3章 空白完結 ⑮共に背負う覚悟
訓練とは名ばかりの本音を交えたリヒトはその後、ローザに頼んで第二会議室を開けてもらった。彼女たちと話をするのであれば、防音設備が整えられた方がいいという微かな気遣い。
籠った空気を変えるべく、リヒトは会議室の窓を開けた。爽やかな風が部屋に流れ込み、味わう。深呼吸をして自分を落ち着かせる。リヒトはパイプ椅子を二脚、そして対面するように一脚用意して時を待った。
——やがて。扉をノックする音が響く。リヒトが扉を開くと、眉尻を下げたビリアとただこちらをじっと見てくるマリークがいた。誰かが動くのを待っている沈黙の中、リヒトが半身を引くと、ビリアが重々しく足を踏み出し部屋に入った。
その後ろ姿を見つめていたマリークは小さな嘆息をつき、踵を返すが、リヒトが彼女の背中に声をかける。
「あなたも入ってください」
ぴたり動きを止めた彼女は小さく舌打ちをし、床を踏み鳴らして部屋の中へ入っていった。
用意したパイプ椅子に二人を座らせた後、リヒトは対面に腰を下ろした。身体を縮こませるビリアと胸の前で脚を組むマリーク。窓から差し込む光が斑らな雲の流れで遮られ、また差し込み。部屋が明滅する。張り詰めた空気の中、それを破るようにリヒトが口を開いた。
「カタリーナを助けに行きたい。だから二人の力を貸してほしい」
弾かれるように顔を上げたビリアだったが、真剣な面持ちのリヒトを見るや否や、視線を反らした。一方マリークは、目を眇めてビリアの様子を確認する素振りを見せるだけで何も言わない。やがて、ビリアが重々しそうに閉ざしていた口を開いた。
「……どうやって助けるつもり?あそこには僕たちでも制御できないヴィールで溢れてるんだよ」
「オベリア部隊が先陣を切って風穴を開ける。俺と一緒にあの男を倒すのを手伝ってほしい」
膝の上に置いた拳をぐっと握り込むリヒトは目の前の二人に交互に視線を送るが、どちらとも目が合わない。再び肩の上にのしかかるような重い沈黙が漂う中、マリークが組んでいた足をほどき、冷ややかな目を向けた。
「期待外れも甚だしい。こんな軟弱な男のためにサフィラ――ビリア様は苦しんでおられたのか」
憤りを抑えているような静かな口調。それでもリヒトの覚悟は変わらない。
「そう、俺は弱い。それなのに、一人でやろうとして何度も何度も失敗してきた。頼む。力を貸してくれ」
「——人の気も知らないで、よくそんな減らず口を叩けるものだ」
組んでいた腕が更に固く結ばれた。重い沈黙が拭えぬまま、リヒトは目元を引き締めた。
「虫がいいことを言っているのも理解はしている。それでも——彼女を助けたいんだ。一緒に戦ってくれるのが一番だけど、それが無理なら――俺に儀式をやってくれないか」
刹那。ビリアが「ダメ!」と声を溢れさせた。彼女のサフランのような黄色の瞳が大きく揺れる。彼女を横目で見ていたマリークが強い視線をリヒトにぶつける。
「貴様。口にしている言葉の重さがわかっているのか」
小さく頷くリヒト。儀式のことはローザから聞いた。成功すれば、身体に流れるバルムエネルギーが活性化し、身体能力が格段に上がる、と。今のままでは同じことを繰り返すだけ。少しでも彼女を助けられる可能性が高まるのなら、と覚悟を決めたのだ。
「もちろん理解している。失敗すればヴィールになることも」
「この際だからはっきりいってやろう。私はお前が儀式を受けることに喜んで賛成してやる。ヴィールになってこの地を彷徨うがいい。その無様な姿を堪能し、私がお前をこの世から消してやる」
マリークの吐き捨てる口調にリヒトは鼻を鳴らして口の端を上げた。
