3章 空白⑪取り残された空
3章 空白⑪取り残された空
目を開くと薄暗い天井だった。ここが現実なのか、それともいつぞやの世界なのか。脳が受け入れを拒否しているように、意識が薄膜の向こう側に取り残されていた。
ゆっくり身体を起こすと、突然頭が割れるような痛みが走り、視界がぐらりと揺れた。思わず顔を歪め、片手で顔を覆う。浅く呼吸を繰り返し、指の隙間越しに辺りを見渡す。見慣れた壁、机、椅子だけが置かれた無機質な部屋。遅れてここがステルスシェル内の自室だと理解した。
なぜ自分がここにいるのか、最後に何を見た、どこまで覚えている、記憶を遡る中で脳裏を掠める空色の瞳。リヒトの視線が跳ね、無意識に彼女の姿を探すがどこにもいない。弾かれるようにベッドから飛び降り、リヒトは裸足のまま部屋を飛び出した。
ぺたぺたとした足音だけが静かな通路に長く響く。行き交う人影も気に留めず、焦りを隠せぬ険しい顔のままステルスシェル内を走り回る。絶えず視線だけが彼女を探し求めていた。
カタリーナの部屋の前で足を止める。微かに震える手で、ゆっくりと扉を開ける。が、彼女はいなかった。静まり返った整えられたままの室内。机の上にぽつんと置かれた二人の少女が手を握る表紙の本。
リヒトは部屋に入ることはせず、漣む気持ちを落ち着かせるように長く息を吐いた。大怪我を負っていたはずだ。ここにいるわけがない。その時だった。
「……起きたか」
背後から声が落ちる。振り向くと、身体の横で腕を抱えて目を伏せているローザ。リヒトは彼女へ駆け寄った。
「隊長!カタリーナは!医務室ですか?無事なんですよね?」
自分でも驚くほどの早口。ただ答えを急かすように彼女に縋りついていた。普段なら短く結論だけを返す彼女が、胸に秘めたものを押し殺すように口を閉ざしている。
薄陽の光を背にした彼女の顔に濃い影が落ちている。船体を伝う微かな振動だけが足元から腹底に響き、それがやけに現実的だった。ローザは短く息を吐いて、それから何度か開きかけていた口をようやく開いた。
「カタリーナは……。ここにいない」
一語ずつ置いていくような、ひどくたどたどしい口調。彼女の言葉を飲み込めず、リヒトは目を見張った。
ここにいない。医務室ではないのか。別室か。いや、先にアトルサへ移送されたのかもしれない。と渦巻く思考。
またもローザと目が合わず、重々しい沈黙がその場に落ちる。リヒトは唇をわずかに開いたまま、胸の鼓動だけが耳の内側で大きくなっていた。
「カタリーナはラピス教国にいる」
その瞬間、「え……」と漏れた。瞳が激しく泳ぎ、元々乾いていた喉がさらに乾いていく。呼吸が浅くなり、背中に冷たい汗が流れた。
「ついてきてくれ」
狼狽えるリヒトを尻目にローザは背を向け、歩き始めた。離れていく彼女の背中がいつもより小さく少女のように見えた。聞きたいことが山ほどあるはずなのに、言葉が喉の奥で引っかかって出てこない。ただ嫌な予感だけがリヒトの胸に纏わりつき、離れない。
ローザは第二会議室の前で歩みを止め、ドアノブに手をかけた。彼女は落ち着きを取り繕っているようだが、唇の端が微かに震えている。
「すべての責任は――私にある」
そして、扉を開いた。中にいる人物を一目見たリヒトは彼女に飛び掛かっていた。机や椅子が激しい音を鳴らして、そこら中に散らばった。それでも何も聞こえない。全神経が目の前の褐色の肌をした女に集中する。彼女の胸倉を掴み、力の限り床に押し付ける。
苦しそうに呻くその姿が行き場を失った喪失感を埋めてくれる気がした。怒りで震えるリヒトの頬がそっと撫でられる。冷たいその手。何度も見たことがある泣き出しそうな顔。はっと我に帰り、血の気が引いたリヒトは乱暴に掴んだ手の力が抜けていく。
震える手が彼女の胸元から離れる瞬間だった。突如、強い衝撃がリヒトを襲い、身体が壁に打ちつけられ、たまらず息が漏れた。地面に伏したリヒトが顔を上げると、鋭い顔で見下ろすマリークの姿があった。今にもこちらに飛びかかってきそうなほどの獣の形相を腕を組んで堪えている。
戦闘の文字が脳裏のよぎり、リヒトも睨み返すが視界の端。ローザが散らばった椅子や机を片付けていた。彼女の物悲しげな表情がリヒトの怒りを鎮めていった。
針が落ちた音が聞こえてきそうなほど静まり返る会議室内。元の位置より僅かにズレた椅子へリヒトは腰掛けていた。横にはローザそして――。
対面に座っているこの場にいるはずのない二人。重苦しい空気の中で口を開いたのはローザだった。
「リヒト。気を失っていたから覚えていないと思うが、あの後のことを説明するから聞いてくれるか」
