3章 空白①残り香
前回のあらすじ
リヒトは穏やかな夜、ブロカンムッシュで過ごした時間を思い返しながら眠りにつく。しかし夢の中で、彼は知らない草原と古びた建物へ迷い込み、幼いビリアと、彼女に手を差し伸べる黒髪の少年を目撃する。さらに場面は移り、成長したビリアが「ラナ」が里親に引き取られたことを告げ、彼女に抱きしめられた男が自分と同じ顔をしていることにリヒトは衝撃を受ける。続く景色では、桃色の髪の女性と黒服の男が血に濡れて倒れており、駆けつけたビリアは男を抱きしめて泣き叫ぶ。その男もまたリヒトと同じ顔だった。目覚めたリヒトは、夢だと言い聞かせながらも、瞼の裏に焼きついた光景を振り払えずにいた。
普段通り過ごそうとして幾日が経っても、あの夢がふとした拍子によぎる。赤黒く濡れた地面に冷え切った空気、血に塗れたナイフを握る、リヒト呼ばれる青年の顔。気付けば眉間を摘み、痛みを堪えるように顔を歪めていた。
一人になりたかった。何も考えず、誰とも関わらずに。だからローザにカタリーナの世話係を外してほしいと頼んだが、「……理由は?」と返され、言葉に詰まる。曖昧に濁したが、訝しむような視線と納得のいかない顔に耐え切れず、彼女の下を後にした。結局、世話係は続行となった。
それからというもの、カタリーナとの訓練中、横に並ばれた時、名前を呼ばれた時。空色の瞳を見た瞬間、別の誰かが脳裏を横切る。笑顔。血に濡れた指先が浮かぶ。違うと頭に理解させようとしても身体は勝手で、いつの間にか距離を取っていた。
訓練は必要最低限に抑え、任務の日は誰より先に現場へ向かう。壁外に出れば、攻撃命令を待たず、ヴィールに刃を向けた。息を切らし、身体を動かしている間だけ、あの夢から逃れられた。
ローザから単独行動を注意されても、空返事だけを返した。度重なる悪夢。記憶のない自分。胸の奥を掻き回してくる感覚。それらが少しずつ積み重なって、心を蝕んでいった。そして何より恐ろしかったのは――。あの夢が、過去ではないか、と思い始めている自分だった。
ある日の任務終わり。リヒトは再びローザに呼び出され、二階にある第三会議室の扉の前に立っていた。今日もまた、カタリーナやオベリア部隊の戦闘要員が現場へ到着する前に、一人でヴィールを片付けてしまった。が、仕方がない。そうしないと、内側から壊れていく気がしたから。
扉を遅めのテンポで三度ノックした。
「隊長。リヒトです」薄く覇気のない声に「入れ」という短い返答。扉を開くと、いつもより数段重たく感じた。
自室よりも広い部屋の奥に四角いテーブルと真ん中にぽつんと置かれたパイプ椅子。奥でローザが腕を組んで座っていた。彼女は何も言わず、顎をしゃくりパイプ椅子を指した。リヒトは無言でその無機質な椅子に腰を下ろした。
窓から差し込む、薄いオレンジを背に座るローザの顔に影が落ちる。椅子の軋む音がやけに大きく聞こえ、リヒトは視線を机に落とした。彼女と目を合わせると、何か見透かされそうだったから。
しばらくして、ローザの嘆息が静けさを破る。
「何度言えばいいのやら。これ以上命令違反が続くようなら、お前をオベリアに置いておけないぞ――全く」
言葉とは裏腹に息の混じる呆れたような口調。
「すいません。気をつけます」
空っぽで口を動かしているだけの返事。するとローザが鼻から息を抜いた。
「いい加減、お前のその染みったれた顔を見るのも飽きたぞ」
「すいません」
傷や埃一つない、何も映さない白い机を注視する。その瞬間、脳裏に赤が滲み、息が詰まる。リヒトは気づかれぬよう、途切れ途切れの呼吸を必死に整えた。喉が、指先が小さく震えている。
数秒という時間が長く感じ、座っているだけなのに、苦痛を覚えた。
「お前に何かがあったのは、流石の私でもわかる」
諭すような静かな声。
「お前が言いたくないのも理解はする。それでも……たった一つ私にも許せないことがある」
「……なんですか」
リヒトはゆっくり血の気の薄い顔を上げた。目の映ったのは眉尻を下げ、どこか寂しそうな顔をしているローザ。
「カタリーナを避けているようだな。面倒を見るのも辞めたいと言い出したり。私はそれが一番気に食わん!」
強い声だが、責めている感じはしない。
「私はな……。あの時お前の言葉に救われた」
