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3章 空白⑬空色の願い

 何も掴めない視界。凭れるようにリヒトはベットに腰を下ろした。掌の上には一部だけ欠けた瑠璃色の石。その一部分がいつまでも埋まらない気がしてならなかった。思考が途絶え、気がつくとリヒトはベットの上で横たわり、瞼を閉じた。やがて意識がどこか遠くへ離れる中、握った左手から青白い光が指の隙間から漏れ出したのだった。

 


 リヒトは再び過去に溺れ踠いていた。沸騰するような怒りと身の毛のよだつ寒さが同時に襲い、胸の痛みが全身に駆け巡る。冷たい雨が石畳の上に横たわる桃色の髪の女性を激しく打ち付ける。その横で四つん這いになり、肩を震わせている黒い髪の男。


「なんだその顔は……」


 天を仰ぐ男の顔は魂が抜けたように無気力だった。彼の肌を篠突く雨が叩き、数多の水の玉が流れる。


 一つ瞬きをすると、穏やかな太陽の下で頭を抱えて蹲っている男が映る。情けなく割鐘を叩いたような叫び声を上げ、小さく丸まった身体がひどく惨めで、情けなく見えた。


「やめろ……」


 また変わる。ウッド調の床の上で血を流し、倒れている女性を発見した男。血の気の引いた顔で全身を震わせ、膝から崩れ落ちた。この世でもっとも不幸な男と言わんばかりの絶望した表情を目の当たりにする。


「もうやめてくれ……」


 そしてまた、繰り返す。止まることのない濁流のように次々と。耐え切れずリヒトは頭を抱えて蹲った。目を必死に閉ざすと、周囲を回るように男の声が聞こえてくる。


「お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ」


 耳を塞いでも、何をしても止まらない。リヒトの心の薄皮を一枚、また一枚と剥ぐように蝕んでいく。怯えるように身体を縮めるが、徐々にその声が近づいてくる。


「お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ」


 その声がリヒトの耳元に近づいてきた時。ぐっと奥歯を噛み締める。

 

「わかっている。全部俺のせいだ」


 掠れる声で呟いた。


「あの時、カタリーナを守れなかったのは過去に溺れた自分だ。隊長は悪くない。俺が弱いだけなのに、責任を押し付けた。俺は最低の人間だ」


 蹲りながら拳を握りしめた。

 

「約束したことも守れない癖に、口だけは一丁前。それなのに大口を叩いて……何度やっても、何回繰り返しても同じ結末を辿るだけ……。この世界から……消えてなくなりたい。もう……俺を……。殺してくれ」


 取り囲んでいたあの声、そして凍てついた何かがリヒトの心に入り込もうとした時。突如、それが消えた。


 小さく丸まった背が鼓動するように、空気が勝手に肺へ入っていく。しかし、強張った身体の震えが止まらない。呻き声がこぼし、突っ伏したまま。もう目を開けたくない。


 誰も……俺に……構わないでくれ。


 刹那。


「リヒトさんらしくないですよ」


 身体の震えが止まった。が、小さく頭を振った。


 だめだ。どうせこれも過去の一部。期待だけさせておいて、どうせ裏切る。俺がしてきたことと同じだ。


「ほら。リヒトさん。せっかくここまで来たんだから起きてくださいよ。――どうしようかな。ウルスラちゃんなら……。こらリヒト。そんなんじゃカタリーナちゃんに笑われちゃうよ! かな?」


 透き通るような柔らかい声。ホットミルクのような甘い香りがリヒトの鼻をくすぐった。リヒトは憔悴しきった顔を上げた。


「リヒトさん。私ですよ」


 桃色の髪、そして空色の瞳の女性が自分を指さしながら笑った顔を見せた。木漏れ日が降り注ぐ花畑に包まれている場所。もう会えないと思った彼女が手の届く距離にいる。


 リヒトは勢いよく立ち上がり、彼女を力いっぱい抱きしめた。もう離さない、どこへも行かせないと。


 リヒトの切れ長の目から熱い涙が、一筋頬を伝う。「カタリーナ」と振り絞るように声を溢すと、彼女は「はい」とだけ言った。


 これが夢であろうが、何であろうか関係ない。今、自分の腕の中にカタリーナがいる。それだけで十分だった。


「俺が不甲斐ないばかりに何度も、何度も傷つけた。本当にすまない」

「大丈夫ですよ。リヒトさんが私のために……すごい頑張ってくれていること。私知ってますから」


 凍え、震えていた手が彼女の体温で温められていく。彼女と出会った日から、幸せを得た日々をゆらりと歩くように思い出す。胸の中の彼女が頭を擦りつけてくる。それがただ、たまらなく愛おしい。


