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3章 空白⑨約束の行方

 目が血走り、今すぐにでも目の前の男に襲い掛かろうとする獣の形相。繋ぎ止めているのは、今動けばさらに状況が悪化するというオベリア部隊で培った戦闘経験。そんなリヒトをよそに、オルフェニアが指で顎を摘み、なぜ? と言わんばかりに首を傾げた。次に鳳凰のように鋭い目が教皇サフィラス——名をビリアに向く。


「マリーク!」「はい!」


 二人が同時に飛び出した。一呼吸する間に何度拳が叩き込まれたのか分からないほど、重い打撃音が連続する。しかしオルフェニアは片手だけですべての受け止めている。まるでワルツでも踊ってるかのように。


 直後、彼が杖を宙に放り、二人の首が掴まれる。締め上げられ、呻き声と共に地面から足が離れ、叩きつけられる。厚い絨毯の更に下を打った音が遅れて腹の底に響いた。二人の体がゴムボールのようにに弾んで転がり、リヒトの足元で止まる。オルフェニアは味わうような陶酔の表情を滲ませ、落ちてくる杖を掴んだ。


「リヒト!」


 横から飛んできたローザの声で、はっと我に返った。腰元にぶら下げていた最後のバルムセイバーを振るう。青白い刃が小刻みに震えていた。


「お前は隙を見てカタリーナを連れていけ」


 焦燥を押し込めるような切羽詰まった声に、リヒトは短く頷く。沸き立った思考を鎮めるため、静かに息を吐き、目の前の男を見据える。と、急にオルフェニアの姿が揺らいで見えた。

刹那。隣で鈍い衝突音。ローザの短い呻き声。


 視界の端で彼女の身体が弾かれたように吹き飛び、地面を削りながら転がっていく。反射的にリヒトは地面を蹴り、バルムセイバーを振るった。踏み込みと同時に振り抜いた一撃は深く入り、青白い軌跡がオルフェニアの腕を切断。骨と肉を断ち切る確かな感触が手に残る。


 だが、彼は表情をぴくりとも変えず、ただリヒトを見下ろしているだけ。その異様な姿にリヒトの表情が歪む。


 一瞬遅れて気づいた。切断した腕がすでに再生している。一瞬目を切ったのが失策。目の前にオルフェニアの拳が迫っていた。身体を捻り、かまいたちが頬を掠める中、半ば強引に下から刃を跳ね上げる。


 今度はぴたりと止まった。青白い刃先がオルフェニアの指先に摘ままれている。全身の力を駆動させているのに、動かない。刃が微かに震えるだけだった。


 直後、鳩尾に衝撃が加わり、息が零れ、身体が折れる。膝が床に落ちる。まもなく、打と斬の驟雨が降り注ぐ。

 リヒトは能力を使い傷を塞ぐが、修復速度を上回って次の痛みが迫ってくる。意識だけを途切れさせないように、フル稼働するリヒトの能力。


 攻撃が止まったと思い、顔を上げた瞬間、首を締め上げられ、身体が宙を浮いた。万力の如く締め上げられた喉から呻き声と浅い呼吸が漏れる。

 

「ふむ。どうやら本当に覚えていないようだ。不義理なやつめ」

「……てめぇのことなんか、知らねぇよ」


 リヒトは口内に溜まっていた鉄臭さごと、勢いよく吐き捨てた。飛び散った赤がオルフェニアの頬を掠め、地面に硬い音が落ちた。リヒトの折れた歯。オルフェニアの大理石のように滑らかな肌に一本の細い傷を刻んだ。


 彼は無言のまま頬を撫で、指先についた赤を眺めると、ほんの僅かに目を細めた。やがて、彼の視線がどこかへ滑っていき、止まった先にいたのはビリアだった。


 地面に這いつくばり、指先で床を掴み、起き上がろうとしている彼女の身体は震えていた。


「お前の仕業か」

「リヒトから――手を離せ」 


 オルフェニアは何かを理解したように鼻から息を吐き、再びリヒトに視線を戻した。目が合った瞬間、背中を冷たいものが伝った。口元だけが楽しげに歪んでいるそれは獲物を嬲る愉悦というより、閉じた箱を開ける前の期待。


