3章 空白⑩消えた世界の始まり
どこまでも果てが見えない青空の下、リヒトは走り続けた。肺が軋み、喉を擦りゆく熱い空気。乾いた地面を激しく叩き、山の静けさを乱す。
ただ、彼女を救い出す。それだけを心に刻み、余計なものは切り捨て、荒れた山道を駆け上がる。木々の枝が肩や頬を掠め、服が裂けることなど気づく間もなく。——やがて、森全体を眼下に見下ろす開けた場所に飛び出し、荒れた息を整える間もなく、視線を走らせる。
山道を列に進む何台かの馬車。守られるように真ん中に位置する豪華な一台。リヒトは急斜面に身を投げた。滑り落ち、岩壁が手を削り、それでも姿勢を立て直し、そのまま生い茂る緑に突っ込んだ。それでも止まらない。
森を飛び出した瞬間、強い日差しが差し込み、遠かった馬車の輪郭が鮮明になる。リヒトはそのまま一直線に駆けた。
御者が何かを叫び、馬が落ち着きを失って首を振る中、突き進んだリヒトは馬車へ飛びついて、扉を開いた。
そこにいた。会いたかった人が。
「ラナ……」
息の混じる声が漏れたその直後。横から叩き込まれた衝撃に身体が吹き飛び、視界が激しく回る。硬い大地を転がり、肺の空気が押し出される。砂煙が舞い上がる中、リヒトは一度だけ咳をし、立ち上がった。
荷車の幌から屈強な男たちが次々と降りてくる。口の端を吊り上げ、下品に笑う彼らの手には刃の大きいナイフ。陽光を受けた刃が白く光り、刃先がリヒトの方を向く。
「ラナ!」
喉が割れるほど声を張る。直後、馬車の中から彼女が顔を見せた。一瞬だけ、目が合う。だが、すぐに馬車の奥へ引きずり込まれた。
頭の中で何かが切れる音。同時に男たちが迫る。
リヒトは駆け出した。迫り来る刃を紙一重で外し、叩き込んだ拳の鈍い音と共に男の身体が折れる。息を整える余裕もなく、次が来る。薙ぎ倒し、捻り、止まらずに前に進む。ばたばたと、屈強な男たちが白目を剥いて倒れる。リヒトは再び、馬車に飛び乗り、扉を開いた。
安堵したように顔の緊張を緩ませるラナと何度か見たことのある黒いスーツを着た狐顔の男。リヒトはラナの手を取った後、その男の胸倉を掴み、馬車の外へ乱暴に放り投げた。
騒々しかったこの場所に静けさが戻る中、リヒトが浅い呼吸を整えながら、潤んだ空色の瞳を見つめた。握った手が拳を形造り、もう一方の拳がリヒトを確かめるように優しく胸を叩いた。
「なんで……。来ちゃったの。私がいなくなれば二人は幸せだったのに」
振り絞った声に、リヒトは目を細め、張っていた肩から力を抜いた。
「ラナがいなきゃだめなんだ。朝起きた時も、眠る時も。俺はラナと一緒にいたい」
リヒトを見上げた彼女の睫毛は震えていた。そして、堪えるように顔を伏せた後、ゆっくり身体を寄せてきた。リヒトは腕を回して彼女を抱き留めた。温もりは確かに今、腕の中に。
外から薄らと見える空が青く見えた。時折吹く風の音も、葉擦のそれも、穏やかだ。
もうあそこに戻らなくていい。どこか知らない街で、仕事を探して、少しずつ金を貯めて。小さくてもいいから二人で暮らせる家を買おう。朝を迎えて、食事をして、今日あったことを話して、何でもない日々の隣に、ラナがいる。
この人を幸せにしよう。
今まで形を作らなかったそれがようやく輪郭を成した時。突然、乱暴に押し飛ばされ、椅子の背が激しく背中を叩きつけた。何が起きたのか理解できなかった。顔を上げると、呼吸が止まった。目の前のラナが微笑み、空色の瞳から溢れた雫が宙を舞った
白いワンピースの腹部。そこに突き立った銀色。柄を握る黒いスーツの狐顔の男。理解した瞬間、身体の内側が冷えていくのが分かった。
血で染まる唇が何かを言っているが、耳鳴りで何も聞こえない。男が乱暴に刃を引き抜くと、彼女の身体がよろめく。
刹那。
