3章 空白⑫愛という名の呪い
夕日に照らされたアトルサに帰還したオベリア部隊を出迎えたのは、盛大なる歓声そして敵地から無事に戻ってきた彼らに対する感謝だった。まるで凱旋パレードのように道ゆく人々が晴々しい顔で出迎える中、リヒトが抱いたのは怒りそして憎しみだった。カタリーナがあの地に残っているというのに。この国の人間はなぜ笑っているのだろうか、と。リヒトは冷たく射るような目で群集を見下ろしていた。
夜の帷が降りたオベリア基地の自室。リヒトはベットの上で魂が抜けたような無気力な面を何もない天井に向けていた。カタリーナと出会った時と同じような白銀の月明かりが差し込む夜。今はその光がひどく冷たく感じた。
目を閉じると、過ちの欠片が脳裏を掠める。目の前で、幾度となく光が消える空色の瞳。記憶の薄膜を一枚、一枚破るように思い出していく。何度彼女を救えなかったのだろう。静寂に包まれるこの部屋の中でリヒトは「痛ぇ」と短く呟いた。
突然、扉をノックの音が聞こえる。
今は誰にも会いたくなかったが、がちゃりと扉が開く音がしたので、頭だけ起こして目を向けた。突如、眉間に皺が刻まれる。
そこにいたのはラピス教徒の枢機卿であるマリーク。変わらず鋭い視線を向けている。鋭い視線が交錯する中、彼女は半身を引いた。すると、後ろから顔を俯かせ、怯えたように胸の前で手を握ったビリアが現れた。張り詰めた静けさが漂う中、ビリアが恐る恐るといった様子で一歩踏み出した。
直後。リヒトはベットから跳ねるように飛び上がり、身を構えた。同じ施設で育った記憶はあれど、未だ敵という認識を拭うことができない。ビリアはビクッと肩を震わせた。少し間が空き、彼女がまた一歩踏み出すと同時にマリークが扉を閉めようとした。
「おい!お前!」
リヒトは声を荒げる。が、マリークは一瞥しただけで、扉を閉めたのだった。
慣れ親しんだ自分の部屋なのに静寂が重い。ビリアは微かに口を開くが、また口を紡ぐ。そんな膠着状態が続く中、唇を引き結んだビリアがゆっくりと窓の方を指さした。
「あの……。椅子借りてもいい?」
無言のまま頷いて見せると、彼女は椅子を引いて腰を下ろした。
「少し長い話になると思うんだけど、リヒトも色々聞きたいことがあると思うから聞いてくれる?」
リヒトと呼ばれること。ラピス教国で呼ばれた時は苛立ちが先走ったが、今は恐ろしいほど違和感がない。リヒトは張っていた肩から力が抜けた。そしてベットの端に座り直し、項垂れるように前屈みのまま視線を床に落とした。
「僕のこと誰だかわかる?」
「あまり覚えていないが……名前は……ビリアなんだろ?」
横目で見た彼女は嬉しそうに微笑んでいた。その顔を見た瞬間、ビリアの笑った顔の記憶が蘇り、たまらずリヒトは目を反らした。気付かぬうちに呼吸が浅くなっていた。
「そう。一度は置いてきたけど、僕の本当の名前はビリア。……リヒトと一緒に暮らしてたんだよ」
「……あの施設でか?」
「思い出しちゃったんだね。そうだよ。僕たちはそこで出会ったの。もう大昔の話だけど」
リヒトはだらりと無気力な身体を起こした。リヒトは訝しむように目を細めて、小さく首を捻った。
「そんなに昔のことなのか?」
「そう。ずっと昔だよ。もう何世紀たったんだろう」
リヒトは目を見開いて、黒い瞳を激しく揺らしていた。
「本当だよ。ヴィールって何年前から存在するか知ってる? それよりも前に僕たち一緒にいたの」
恐る恐るビリアの方を向くと、サフランのような黄色の瞳がリヒトを真っ直ぐに見つめていた。
バルムンド博士から聞いたことがあった。ヴィールは何千年も前に急に姿を現し、この地を破壊し尽くした。そのせいで人類はほとんど滅亡し、残ったのはこのアトルサにいる人間、そしてラピス教国にいる人間だけになったと。信じられぬ現実か胸を切り裂く虚構か。どちらにしても、心が受け入れを拒否している。