「冗談ではないぞ。儀式が成功する確率は千分一未満。わからないで言っている愚か者か、わかって言っている脳足りんか。お前はどっちだ……」
そんな数字など今のリヒトには何の懸念にならない。死んだ人間が生き返る方がずっとありえない。リヒトは椅子の背に身体を預けた後、改めてマリークと視線を交えた。
「わかって言っている愚か者だな。あの男を倒すには今の俺ではだめだ。それぐらいの覚悟がなければ、何も変えられない」
リヒトの真剣な物言いにマリークは舌打ちを鳴らし、押し黙った。未だ怯えたように肩を縮こませるビリアの判断に委ねるように。そして今まで口を噤んでいたビリアが口を開いた。
「リヒト。僕は儀式をやりたくない。だってもし失敗したら? 僕がやってきたことが全部……。全部無駄になっちゃう。絶対だめ。絶対に嫌だ」
悲痛の叫びにも似た彼女の声はか細く震えていた。それでもリヒトは真っ直ぐな眼差しを注ぎ続けた。
「頼む」
他の選択肢は考えられなかった。二人に協力してもらって、儀式も受ける。それがリヒトの望む最善の形。
その時、ビリアが一瞬だけ口の端を上げた。まるで自分を嘲笑うかのような冷たい笑み。
「そう、だよね。リヒトは決めたら頑固だもん。わかってる。わかってた。だからね……」
ぴりりと肌を刺す空気。顔を上げたビリアの顔が薄く陰り、黄色の双眸がぎらりと瞬く。
「僕にも考えがある。マリーク」
直後、マリークは跳ねるように立ち上がり、リヒトに向けて手を翳した。紫紺のひも状の光がリヒトの首、手首、足首を拘束し、壁に磔にした。壁にぶつかった衝撃だけで痛みは少ないが、振りほどこうにも身体が動かせない。
遅れてビリアがゆらりと立ち上がり、一歩また一歩とリヒトに近づいていく。いつしか見たラピス教の教皇たる禍々しいオーラを纏っていた。
「リヒトが悪いんだよ。僕の言うことをちゃんと聞いてくれないから。だったら僕も変えてやる。僕はね。リヒトさえ生きてくれればそれでいいの。他のやつのことなんでどうでもいい」
抑揚の少ない淡々とした声音。そして、顔を俯かせたままのビリアはリヒトに向かって手を伸ばした。彼女の手に翡翠の光を纏っている。
「今から記憶を消す。痛くないから安心して。次に目覚めたときはもう苦しまなくていいように、僕がずっとそばにいるから」
変わって、沈むような抑揚のない掠れた声。リヒトは身体の力を抜いて、ビリアを見つめた。
「ビリア。これがお前の選択なら仕方ない。ただ今の俺が最後になるのなら、頼みを一つ聞いてくれ。――もう一度俺を見てくれ」
それでも彼女は顔を上げない。ずっと顔を俯かせたまま、光を灯した手、指先が震えている。
「頼む。今の俺を見てくれ」
彼女が顔を上げると、張り詰めた表情が瞬く間に崩れていく。
「な、んで……。そんな顔、するの」
ビリアの目元に涙が溜まる。リヒトはまっすぐにビリアだけを見つめ、他の誰のことも考えなかった。目の前にいる彼女だけを夜空のような黒い双眸に溶かし込んで。
「俺にはお前が必要なんだ。頼む。力を貸してほしい」
本音だった。カタリーナを救いたい気持ちは変わらない。ただビリアだけに重荷を負わせたくない。共に育った彼女がこれ以上一人で抱え込むのをやめさせたかった。
ビリアは堪えていたものが崩壊したように、その場に崩れ落ちた。宿した翡翠の輝きは消え、その手に一滴の雫が落ちる。泣き叫ぶことはせず、呻き声がこの部屋の中に溶けていった。
その時、身体に自由が戻る。拘束していたマリークの光が空中に霧散する。不満げに口を尖らせたマリークと目が合うが、すぐに逸らされた。リヒトはビリアの前で膝をつくと、彼女は顔を上げた。切れた大きな目にたくさんの涙を抱えていた。
