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2章 残照⑨何気ない時間

前回のあらすじ

アトルサを襲ったヴィールの大群とラピス教国の陰謀。その首謀者ディノス。ラピス教国への忠誠を貫く彼は、自らをヴィールへと変貌させ、ローザの前に立ちはだかる。過ごした日々に嘘はなかったのかと問いかけるローザだったが、返ってきたのは冷たい拒絶の言葉だけだった。激しい戦いの末、ローザは圧倒的な剣技でディノスを追い詰める。しかし最後の一撃を前に、共に笑い、共に戦った記憶が脳裏をよぎる。それでも彼女は覚悟を決め、親友の命に終止符を打った。黄昏に染まる戦場で、アトルサ襲撃事件はついに幕を閉じるのだった。

 アトルサ襲撃事件は主犯格ディノスの死によって幕を閉じた。後日、軍上層部から事情聴取を受けたオベリア部隊の面々。ディノスとプラウドが部隊と深く関わっていたからだ。しかし、この国のために死力を尽くして戦ったこともあり、嫌疑はすぐに晴れた。それよりもリヒトが気にしていたのは、カタリーナのことだ。ラピス教国出身の彼女は彼らと同じく敵と看做される可能性が高い、が問題なく解放されたのだ。理由は後から判明した。バルムンド博士が彼女の出身や経歴をデータベースごと書き換えていたらしい。久しぶりに博士を尊敬した。


 襲撃事件からしばらく経ったある日。リヒトとカタリーナはブロカンムッシュに来ていた。店内に流れるカントリーミュージックと共に、二人は以前と同じ飲食スペースの隅の席に座っていた。真ん中のトレイにはコロッケのパンが二つ。リヒトは時折コーヒーに口をつけ、読書に耽る。『最初の雫』――プラウドに監禁される前、本屋で買った小説。ふと視線を上げると向かい側では、カタリーナが甘いパンを片手に器用に本のページを捲っていた。ホットミルクで口を湿らせては、またパンに齧りつく。彼女の皿には相変わらず甘いパンが山のように積まれていた。その様子がおかしくて、リヒトは小さく鼻を鳴らした。


「どうしました?」素っ頓狂な顔で聞き返す口の端に付着するパンくず。

「なんでもない。それより口を拭いたらどうだ」


 そう言うと、彼女は慌てて紙ナフキンで口を拭うと、恥ずかしそうにじろりと睨んでくる。小さく鼻を鳴らしたリヒトはコーヒーを一口。ほろ苦さが喉を落ちていく。


『最初の雫』正直、話は微妙だった。女神エリスに恋した天使ルナリスが、自ら神になるため反乱を起こす物語。しかし最後は仲間に裏切られ、地上に堕とされる。どうにも中途半端な終わり方だった。

 

「その本面白いか?」


 リヒトは彼女の持つ本『スイートピーが散る朝に』をちらりと見た。


「面白いですよ。少しだけ、胸が寂しくなりますけど」

「それは面白いというのか……。どんな話だ?」


 カタリーナは食べかけのパンを皿に戻し、本を両手で持ち直した。指先で表紙の端をそっと撫でる。

 

「お姫様と主人公のその子は幼馴染なんです。でも大人になるにつれてお互いの立場が変わって。彼女はお姫様に仕えるメイドの一族だったから、昔みたいにはいられなくなるんです」


 長い睫毛がやや伏せ、穏やかな声のまま、言葉を連ねた。


「お姫様の婚約者は王子様でした。でも、主人公のその子は彼と出会った時、恋に落ちてしまいます。だめだとわかっていながら。その彼もまた彼女を好きになってしまいます」


 カタリーナは小さく眉を下げながら微笑んだ。じんわりとした何かが胸に染み渡っているような温かい声色。


「……せっかくなら読みますか?」


 リヒトは一つ瞬きをして、小さく首を振った。


「いや。俺はいい。話を聞いただけでも胸焼けしそうだ。ぐちゃぐちゃになる未来しか見えない」

「そうですね。かなり拗れます」


 カタリーナはあっさり頷くと、口元が緩んだ。


「ただ最後はその子の願いは叶いますよ。お姫様が幸せでありますようにって」


 リヒトは微かに眉を寄せながら小さな嘆息をつくと、腕を組んだ身体を椅子の背に預ける。


「……わからないな。自分の幸せより相手の幸せを願う人なんているのか」


「人って、そうありたいのに上手くできないじゃないですか」


 そう言ってカタリーナはホットミルクに口をつけ、ふぅっと息をついた。


「だから物語の中で、それを見たくなるんだと思います」


 店内の音楽がゆっくり切り替わる。穏やかなカントリー調の旋律が終わり、今度はグルーブ感のあるジャズが流れ始めた。正直、恋愛話の良さはよくわからない。しかし、楽しそうに語るカタリーナを見ている時間は、不思議と退屈じゃなかった。