リヒトはたまらず立ち上がり、ビリアに詰め寄り華奢な肩を乱暴に掴んだ。
「それじゃあなんで俺は……お前は!今、生きているんだ!」
語尾が強くなり、同じように肩を握る力も増していく。彼女は一瞬だけ顔を歪めるも、顔を上げた彼女の口元には弧が描かれていた。ビリアが優しくリヒトの手に触れると、リヒトは弾かれるように手を引っ込める。彼女の褐色の肌にリヒトの爪の跡が刻まれていた。緩んだ顔つきで彼女はその傷跡を撫でていた。
「僕が願ったの。リヒトが、死なないようにって」
「だからと言って……。説明になっていないだろ。願ったからって死んだ人間を生き返らせるなんて……」
ビリアの柔らかい眼差しが依然としてリヒトに注がれる。が、彼女の顔つきに曇りが見え始めた。
「そう……だよね。本当に信じられない話だよ」
意気消沈したような声色が静寂に落ちる。するとビリアは顔を俯かせたまま、重苦しそうに閉ざしていた口を開いた。
「覚えているかわからないけどありのまま話すね。少し長くなるけど聞いてくれると嬉しい」
リヒトは長く息を吐いた後、体重を預けるようにベットに腰を下ろした。ビリアは目元を引き締め、語り始めた。
「リヒトがラナを追いかけて施設から出ていった時、僕も後を追ったんだ。でも必死に走ったけど、間に合わなかった。二人が倒れているところ見つけて、僕は絶望した。でもその時、耳元で誰かが語りかけてきたの。なんて言われたのか。もう昔のことすぎて覚えてないけど……。リヒトを生き返らせるとかなんとか、契約がどうこうとか。僕はそれに必死に縋った。そのすぐ後、リヒトは目を覚まして、僕は心の底から喜んだ。でも目の前のラナを見たら、精神が壊れちゃって。私にはどうすることもできなかった。ここまでで何か聞きたいことはある?」
全部が嘘……ではない。あの時、見たものとおおよそ同じ。ただ自分が生き返ったというのが信じられない。あの時、彼女と共に死んだはず。死んで……。
「わからない……」
「そう……だよね。ずっと昔のことだもん。覚えてないのも無理ないよ」
ビリアの顔に悲しげな色が滲んでいた。
「僕はそれから声に従って世界を彷徨った。バルムキューブに信仰心を貯めるという契約を満たすために。だから必死に信者を集めた。リヒトを死なせないために……」
「待てよ。まさかそのためにヴィールを使って世界を滅ぼしたって言うのか」
リヒトは怪訝に目を眇めるが、ビリアは寂しそうに、ただ何かを思い出しているかのように目を伏せていた。
「そんなバカな話が合ってたまるか」
「リヒトは悪くない。これは僕がやったことだから」
「……俺の記憶がなかったのはなんでだ」
「僕が消した。そうしないとリヒトの心が壊れると思ったから」
もう何が真実で、何が嘘なのか。理解の範疇を超えていた。ただビリアと自分自身が生きている。そして思い出した過去。それだけで事を理解するのには十分だった。あそこで世界は足を踏み外した。その現実がリヒトの肩に重くのしかかる。
「ラナって言うのはカタリーナのことなのか。俺は何度か彼女とあってるよな」
「今回はカタリーナって名前なんだね。何度どころじゃない。もう数えきれないほどにね」
「……そんなにか」
「そう。出会ってしまう。僕が食い止めようとしても何度もね。そして必ず……」
ビリアは息を飲んだ。喉の奥で言葉を止めているように。彼女は短く息を吐いた後、顔を上げた。
「彼女はリヒトの前で命を落とす。その度に僕が記憶を消して回っていた」
必ず出会って、必ず死ぬ。項垂れたリヒトは自身を嘲笑するように小さく鼻を鳴らした。