覗き込むように向けられるまっすぐな瞳。しかし、感情を押し込めるように、唇の端が下がり、微かに震えていた。リヒトは小さく頷く。
「お前が倒れた後、我々はあの男に攻撃を仕掛けた。我々と言うのは、私を含めたこの三人。戦線は膠着し、私たちも体力を削られていった。その時、いきなり大量のヴィールがあの部屋に雪崩れ込んできてな。この二人が必死にそれらを制御しようと試みたがどうすることもできなかった。そこで――。撤退を決意した。この二人に抱えられ、何とか私たちはステルスシェルまでたどり着いたが――」
ローザはそこで言葉を切ったが、口を開かないリヒト。彼女は息を吐いて、話を続けた。
「それでもまだ危機は去らなかった。信者たちが我々の行く手を阻んできたのだ。この二人の言葉は通じず、攻撃を仕掛けてきた。中には突如ヴィールに変貌した信者もいて、ステルスシェルもかなり大きなダメージを追った。オベリア部隊の戦闘員も必死になって戦ってくれたが、全員は連れてこられなかった。その犠牲によって私たちは今ここにいる」
淡々と語るローザに対し、リヒトの胸に湧き出た感情は自分の不甲斐なさと微かな彼女への怒りだった。積み重なった彼女への信頼が揺らぐ。風が吹けば、それが崩れ落ちてしまいそうなほどに。リヒトが黙っているとマリークが引き結んでいた紅唇を開いた。
「ローザとやら。お前の目から見て我々はどう映る。憎き敵か?それとも災いか?」
抑揚の少ない口調。ローザは一度口を噤ぎ、鼻から息を抜いた。
「そうだな。少なくとも敵と認識していたのは、間違いない。しかし、同じ血の色をした人間であることも確かだ。正直、教皇の首を取ろうとしていたが、今はそんな気にもならないし、多分……今の私にはできない」
「いい心がけだ。そのようなことをしようものなら私が貴様らを抹殺していた。……しかし、こうなってしまったのは私があの男の正体を暴けなかったことだ」
リヒトの鼓動が強く跳ねる。あの男の顔が脳裏に浮かんだ瞬間、掌に汗が滲み、震え始めた。
「結局あれはなんだったのだ。あなたたちが崇拝している神と同じ名ではないか」
「あれが神だろうと知ったことではない。私はラピス教の枢機卿であるが、一切の信仰はサフィラス様に捧げている」
「そうか……」
「そなたの判断は間違っていない。あのまま、あそこにいたら全滅だ。プラウドの言っていた通り、面白い女だ」
ローザとマリークが話を紡いでいる中、リヒトの胸にふつふつと湧く憤り。心に余裕がない。胸の奥で止めていた言葉が口から溢れ出てしまった。
「……カタリーナを見捨てたんですか」
時が止まったように静寂が部屋に落ち、モニターの青白い明滅がリヒトの顔を照らしている。顔を上げられず、机の上をじっと見つめることしかできなかった。
「結果だけ見れば……そう捉えられても仕方ない」
期待していた言葉は出てこなかった。くっと息を漏らし、眉間に深い皺を刻んだ。
「貴様はただ気絶していただけだろう。人のせいにするな。お前が弱いから助けられなかった。それだけだ」
鋭い目つきでマリークを睨み上げる。こちらを憐れむような顔つきにたまらなく腹が立つ。
「すまない」
ローザの放った短い一言がリヒトに逃れられない現実を突きつける。なんとか理由を探し、納得しようとしても、彼女が敵地の中に取り残されるという事実に心が蝕まれる。掌に爪が突き刺さるほど強く握られた拳がひとりでに震えている。
「あの子は生きてる」
ふっと力が抜けた。ラピス教の教皇が緩んだ顔つきを向けている。彼女の顔を見ていると、記憶の蓋が開けられたようにビリアとの思い出が蘇ってきた。幼い頃から共にあそこで過ごしてきたビリア。記憶と目の前の現実が混ざり合い、どちらが真か偽か、区別がつかない。
「ヴィールはあの子には触れられない。むろんあの男も」
「……なんでお前にそんなことわかる」
「わかるよ。嫌と言うほど見てきたから」
彼女はリヒトに小さな笑みを注いだ。確信に変わった。彼女はビリアだ、と。
リヒトは力が抜けたように椅子の背にもたれかかった。それからのことはあまり覚えていない。何かを話していたがリヒトの頭には入ってこない。思考もままならない中、脳裏を駆け巡っているのはカタリーナとの楽しい日々。ただそれだけだった。
読んでくださりありがとうございます。
一人敵地に置いて行かれたカタリーナ。リヒトの怒る理由も分かりますけど。。。
次回、ビリアから色々教えてもらいます。過去とか。
感想や評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。よろしくお願いいたします。白モン




