒトの足元へ。
すると、足元に大きな光の円が描かれ、その中に丸、四角、星型の模様が描かれていく。ビリアが静かに両手を合わせ、勢いよくリヒトに向かって手を翳した。足元の模様が息吹くように閃光が走る。
刹那。リヒトの身体に異変が走る。灼熱の業火に囚われているように熱い。激しく顔を歪めたリヒトは背を丸め、呻き声を上げた。全身に力を入れ、何とか意識を保つ。とリヒトは目を見開いた。手の皮膚がめくれている。ヴィールと同じ赤黒い肌。
リヒトは能力を使い、すぐさま回復。皮膚が剥かれ、再生。何度も繰り返す。
刹那が幾千にも感じる苦痛。再生が追いつかなくなり、意識に霞がかかる。手の皮は全て剥かれ、頬の皮も剥がれ始めた。そして腕や足が膨れるような不快感。意識の線が途切れようとした瞬間、泣き叫ぶ声が。
「リヒト! 正気を保って! お願い! お願いだから! こっちを見て!」
顔を上げると、ビリアが涙を流して必死に叫んでいた。灼熱に身を焦がす中、リヒトは微かに笑った。震える手で、胸元から瑠璃色の石を取り出した。三人の思い出が重なった大切な瑠璃色の石。その石を力強く握りしめた。
すると指の隙間から眩い青い光と太陽を溶かしたようなオレンジ色の光が漏れ出す。身体に纏った不快なものが全て柔らかに溶かされる。
直後、この空間にあるすべての光がパン!と弾けた。実験室の青白い照明も、儀式の光もすべて。暗闇を唯一照らしているのは黄昏を纏ったようなリヒト。彼の纏う光は息を忘れるほど美しく神秘的だった。
儀式の後、リヒトはビリアから信じがたいことを聞いた。あれは確実に失敗する兆候だったと。何があったのか、正直あまり覚えていない。リヒトは思慮深い顔をしていると、バルムンド博士が丸い身体をジャンプさせ、「早く検査をさせてくれ!」と子供のように騒いでいた。検査の結果わかったことは一つだけ。リヒトの身体の中を流れていたはずの高濃度のバルムエネルギーが消失したのだ。彼女たちが頭を悩ませている中、バルムンド博士だけはなぜか喜び、その解析に勤しんでいるのであった。
儀式を終えたリヒトは精神的に疲労困憊であった。昨夜も寝てない。一度仮眠をとりたい。
リヒトが自室の扉を開けると、涼しい風がリヒトの身体を撫でた。整えられたベットに今すぐにでも飛び込みたい衝動に駆られる。開いた窓から燦燦と陽の光が降り注ぎ、机の上に反射した光が眩しい。
そんな中リヒトは小首を傾げ、窓を閉めた。戸締りはしたはずだったが。
すると、視界の端に映ったものが気になった。机上にある一冊の本を見たリヒトは目を見開いた。急いで窓を開けて周囲を警戒する。部屋の中を隈なく捜索したが、無くなっているものが一つ。あの時買った『最初の雫』。机上に置いてある本を手に取る。『最後の雫』。題名にそう書かれた本が手の中にある。濃紺の革張りではなく、真っ白の革張り。中央から波紋が広がるような表紙絵。しばらくの間リヒトは中を開かず、それをじっと凝視していた。
読んでくださりありがとうございます。
さて、最終章が始まりました。主人公がパワーアップみたいな展開が好きなのはやっぱり漫画の影響なんでしょうかね。
次回、ラピス教国へ再び乗り込むリヒトたち。捕えられたカタリーナは。
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