「リヒトさんと出会ってから私の運命は変わりました。それがどういう結末を辿ろうが悔いはありません」


 微かに吐息が混じる声がリヒトの目元を熱くさせる。リヒトは目を向けると、いつ見ても飽きない可愛らしい顔が自分を見ていた。彼女はリヒトに回していた腕を解き、目から溢れた涙をそっと拭い、花がほころぶようにふんわりとした笑みを浮かべた。


「私のために涙を流してくれてありがとうございます。それだけで私の胸はいっぱいです」


 彼女の笑った顔で全てが報われた気がした。リヒトの心に開いた穴は塞がれ、愛を注がれ、満たされていく。彼女は再びリヒトの胸に顔をうずめた。胸の辺りがくすぐったい。


「お願いを聞いてもらえませんか」

「構わない。俺にできることならなんでもする」

「ビリアを。あの子を許してあげてください。ずっと一人で苦しんできたんです。私たちが今こうしている時も、きっと。リヒトさんが許してくれれば、あの子も報われます。私たちが何度も出会えたのは彼女のおかげですから」

「……別に怒っているつもりはないんだが」


 リヒトがぶつぶつと言い、口を尖らせると、彼女は小さく噴き出すように笑った。


「そうであればちゃんとあの子のことを見てあげてください。彼女の心はあの時から塞がったままです。だから私の代わりにお願いします。リヒトさんにしかできないことなんです」

「検討してみる」


 二人は一度見つめ合った後、顔を綻ばせ、再び身体を寄せ合った。温かく、朗らかな時が溶けていく。風が吹き、草木の擦れ合う音がまるで二人の再会を祝福するように。カタリーナが顔を上げ、リヒトを見つめていた。空色の瞳の奥に輝かしい何かが宿っている。


「後ふた――いや一つお願いがあります。あの男を倒してください。私たちが始めた物語は私たちでけりをつけましょう」


 リヒトは安心したように鼻から息を吐いた。たとえ、この身が滅びようとも彼女の願いのために戦う。そう決意した。

 

「……そうか。それでも構わない。俺が死んだら花でも添えてくれ」


 リヒトは片眉を上げて、得意げに言った。奴を倒せば自分は死ぬ。それでも、彼女が平和な世界で幸せに暮らすこと。ただそれだけを考えればいい。


「きっと……私も死ぬはずです。あの男を倒そうが倒さまいが、その時は訪れます」

「どういう……ことだ」


 リヒトは歯切れの悪い口調で言葉を繋いだ。カタリーナは掌を掲げた。温かみのあるオレンジ色に光っている。


「あの男を倒せば、私を生かしてくれている女神さまの力は必要なくなり死ぬでしょう……」


 リヒトはカタリーナの肩をあまり力を入れないように掴んだ。

 

「待ってくれ。その女神さまの力って言うのはなんなんだ。だってそれは、カタリーナの能力じゃないのか」


 焦りの滲んだ早口のリヒトに対し、カタリーナは小さく首を振った後、ゆったりとした口調で答える。


「これは女神さまから授けられた力です。形は違いますがリヒトさん、そしてビリアにも宿っています」


 カタリーナはリヒトの胸を軽く指で小突いた。すると身体が似たようなオレンジの光に包まれる。陽の光が降り注いだように温かい光。


「この力があの男に渡れば、世界に希望はありません。だからこの世界のために、未来のためにあの男を倒してください。それが私の望みです」


 目元を引き締めたカタリーナの表情から確かな覚悟を感じる。しかし、その覚悟を支えている何かが見えた。揺らがぬように、必死に耐えているものが。すると、彼女の身体が末端から小さな光の粒へと変わっていく。リヒトは彼女の身体を引き寄せて、抱きしめた。


「まだ何か言いたいことがあるんじゃないか。早く言ってくれ。頼む」


 胸に顔をうずめる彼女から鼻をすする音が聞こえた。リヒトは彼女を離さぬよう抱きしめ続ける。


「……できれば最後ぐらい。リヒトさんの腕に中で。だから――私をあそこから連れ出してください」


 そう言い残したカタリーナは光の粒となり、澄み渡る青い空を昇っていく。その光をリヒトは見えなくなるまで、じっと見つめていた。そして、目を閉じて、大きく深呼吸をした


 窓から薄い光が差し込む部屋の中でリヒトは立っていた。掌の上にある一部だけ足りない瑠璃色の石。それをグッと握りこんだ。


 必ず救い出す。


 決死の覚悟を心に宿し、リヒトの表情に、心に熱が灯ったのだった。


読んでくださりありがとうございます。

ここ書きたかったんですよね。主人公がもう立ち上がれなくなった時に支えてくれるヒロインみたいなのが好きです。

次回、ローザ視点の話です。


感想や評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。よろしくお願いいたします。白モン

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