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3章 空白⑦今を生きる

リヒトたちはラピス教国の巨大なゴシック様式の建物へ案内される。だが扉の前で、案内役の男は赤いローブの女性に首を刎ねられた。女はそれを「彼の意思」とだけ告げ、何事もなかったように一行を中へ導く。冷たい聖堂内を進んだ三人は、紫紺の絨毯に乗せられ、上階へ送られる。途中、ローザはカタリーナをこの国から連れ出したリヒトに礼を述べ、自分はこの国が嫌いだと口にする。奥の扉はリヒトの手にだけ反応して開き、その先で彼らを待っていたのは、かつて裏切ったプラウドと、教皇サフィラスだった。サフィラスは一つだけ問いに答えると告げる。

「お招きいただき、ありがとうございます」


 ローザは上目で確認しながら一度、頭を下げた。


「この地に蔓延るヴィールと呼ばれる生物。あれはどのようにして生まれるのでしょうか?」


 リヒトは視線を感じ、ふと顔を向けると、サフィラスと目があった。問いかけているのはローザであるはずなのに。黄色の瞳は逃げるようにローザへ移る。杖の先端で、淡い光が先ほどよりも速く明滅していた。

 

「ヴィールね。あれは儀式の失敗で生まれた副産物だから……。僕が生み出したと捉えて構わない」


 副産物という言葉が耳に残る。古から存在する世の厄災と呼ばれる生命体。目の前の女が生み出したとすると――。


「あなたは一体どれほど長く……」

「質問は一つだけといったはずだよ」


 荒げるわけではないのに制される。ローザはくっと声を漏らすような険しい顔で、口を噤んだ。


「あの!次は私が質問してもよろしいでしょうか」


 カタリーナが詰め寄るように身を乗り出した。直後、不満を吐き捨てるように、大きな舌打ちが聞こえる。露骨に不快そうな顔をしているマリーク。激しく嫌悪するような鋭い目がカタリーナに向けられる。


 カタリーナの空色の瞳はまっすぐにサフィラスだけを映していたが、黄色の瞳はそれと交わらない。先ほどよりも重々しい張り詰めた静寂が漂う。


「……いいだろうよ。何?」

「私は元々この地で暮らしていました。今は訳があってアトルサにいます。ここにいた時よりも今の生活の方が私は幸せです。この地にいる人たちを解放するつもりはありませんか?」

「ない。次」


 あまりにも短く、突き放す答え。一瞬たじろぐカタリーナが焦ったように一歩踏み出した。


「待ってください!この地で暮らしている人々は皆怯えて暮らしています!サフィラス様はその現状を知らないのですか!」


 鋭い刃物の背で肌を撫でられたような空気に変わる。リヒトは目を細め、カタリーナを見つめた。相手の言葉を受け入れ、柔らかに返す彼女が、強い感情をぶつけるのはあの時以来。ウルスラの亡骸を思い出す。


 険しさの混じる顔つきのカタリーナはまっすぐ前を見据えたまま動かない。


「お前だけだろう。お前に信仰心がないからそうなっただけだ。勘違いするな愚か者」


 緊迫を切り裂いたのは、顎をしゃくって、カタリーナを見下ろすマリーク。カタリーナは唇を引き結び、拳を握った。白くなった彼女の指先を見て、リヒトは眉を寄せる



 気がつくと、視線がリヒトに集中していた。聞きたいことがあるはずなのに、どれも輪郭が曖昧で、頭の中で言葉が散る。纏まらない思考の中、リヒトが顔を上げた瞬間、目の前の女性が夢で見た少女の顔とぴたりと重なる。褐色の肌に、黄色の瞳。


「……おれは。……あなたと会ったことがありますか」


 自分の記憶の中にこの女はいないはず。それを確かめたかった。あの夢が、ただの夢であってほしいという希望と、過去の幻影ではないかと言う推測。希望に縋りたい中、長い沈黙がこの空間を支配する。鼓動の音だけが耳元で鳴り響いていると、サフィラスが微笑を滲ませた。


「ある」たった一言、それだけ。

「いつどこで会っていたんだ!教えてくれ!」


 胸の重苦しさを吐き出すように声が大きくなる。


「貴様ら……。いい気になりおって……」


低く押し殺した声で眉間に皺を刻むマリーク。彼女がリヒトたちに手を翳すと、指先に集まった紫紺の光が明滅を始めた。いつもなら臨戦体制を取れるのに、リヒトは動けない。鼓動。明滅が加速する。その時、サフィラスが少し呆れたように手を上げた。張り詰めていた空気が落ち着きを取り戻し、マリークが翳していた手を下ろした。


 リヒトは止まっていた息を静かに吐いた。


「君が何をしていて、僕と……どういう関係だったのか知りたい?」


 サフィラスの口の端が徐々に吊り上がっていく。初めて敵らしく邪悪に見えた。


「条件を出そう。悪い条件ではないよ。君たちの国を正式に認めよう。和平を結んであげる。その代わり――その男をここにおいていけ」


 サフィラスのゆらりと上げた指先がリヒトを捉える。彼女の言葉は耳に届き、意味も理解した。しかし、理解した内容が頭の中に落ちていかない。


「和平……とは、どういうことでしょうか」


 ローザは辿々しく問いを返す。


「今後一切、君たちの国に手を出さない。むろんヴィールたちも周囲に近づけさせない。好き勝手に生きていけばいいさ」

「それならば、私がこの地に残ります。何分、この男は礼儀もなっていません。ですからオベリア部隊の隊長である私を――」

「それじゃない意味がない!」


 割れた鐘を突くような声が響き渡る。初めて見せたサフィラスの感情にリヒトは表情を強めた。ぴたりと音が止まり、誰もが口を閉ざす中、サフィラスが再び微笑を浮かべ、顎でリヒトをさす。


