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2章 残照 完結⑩置き去りの約束

前回のあらすじ

アトルサ襲撃事件はディノスの死によって終結し、オベリア部隊への嫌疑も晴れた。しばらく後、リヒトとカタリーナはブロカンムッシュを訪れ、以前と同じ席で本を読みながら穏やかな時間を過ごす。カタリーナは恋愛小説について語り、「わかろうとしているだけです」とリヒトに微笑む。その言葉に、リヒトの胸には静かな温かさが広がった。食事を終えた二人は、以前本を買った深緑の本屋へ向かう。しかし店内は空で、隣の店主によれば、その物件は十年以上使われていないという。確かにそこで本を買ったはずの二人は、現実から切り離されたような空き店舗を前に、言いようのない違和感を覚える。

 夜の帷が降り、星の煌めきがアトルサを包み込んでいた。窓から差し込む月明かりが床に淡く反射し、部屋の輪郭だけがぼんやりと浮かぶ。口元に微笑を残したリヒトはベッドの上で仰向けになり、なんでもない天井を眺めていた。


 ブロカンムッシュの穏やかな音楽と、カタリーナの笑い声が耳に残る。焼き立てのパンの匂いまでを思い出すと、瞼が重たくなっていく。やがて意識は、夜の底へゆっくり沈んでいった。


 

 また、知らない場所。茜色に染まる黄金の草原の中に佇む。藁色の背の高い草が、息を吹きかけられたように大きく揺れている。周囲に視線を巡らせると、森のトンネルのような一本道に目が止まる。草を踏みしめ、その道へ足を進める。木々の隙間から差し込む茜色の光が、葉の揺れに合わせて地面を明滅させていた。まるで大地が瞬きをしているみたいに。

 

 奥へ進むにつれ、声が聞こえてくる。音色の異なる高い声、笑い声。リヒトは歩調を変えず、そのまま進んだ。


 森のトンネルを抜けた先にいたのは、十人ほどの子供たちだった。柵で仕切られた短い草地の上を笑いながら駆け回っている。奥には、年季の入った石造りの大きな建物。家というには大きすぎるそれは、壁のところどころがくすみ、夕暮れの光を吸って沈んで見えた。その時、低い鐘の音が茜色の空に響いた。遊んでいた子供たちはぴたりと動きを止め、一斉に建物の中へ走っていく。彼らの楽しげな声が消え、草の揺れる音だけが残った。ここは一体……。耳に残る鐘の余韻が滲み、気がつくと夕暮れの差し込む窓が視界に映る。


 リヒトは周囲へ視線を走らせる。三段ベッド。縦長のロッカー。最低限の物しかない部屋。記憶の片隅を、爪で引っかかれるような感覚。


 カーテンの向こうから、すすり泣く声が聞こえる。誰だ……。カーテンに手を伸ばすが、触れられない。何度試しても、手がすり抜けていく。そのもどかしさに奥歯を噛み、乱暴に腕を振った。その瞬間、背後で扉の開く音がした。弾かれたように振り返ると、黒髪の少年がまっすぐこちらを見ていた。


 まずい。リヒトは急いで立ち上がり、怪しい者じゃない。そう言おうとしたが、声が出ない。喉に力を込めても、喉の奥に何かが張り付いたように言葉がでない。焦って喉元に指を押し当てるが、声は形にならない。ゆっくりと近づいてくる少年に、リヒトは必死に身振りで伝えようとした。しかし少年は、そのままリヒトの身体を通り抜けた。いや、すり抜けた。目を見開き、反射的に振り返る。少年は膝に手を当てて、カーテンの前で屈んだ。長い睫毛の奥の目が、柔らかく細められる。


「おーい、ビリア。ご飯の時間だよ」


 優しい声だった。カーテンが小さく揺れるが、返事はない。


「ラナはもう怒ってないって。だから安心して出ておいで」


 五拍ほどの沈黙のあと、カーテンの下から小さな身体が這い出てきた。サフランのような黄色の瞳を持つ褐色の肌をした少女だった。ボリュームのあるアッシュグレーの髪が夕暮れの光を含んで静かに輝いていた。


「ほんとに?ほんとにラナ怒ってない?」

「うん。怒ってないよ。だから一緒に行こう」


 少年がそっと手を伸ばすと、目に涙を浮かべた少女は嬉しそうに笑みを滲ませ、その手を取った。


「ありがとう。リヒト」

 

 全てぴたりと止まる。耳の奥で、世界の音が遠ざかり、胸が強く脈打った。それなのに、心臓だけが一拍遅れているような気がした。目の前にいた二人の姿が、いつの間にか消えている。リヒトは一人、薄暗い部屋に取り残されていた。喉の渇きを感じ、唾を飲み込むが、へばりついた何かが取れない。一つ瞬きをした。

 


 突如、目の前に薄暗い大部屋。窓から差し込む光だけが、石材を均等に張られた壁を照らしている。晩餐会でもできそうな焦茶色の長い机が二列並び、奥まで続いていた。視線を歩かせると、部屋の奥に小さな人影を見つけた。窓から最も離れた角の席。誰かが机に顔を伏せている。