「もはや……呪いだな」
消えゆくように小さく呟いた。俺のせいだ……。全部、俺の。
視界の端でビリアが椅子から立ち上げるのが見えた。彼女はリヒトの前で膝で立ち、白い装束から何かを取り出した。
「これ持ってる?」
彼女の掌に乗っていたのは瑠璃色の石。リヒトは何も言わず、ポケットから同じようなものを取り出し、それを虚ろに見つめた。ビリアは自分のそれをリヒトのものと重ねた。
――ぴたり。
隙間なく噛み合う。あと一つ同じ大きさのものがあればきれいな楕円のような雫の形が完成する瑠璃色の石。あともう一つ……。カタリーナの笑った顔が脳裏によぎる。
「僕たちが繋がっている唯一無二の証拠だよ。僕のこれは……。リヒトにあげる。だから――」
彼女が最後まで言い切る前に、リヒトは立ち上がった。
「どこに行くの?」
「カタリーナを助けに行く。そしてあの男を殺す」
リヒトがドアノブに手をかけた瞬間。
「待って!」
リヒトは手を掴まれた。いつぞやの記憶が蘇る。あの時と同じ。ビリアは震える手でリヒトを、次こそは離さないと言わんばかりに強く掴んでいた。
「今から言うことをよく聞いて。あの男を殺せばカタリーナとは二度と会えなくなる。リヒトもその場で……」
「どういうことだ」
ビリアの震える手がジトっと湿っていく。
「あの男がいれば、契約は存続される。だから今のカタリーナが死んでも、またどこかで彼女は生まれるはずだよ。ただしあの男が死ねば契約は破棄。さっきリヒトが言っていた呪いって言葉がまさにそうだ。呪いは解除され、カタリーナが生まれ変わることもなく、リヒトも生きていられない」
一瞬だけ、視界がぐにゃりと歪むも瞬きをして、ドアノブを押し下げた。しかし、前に進もうとしても後ろの彼女が手を離してくれない。
「もういいんじゃないかな。リヒトは……ずっと頑張ってたよ。でも変わらなかった。だから……もう諦めてもいいんじゃないかな」
リヒトは目を見開き、強引に振り返って彼女の胸倉を乱暴に掴んだ。彼女のコシのあるアッシュグレーの髪が大きく揺れる。
「お前に何がわかるって言うんだ!」
張っていた感情の糸が切れたように怒号を浴びせる。ビリアは俯いたまま、行き場のなくなった手を身体の横で握りしめた。
「わかるよ……。わかるに決まってるじゃん」
押し殺したような声。顔を上げたビリアは目尻と目頭が切れたような目から涙を溢していた。咄嗟に胸ぐらを掴んでいた手を離す。また……俺は……。
「ずっと。ずっと見てきたんだから。大好きな人が……。死ぬほど苦しんいる姿を見ている、僕の気持ちがわかる!?」
彼女は涙を流し続け、訴えるように叫んだ。肩をひくつかせ、それでもなお、彼女はリヒトから目を逸らさない。胸の奥に溜まったものを吐き出すように、涙と共に。
「今だってそう! いつだってリヒトは僕を見てくれない! でも……それでもいい! リヒトが生きてさえくれれば僕はそれで幸せだから!」
彼女の言葉は真っ直ぐリヒトの胸に突き刺さった。あの時、後ろを振り返ったら、彼女はこの顔をしていたのだろうか。リヒトは打ちひしがれる思いを胸に、涙を溢れさせる彼女に何も声をかけることができなかった。
やがて、彼女は溢れ出た涙を乱暴に袖で拭うと、何も言わず、この部屋から出ていった。しんと静まり返るこの時間が、リヒトを再び世界の中で置いてきぼりにした。
読んでくださりありがとうございます。
物語の核心に迫った一話でした。割と書きたかった部分。
次回、立ち上がれず打ちひしがれるリヒト。
感想や評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。よろしくお願いいたします。白モン