「どうする?君がここに残れば皆が救われる。僕がたっぷり時間をかけて、君のことについて教えてあげよう。僕といつ出会い、何をして、どう生きたのかをね」


 ね、が僅かに弾んでいた。選択の余地を与えないような、当然その提案を飲むようなうねる口調。彼女の言葉が胸の奥にぬるりと入り込んできた。

 

 皆が救われる。


 無意識に、カタリーナに視線が向く。血で染められた白い衣服。腕の中で冷たくなっていく身体。光を失う空色の瞳。そんな未来が、少しでも遠ざかるなら。


「絶対に手を出さないんだな……。それは約束できるのか」

「僕は教皇だよ」


 短い返答に確かな重みを感じた。この世を統べたラピス教の教皇。この世界で彼女にしかできない平定。リヒトは沈黙だけを抱えたまま立ち尽くしていた。彼女の元に行けばヴィールに怯えることもなく、ウルスラのように若くして終わる命もなくなる。


 気付けば脚が前に出ていた。自分の脚ではなく、糸で釣られて歩かされているように。


 視界に映るのは、褐色の女性。一歩近づくたびに口の端が上がっていく。その時、乾いた音が鳴り響いた。


「……カタリーナ。離せ」


 振り向かなくても分かった。左手を包む細い指が震えていた。それでも、あと数歩進めば、全部が終わる。昔から探し求めて過去も、そして多くの命が救われる。握られた左手がやけに熱かった。


「俺が行けばすべて解決するんだ」


 自分に言い聞かせるように言葉を落とす。腕に力を込めて、掴まれた左手を強引に引いた。握っていた手が離れた。が、追いかけるようにまた手を掴んでくる。


「離せ!」


 思っているよりも、大きな声が出た。それでも彼女は手を離してくれない。勢いよく振り返ると、空色の瞳が濡れ、目元に涙が溜まっている。


「絶対に離しません!そこへ行ってリヒトさんが幸せならそれでも構いません。諦めて送り出します。でも違う。絶対に違う!そんな顔をしてる人を!一人で行かせるわけにいきません!」


 リヒトの呼吸が止まる。苦しくなんか――ない。これが最善だ。左手の熱が身体を伝い、胸の奥がじんわりと温められる。迷い、決別。絡み合った心境が顔に滲み出てしまう。


 その時、ローザがサフィラスとリヒトたちの間に割って入る。


「何の真似?」

「忘れておりました。私も根本は無礼な人間でしてね。あなたの申し出をお断りさせていただきます。この男は時折言うことを聞かない人間で、一丁前に強がるくせに、意外と脆い。誰に似たのか、似てきたのか。自分を最後に数える男です。だから……彼は渡さない」


 ローザの耳心地の良い凜とした声が耳に飛び込む。彼女の背中がいつのもまして大きく、そして逞しく見えた。手を離すまいと必死に両手で握る手。振り解こうとしたが、振り解けない手。その手を離したくない、そう思ってしまった。


 リヒトはカタリーナに緩んだ顔を向ける。そして、彼女の手を優しく叩くと、きつく締まっていた彼女の手から力が抜ける。


「目を覚ましてから……ずっと自分が何者なのか知るために生きてきた。空っぽの自分が嫌で、何をしていいかもわからなかった。お前のところに行けば、目的は達成されるのかもしれない。ただ……今を生きているのはここにいる俺だ。だからお前のところにはいかない。俺は過去よりも今を選ぶ」


 言葉を口にした瞬間、ずっと胸の奥で拭えなかった何かが無くなった気がした。リヒトは顔を上げて、まっすぐにサフィラを見据える。


 表情の消えたサフィラスは顔を俯かせ、身体の脇で拳が握られていた。


「何度繰り返しても……僕を選んでくれないんだね。リヒト」


 彼女はぼそっと呟いた。刹那、リヒトたちは赤いローブを着た人物たちに囲まれた。四方八方から感じる殺気。考える間もなく、バルムセイバーを振るうと、青白い光の刃が小刻みに振動する。


「さて。どうしたものか」とローザもバルムセイバーを構える。

「隊長。よからぬことを考えないでくださいよ。一緒に生きて帰りましょう」


「あぁ」とローザが答えた。誰かが少しでも動けば始まる。そんな中、動いたのはサフィラスだった。あまりにゆっくりとした動作で動けず虚をつかれる。冷ややかな顔つきの彼女が手を翳すと、その手に翡翠の輝きが。彼女が静かに手を閉じた瞬間、リヒトは目を見張る。握っていたはずのバルムセイバーが消失した。


 弾かれるようにバルムガンを構えるが、彼女は再び同じ動作をした。直後。手の中に確かに握っていたバルムガンが姿を消した。

 

「僕も甘く見られたものだね」


 つい地面に伏してしまいそうな圧を感じた。リヒトがくっと息を溢したその直後。理解の追いつかない光景を目にした。サフィラスが口から血を溢し、腹部を何かが貫いていた。スローモーションのように、時間が歪んで見えた。

読んでくださりありがとうございます。

リヒトがようやく過去を断ち切り、今を生きる覚悟を見せた。いいですね。

次回、サフィラスを襲った敵の敵?


感想や評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。よろしくお願いいたします。白モン

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