リヒトは男を殴り飛ばした。彼の身体が馬車の壁を突き破って外に吹き飛ぶ。木片が舞い、やっと取り戻した聴覚に乾いた音が遅れて届く。
ふらふらと崩れ落ちそうなラナの身体をリヒトはすぐさま抱き抱えた。白いワンピースが赤く染められていく。止まらない。指先に伝わるその温度が嫌に熱かった。凍えたように震える身体に浅い呼吸を繰り返すラナ。瞳を震わせているリヒトの向かって、彼女は小さく首を振ってみせた。
目を伏せたリヒトは彼女の腕を肩に回して馬車を降りて、歩く。
遠くの空を眺めながら、荒れた地面を跛行する途中。リヒトの腹部に熱が走った。目を向けると、大きなナイフを腹部に突き立てられていた。顔の半分が腫れぼったい狐顔の男。しかし、途端に彼の顔が青ざめる。リヒトはぴくりとも表情を動かさず、ただ氷刃のように冷たく彼を見ていた。
動きが止まる彼の横を通り過ぎ、首の後ろを手刀で叩き、また足を引きずった。徐々に身体に力が入らなくなり、視界の端が暗くなっていく。それでも——腕の中の重さだけは離さなかった。
ようやく辿り着いた大きな樹の下で、リヒトは静かに膝をつくと、太い幹に彼女の背を預けた。焼けるような痛みを顔へ出さないように奥歯を噛む。彼女に心配させないために。浅い呼吸を繰り返す彼女の頬をそっと撫でる。空色の瞳がこちらを見ていた。透き通っていて綺麗だった。
「リ……ヒト」
「どうした?」
リヒトは柔和に笑って見せた。
「私のことなんて……忘れてほしかった。でもね……。心のどこかで……リヒトが来てくれるんじゃないかって……思ってた。私は……ずるい人間なの」
彼女の目から涙が溢れた。
「違う。ラナのせいじゃない。俺が中途半端だったから……。二人でいるのが心地よくて、答えを出すのが怖くて。全部……俺のせいだ」
腹に突き刺さったナイフのことなど忘れていた。今はただ胸が、心が軋むように痛い。
ラナは虚ろな瞳で小さく首を振る。風が吹き、彼女の髪が頬へ流れ、その隙間から見える空色の瞳から少しずつ陰っていく。
「……私のことは忘れて……。ごめんね」
彼女の手が力なく地面に落ちた。乾いた音だった。
リヒトは眠るように目を閉じている彼女をしばらく見つめていた。だが、風が吹いても、木漏れ日が揺れても、彼女の手は動かず、睫毛も揺れず、さっきまで確かにそこにいたはずの温度だけが遠ざかっていく。
リヒトは静かに息を吐いて、腹部に刺さったナイフを勢いよく引き抜いた。激しい痛みと焼ける熱が襲いかかる。内部から湧き出てきたものを、横に吐いた。真っ赤な血が、乾いた大地を湿らせる。
いつまでも彼女を見ていたのに、一時回復したはずの視界が霞んできた。自分の中から、生を繋ぎ止めていた大事なものが静かになくなっていた。
意識が薄れていく中、近づいてくる足音が聞こえ、身体を持ち上げられる。ふわりとジンジャーの香りが鼻をくすぐった。
「なんで……。なんでよ……。だから行かないでって言ったのに。なんで僕を選んでくれなかったの!なんで僕を残して死んじゃうのさ!」
もう何も考えられない、動かせない。
「死なせない。絶対にリヒトだけは死なせない」
意識の糸が途切れそうな時。
「だれ?」
「この男を助けたいか?ならば我の言うとおりにしろ。そうすればこの男を生かしてやろう」
どこかで聞いたことのある低く響くテノールの声。不快だ。
「何でもする!だからリヒトを助けて!」
その叫びを最後に、リヒトはこの世界から消えて失くなった。
読んでくださりありがとうございます。
散らばっていた物語が一つの線になったのではないでしょうか。
次回、現実の世界に戻ってきたリヒト。カタリーナはどこへ。
感想や評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。よろしくお願いいたします。白モン