「喜べ。全て思い出させてやろう……」

「ダメ!やめて!」


 耳に刺さるほど高く、割れるようなビリアの叫び声。頭の奥がずきりと痛む。


 オルフェニアは気にも留めず、左手に持っていた杖の先端をリヒトの胸に当てた。ぬるりと胸に何かが侵入してくる感覚。奥の深い場所に触れてくる不快感。


 囁くような聞き取れないオルフェニアの言葉。彼が言い終えた瞬間、杖の先端を浮遊しているキューブが青い光を放つ。鼓動に共鳴するように明滅する光に飲み込まれていく。



 眩い光につい目を細める。すると、首を締め付けていた圧迫感がふっと消えた。咳き込みそうになるのを押し殺しながら、リヒトは乱れた呼吸を整えるより先に、地面を蹴り、拳をオルフェニアへ叩き込もうと腕を振りかぶった。が、脳に何かが直接流れ込み、視界が切り替わる。


 

 

 目の前に転がっている白い肌と桃色の髪。胴がない。


 理解するより先に景色が切り替わる。


 胴付きの腰から下がない彼女。赤黒い液体が滲み、石畳の隙間を埋めていく。


 また切り替わる。

 近い。目の前の空色の瞳が濡れていた。何かを伝えようとして口を動かしているが、声は聞こえない。代わりに血だけが零れて、皮膚に暖かさが広がっていく。


 また変わる。

 また。

 また。


 季節も場所も服も違う。それでも変わらない桃色の髪。空色の瞳から光が消える瞬間。


 考える時間も、受け止める時間も与えられないまま。すると、耳障りなほど愉快に笑う声。頭蓋の内側で直接なっているようだった。



 苦悶に崩れたリヒトは地面に何度も頭を打ちつけた。硬い感触と痛みが頭の中で暴れている何かを止めてくれることを祈って。


 もう限界だった。溢れる空気は声にならず、溢れ出た叫びだけが響いていた。



 

 すると、それまで濁流のように流れ込んできた映像が、不意に断ち切られた。蹲った丸い背中が上下に動き、必死に空気を取り込む。突如、冷えた空気と微かなかび臭さが鼻に流れ込んできた。


 恐る恐る目を開けると、暗い。頭を引き裂かれるような痛みは消えていたが、顔が上げられずにいた。胸の奥がくり抜かれたような、冷えた風が胸の中心を吹き抜けているように、胸の奥が空っぽだった。

 

 遠くから駆けてくる足音。その音はすぐ傍で止まった。ようやく自分の体勢に気づいた。机の上に突っ伏している。


「ラナは早朝に里親に引き取られたって……」


 理由も分からないまま、腹の底に沸き立つような熱。


「……約束したのに」


 口から声が漏れる。自分で言った気がしない。誰と、何を、分からない。その時、両肩に手が置かれ、包まれる。


「そう……だね。でも私はどこにも行かないよ。リヒトの傍にいるから」


 耳元で掠れた声が落ちる。ジンジャーのように少し甘くて、鼻の奥が熱くなる香りが静かに流れ込んできた。その匂いが頭の中に染み込んでくる。


 彼女がどこかへ歩き去って、身体を起こしたリヒトはしばらく机の上を見つめていた。夢だと思ってた。だが、違うと理解した。あれは自分の過去だと。遠くの誰かが自分の内側に沈み込み、境目が曖昧になる。感情も記憶も輪郭を失って混ざっていく。


 心のぽかりと空いた穴。埋まらないし、埋め方が分からない。唇だけが動く。


「ラナ……。どうして……」


 

 立ち上がると、足元が少し揺れる。そして、徐に後ろの扉を開けてこの部屋から出た。窓から陽の光の差し込む古い木と乾いた空気の匂いが漂う廊下。奥から聞こえてくる怒鳴る声に、気がつくと足を進めていた。扉の前で止まり、耳を押し当てる。


「施設長!わかって――ですか!」

「うるさ――な。慈善事業で――ていけな――のだよ。それにわから――ではないか。われ――里親に引きわた――が使命だ。さっさと――もど――ないか」


 更に耳を扉に押しつける。突如バン、と机を叩く音が響いた。


「調べさせてもらいました。ラナを引き取ったあの男。表の顔は商人ですが、裏で奴隷商を営んでいるそうですね。これがどういうことか……」

「さあ。儂は知らんが。噂程度でお得意様を失うわけにはいかんのだ。先にも言った通り、これが慈善事業だと思ったら大間違いだ。金はどこからくる。泉から溢れてくるのか? くだらない正義感を振りかざす前に、さっさと仕事に取り掛かれ」


 胸の中で熱いものが沸き立った。頭の中で会ったこともないきつね顔をした貴族風の男が脳裏をよぎる。勢いよく、扉を開ける。重たい音を立てて開いた先には、薄暗い部屋と、大きな机を挟んで向かい合う二人の姿があった。