 目を細めていると背後から、テンポの速い足音が近づいてきたので、顔を向ける。褐色の肌の女性が、アッシュグレーの髪を弾ませて走ってくる。さっきカーテンの下から出てきた少女、と似ている。あどけなさは残しつつも、体つきが大人びているように見えた。リヒトは思わず身を引くと、彼女はそのまま通り過ぎた。すれ違った瞬間、ジンジャーのような少し刺激のある甘い香りが鼻先をかすめる。彼女は奥の席の蹲っている誰かの元へ駆け寄り、しばらく何も言わずに立ち尽くした。やがて、彼の肩にそっと両手を置く。一瞬だけ、彼女が笑ったように見えた。


「ラナは……。早朝に里親に引き取られたって」


 里親、じゃあ、ここは……。窓の外では、子供たちが弾けるように笑っていた。明るい外の光が、かえってこの部屋の暗さを際立たせる。その時、ドン、と重たい音がこの冷えついた部屋の中に響き渡った。机に伏せていた男が身体を起こし、両の拳が机の上で固く握られている。顔はまだ見えない。


「約束したのに」


 悔しさが滲むようなくぐもった声。


「そう……だね。でも私はどこにも行かないよ。リヒトの傍にいるから」


 彼女はそう言って、リヒトと呼ばれる男を後ろから包み込んだ。


 しんとした沈黙が落ちる中、顔を上げた男を見たリヒトがひゅっと息を飲む。心臓に冷たい水を浴びせられたような衝撃が走る。目の前にいる男は、自分と同じ顔をしていた。違う場所を探そうとしても、見つからない。そんなはずはないと、現実そのものを拒むように、何度も頭を振る。見開いた目が渇き、視界がぼやけてきた直後、土の匂いが鼻をくすぐった。

 

 また違う景色。視界には小さな緑が点々とする大地が広がり、大柄な男たちが地面に倒れている。オベリアで過ごしたせいだろうか。リヒトの身体は考えるより先に動き、倒れた男たちに駆け寄る。地面を擦るように止まると、乾いた砂埃が宙を舞った。仰向けに倒れた厳つい顔の男は白目をむいているが、分厚い胸は上下に動いている。死んではいない。リヒトは細く息を吐く。その時、地面に赤い点々が落ちているのが気づく。一定の間隔で続いている。血だ。眉間に力が入る。


 リヒトはその跡を辿った。赤い点の軌跡は、大きな木の奥で右に曲がっている。手負いの獣ほど怖いものはない。警戒しながら、大木を遠回りするように進む。そして、見てしまった。桃色の髪の女性が、大木に背を預けている。白い服の腹部が、鮮烈な赤に染まっている。その横には黒い服の男が倒れていた。血に濡れた大きなナイフを掌の上に乗せて。強い風が吹き、砂塵が巻き上がった。


 やめろ。リヒトは視界がぼやけるほど目を細めた。その時、足音が聞こえ、片目だけを薄ら開けて窺う。褐色の肌の女性が、息を切らして走ってくる。彼女はリヒトの前で足を止める。肩で息をしたまま、今にも倒れそうな足取りで、大木の前へ近づいていく。


「なんで……なんでよ……」


 震えた声が、風に削られる。


「だから行かないでって言ったのに。なんで僕を選んでくれなかったの!なんで僕を残して死んじゃうのさ!」


 彼女は叫び、横に倒れていた男を抱きかかえた。その男の顔が、彼女の肩に乗る。やめろ……。


 髪の隙間から見えた顔は、また自分だった。声にならない叫びが喉の奥で潰れる。リヒトは自分の頭を掴み、内側から溢れ出す何かを堪えるように背を丸めた。鼓動が激しく跳ねる。耳の奥で血の音が鳴り響く。次の瞬間、意識がぷつりと途切れた。


 リヒトは勢いよく起き上がった。肺が酸素を求めて暴れる。大きく息を吸い、吐く。肩が上下し、喉が焼けるように痛んだ。部屋は暗い。窓から差し込む月明かりが、床を薄く照らしている。さっきまで見ていた血の赤も、砂塵も、ここには何もない。冷えた夜の空気の中に、自分の荒い呼吸だけが聞こえる。衣服が汗で背中に張りつき、指先が細かく震えている。リヒトは震える両手で顔を覆った。指の隙間から漏れた息が、ひどく冷たかった。

 

 夢だ。ただの夢だ。そう思いたかった。けれど、瞼の裏にはまだ、あの男の顔が焼きついている。自分と同じ顔をした男。カタリーナと同じ桃色の髪をした女。穏やかな夜はもう戻ってこなかった。


読んでくださりありがとうございます。

2章完結。残すところあと2つの章となりました。

次回、自己嫌悪に陥るリヒト。カタリーナから距離を置いてしまう彼がとった行動とは。


感想や評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。よろしくお願いいたします。白モン

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