口元が緩んだ優しい声。何を言ったのか、思い出せないほど、あの夢が脳を埋め尽くしていた。
「親友だと思っていた二人に裏切られ、立ち上がれなくなった時、お前は言ってくれたな」
透き通ったロイヤルブルーの瞳が真っ直ぐ捉えてくる。そして一拍。
「私らしくあれと」
ローザは微笑を浮かべ、固く結んでいた腕をはらりと解く。
「だから私らしく!」
次の瞬間。バンッと机を強く叩く音が鳴り響き、ローザは勢いよく立ち上がる。リヒトの視線が跳ねる、と同時。机を回り込んでリヒトの横を通り過ぎていく。
ガチャリ、と扉の鍵を閉めた。すると、その場にどかりと胡坐をかき、弾けたような、悪戯な笑顔を浮かべている。さっきまでの重苦しい空気が薄れていく。
「お前が話すまで私はここを動かん。さぁ!どちらが音を上げるか、勝負といこうか!」
握った拳に顎を乗せた男勝りという言葉が似合う姿。小さく息をついたリヒトはゆっくり立ち上がった。にやにやと笑みを滲ませるローザを尻目に、窓の方へ向かう。そして、鍵を開け、窓を横に滑らせる。夕暮れの涼しい風が流れ込み、それが熱の籠る身体を冷やしてくれた。リヒトは瞼を閉じて、大きく深呼吸をすると、張っていた表情が少しだけ緩んだ。
「あ!ま、待て!そこから出るのは無しだろ!ほら、ここは二階だ。飛び降りたら危ないんだぞ!」
焦ったような声に振り返ると、立ち上がったローザが伸ばしかけていた手を揺らしていた。さっきの凛々しさはどこに行ったのやら。とリヒトは鼻を鳴らした。
「わかりました。話します。だから大人しく座ってください」
窓を閉めると、からからと軽快な音を奏でた。
「――おぉ。そうか。よしよし。意外と早い決着だったな」
勝ち誇ったような顔つきのローザは肩を揺らしながら席に戻り、リヒトも再び、彼女の向かいの椅子に腰を下ろした。
両肘を机につき、重ねた手を口元に当てたローザは、リヒトを見つめていた。先ほどまでの逃げ場がない沈黙はない。短く息を吐いたリヒトが口を開く。
「……何から話せばいいのか」
やっと開いた口が、言葉が止まる。カタリーナを避けていた理由か、はたまたその原因のあの夢か。どこから話せば、理解してもらえるのだろうか。「少し……難しいです」
「思ったより深刻そうだな。とりあえずカタリーナの面倒を見るのをやめたいと言った理由を聞いていいか」
ローザは口に添えていた両手を机の上に下ろした。責める様子はなく、再びリヒトが話すのを待っている沈黙。目を伏せたリヒトは膝の上で弱く拳を握る。。
「……俺が傍にいたらよくないことが起こりそうな気がして」
「よくないこと?」
眉を寄せ、小首を傾げるローザ。彼女の問いに、胸の奥が少し重くなる。口に出した瞬間、それが現実になる気がしたから。
「……カタリーナが…………死んでしまうとか」
大きな余白を空けるように、声を絞り出した。眉間に皺を寄せたローザは斜め上を見たり、顎を摘んで首を傾げていた。
「死んでしまう?誰かに狙われているということか?お前は人付き合いが上手い方ではないが、誰かの恨みを買うような人間ではないはずだ」
「いやそういうわけでは……ないんですが」
リヒトは否定するように左手を上げかけたが、途中で止まり、そのまま膝の上に戻した。違うが、違うと説明できない。畏怖、悔い、恥、虚が複雑に絡み合って、自分でも何をどう話せばいいかわからない。
しかし、ローザは急かさなかった。言葉を補おうとも、勝手に解釈しようともしない。ただ真っ直ぐな眼差しを注ぎ続ける。透き通るようで深い彼女の瞳にリヒトの表情から強張りが落ち、静かに息を吐いた。
「今から言うこと。もしかしたらバカバカしいと思うかもしれませんが、聞いてもらえますか」
微かに力の籠る声でそう言うと、ローザは何も言わず頷いた。それだけだったが、その頷きだけで十分だった。
読んでくださりありがとうございます。
夢ってたまに現実よりも胸に深く刻まれることってありますよね。
次回、リヒト・・・。と言いたくなりますし、ローザ!とも言いたくなります。
感想や評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。よろしくお願いいたします。白モン