「リヒト……」


 名を呼んだのは淡い茶色の髪。少し垂れた目元の見慣れた女性だった。リヒトの鋭い視線が机の奥に座る脂ぎった額の小太りの男に突き刺さる。奴隷商、里親、金。頭の奥で先ほど聞いた言葉が繰り返される。


 足音だけが静かな部屋に重く響く。男の前まで辿り着いた時、男がこちらを見上げた。


「なんだ、その目は」


 返ってきた声に、リヒトは答えない。次の瞬間、机の上に飛び乗り、その男の胸倉を乱暴に掴んで引き寄せた。机の上の書類が散り、それが床の上に落ちる。脂と香油の不快な匂いが香る。


「ラナをどこにやった」

「あ、あやつは自分の意思でここを出ていった。そんなことより……お、お前は誰に手を出しているのか!わかっておるのか!」


 荒げる声と、爬虫類のように落ち着きなく泳ぐ小さな目。


「黙れ。さっさとラナの居場所を吐け」

「ふん。儂の知ったことか」


 感情のままに机の上から飛び降り、そのまま首へ両手をかけ、壁に押し付けた。男の足先が浮き、短い手足が宙を掻く。指先に力を加えると、男の顔がゆでだこのように赤みを帯びていく。口を大きく開いているのに空気が吸えず、甲高い呼吸音だけが漏れていた。


 苦しそうにもがく姿を見ても何も感じない。ただ、ラナがいない。その事実だけが、リヒトの胸に重くのしかかる。


「待って!リヒト!」


 突然、腕に乗る重み。女性がしがみつき、全体重を預けるようにリヒトの腕を押さえていた。目を伏せたリヒトは、嘆息をつき、指先の力を抜いた。弾むように床に転がった男は、激しく咳き込み空気を貪るみたいに口を開閉し、唾液が垂れる。


 リヒトは冷え切った視線でただ彼を見下ろしていた。


「ラナは今、山道を通っているはずよ」


 微かに震える声に一瞬目を見開いて、振り返る。バツの悪そうに下を向く彼女とは目が合わなかった。止められなかった罪悪感か、それとも拭えぬ自責の念か。


 リヒトは何も言わず、彼女の横を通り過ぎた時、「待って」と呼び止められた。足を止めて、振り返った。よく見れば疲れた顔、目元は赤く、黒い瞳は濡れているが、それを溢さずこちらを見つめている。


「ごめんなさい」


 煙のように消えてしまいそうな声。リヒトは目を細め、短く息を吐いた。


「必ず連れ戻します」


 そう残し、部屋を出た。扉が閉まる音だけが、妙に長く廊下に残っていた。


 


 薄暗く長い廊下を走り、矢継ぎ早な足音が石床に反響する。そして、大きな茶色の扉へ辿り着き、冷えた真鍮のハンドルに手をかけた瞬間。手を掴まれた。顔を俯かせたビリアが華奢な体つきからは考えられないほど、強くリヒトの手を掴んでいた。長い前髪の隙間から覗く唇が小さく震えている。

 

「待って。一旦落ち着いて。ラナは自分の意思で出ていったんだよ。行っちゃだめ」


 押し殺したような震える声。普段ならもっと周りくどく、遠回りに伝えてくるのに。


「ビリアも知ってるだろ。ラナは誰かのためなら平気で自分を傷つける。一見強そうに見えても、そうじゃないことを俺たちは知っているだろ。あいつが一人で泣いているのなら、俺は明日を笑って生きられない」


 ビリアがゆっくり顔を上げた。鋭い形の大きな目は赤く滲み、堪えきれない雫が頬を伝っていた。けれど拭おうとせず、こちらを見つめていた。まるで一度目を切れば、いなくなることを分かっているみたいに。握る力がさらに強くなる。


「僕が——リヒトを笑顔にする。何だってしてあげる。リヒトのために——僕頑張るから。ラナの代わりにだってなるから。だから行かないで。お願い」


 震える息に言葉を乗せて一気に吐き出した。涙は止まらず、顎先からぽたりと床に零れ落ちている。


 振り絞るような、その押し殺した声が胸に刺さる。だけど——。


「ごめん」


 そう言って彼女の手を振りほどき、外へ駆けて行った。背中からビリアの叫び声が聞こえたが、振り返らなかった。振り返れば、もう前に進めない気がしたから。

読んでくださりありがとうございます。

リヒトの見ていたあの夢が過去だったと。打ちひしがれるリヒト。

次回、更にリヒトを苦しめる出来事が。


前書きに前回のあらすじを書いていたのですが、不要だと思ったので今回からは無しにします。

リクエストがあれば復活しようかな。


感想や評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。よろしくお願いいたします。白モン

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