「ビリア。俺を生かしてくれてありがとう。お前のおかげで俺はまだやり直せる」
優しく柔和に笑みを注ぐ。すると、ビリアの目元から涙がこぼれ落ちた。まるでダムが崩壊したように次々にそれが溢れてくる。
「僕たちの……。約束……。覚えてる?」
忘れた記憶。忘れちゃダメな約束。おぼろげだった記憶の中で、その約束だけはすでに思い出していた。
「たくさんの花に囲まれた場所でみんなで暮らそうって約束したよな。ちゃんと覚えてる」
ビリアは感涙に咽びくように何度も小さく頷いていた。
――そしてひと時が流れ、椅子に座った三人は再び向き合った。泣き疲れたビリアはマリークによって体力を回復してもらい、腫れぼったくなった瞼も今は元通りになり、生気の宿る黄色い瞳でリヒトを見つめていた。もうそこにラピス教の教皇サフィラスの面影はない。リヒトの目に映るのは間違いなくあの頃と同じビリアの姿だった。
「もう一度お願いする。カタリーナを助けに行きたい。だから二人の力を貸してほしい」
リヒトが頭を深々と下げた。あの男を倒すためにはこの二人の力が必要だ。だから記憶を消される覚悟をしてまで、この二人と向き合うことを選んだのだ。あとは——儀式だけ。
「協力はする。僕たちも一緒に戦う。でも儀式は……」
ビリアが眉間に小さな皺を寄せていると、マリークがその場をすぱりと切り捨てるように語る。
「今のままではあの男に勝てない。お前たちがいても足手まといになるだけ。私とビリア様だけで戦った方がマシだ」
「……マリークの言っていることは間違っていない。だからリヒトたちはヴィールと他の信者たちとの戦いに集中して。あの男とは僕たちが戦うから」
ゆるぎない彼女の瞳が現実を突き付けてくる。カタリーナを救い出したい。決めた覚悟と足りない己の力がぶつかり合う。リヒトは拳を握りしめた。
「だから儀式を受けろ」
彼女はそれ以上何も言わなかった。焦ったようにビリアはマリークに身体を向ける。
「マリーク! 儀式はだめだって言ってるでしょ!」
「ビリア様。無礼を承知で言わせていただきます。申し訳ありません」
マリークは立ち上がり、小さく頭を下げた。一本線が通ったような美しい立ち姿。彼女は前髪にかかった奥から、眉尻を下げるビリアに熱の籠る眼差しを注ぐ。
「愛する男を守りたい。その気持ちに何も言いません。ただ覚悟を決めた男に情けなどかけてはいけません。守るばかりが手段ではなく、時に前を向かせるのも愛だと思います」
ビリアの表情が曇る。胸の中で激しい葛藤をしているように。リヒトは椅子から静かに立ち上がった。生かしてもらってなお、彼女に頼り、甘えてしまう。ただ、覚悟は決まっている。
「ビリア。俺に儀式を受けさせてくれ」
リヒトは曇りなき眼をビリアに注いだ。黄色い瞳が泳いでいるが、やがてリヒトを捉える。己の内圧を下げるように長く息を吐いた。
「もう……。リヒトはこうと決めたら頑固だよね。そういうところ本当に変わらない。変わってもいいと思うんだけど」
ビリアの声色が優しくなった気がする。リヒトは少しつんけんとしたように口を尖らせるビリアを見て微笑を滲ませた。ビリアのそういうところも変わっていない気がする。おぼろげな記憶の中だが、リヒトはそう感じていたのだ。
読んでくださりありがとうございます。
誰かに頼るのって意外と難しいんですよね。頼らず生きてきた人なら尚更のこと。
次回、最終章が始まります。
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