「リヒトさんのはどうですか?」


 カタリーナはホットミルクのカップに両手を添えたまま、首を傾げて覗き込む。


「正直……あまり面白いとは思えないな。なんていうか痒いところに手が届かないというか」

「そうなんですね。――別の本でも探しに行きます?」

「そう、だな。ここを出たらあの本屋によってもいいか?」

「もちろんです」


 カタリーナは微笑んで、顔の横でぱちんと小さく手を鳴らした。


 ――やがて。真ん中の皿に置かれたコロッケのパンに手を伸ばす。リヒトが一つ手に取ると、カタリーナも当然のような顔で、残った一個を自分の皿の上に乗せた。


「好きに食べろと毎回言ってるだろ。わざわざ合わせる必要はないぞ」

「それを言うなら私も毎度言ってるじゃないですか。私が合わせたいからそうしてるんですって」


 リヒトは小さく鼻を鳴らし、コロッケのパンを齧った。特別美味いわけじゃない普通の味。それなのにここへ来ると無性に食べたくなる。何か妙なものでも入ってるんじゃないか。訝しむように目を細めたリヒトは手に持ったパンをじっと見つめた。


 目の前からくすくすと小さな笑い声。顔を上げると、カタリーナが口に手を当て、目元を緩ませていた。


「なんだよ」

「いえ。そんな顔で見られたら、パンもびっくりしちゃいますよ。変なものは入ってませんって」


 目を細めて彼女を見た後、リヒトは再びパンへ齧りつく。甘いソースとじゃがいもの滑らかな質感が口の中で混ざり合う。


「……なぁ。たまに思うんだが、俺が何を考えているかわかっているのか?」

「いいえ。わかっているわけではありません」


 カタリーナは小さく首を横に振った。桃色の髪が肩口でさらりと揺れる。


「当てずっぽうか?」


 リヒトが小さく首を傾げると、カタリーナはホットミルクのカップを両手で包み込んだまま、微笑を滲ませる。


「わかろうとしているだけです」


 そう口にした彼女を見ていると、胸の奥がじんわりと暖かくなり、両手でコロッケのパンを持った彼女の笑みから目が離せなかった。そして、何かを誤魔化すように小さく咳払いをすると、ほとんど残っていないコーヒーを啜った。

 


 ブロカンムッシュを出た二人は、パステルカラーのタイルで舗装された道を歩いていた。ヴィールの襲撃を受けた街とは思えないほど穏やかな景色だった。ヴィールに踏み抜かれ、砕け散っていた石畳も、今では綺麗に張り替えられている。淡い色合いのタイルが陽光を柔らかくを反射していた。街は少しずつ元の日常を取り戻している。道行く人々の笑い声を聞きながら、リヒトは小さく息を抜いた。そして、深い緑色に塗られた店の前で足を止める。


「ここ……だったよな」

「はい。ここのはずです」


 店を下から上まで隈なく見た。間違えるはずがない。周囲から浮いて見える深緑の外壁。少し古びた扉。あの日、本を買った時と同じ場所のはずなのに、ガラス窓の向こうには何もなかった。棚も、本も、人の気配すらないもぬけの殻。店が無くなっていることもそうだが、痕跡がなさすぎた。まるで最初から存在していなかったように。


 すると、カタリーナが隣の洋服屋に入って、店主らしきマダムと話をしている。ガラスの奥の彼女は肩を上げて驚いているように見えた。しばらくして戻ってきたカタリーナの視線が彷徨っている。


「なんて言ってた?店を畳んでいたのか?」

「実は……。隣の物件は誰も使っていなかったみたいなんです。少なくともこの服屋さんがオープンしてから十年間ずっと」

「十年?」


 思わず聞き返した。そんなはずは……。


「どういうことだ?俺たちはあの日、ここで本を買ったじゃないか」

「私もそう伝えたんですけど、場所を間違えてないかって」


 リヒトはもう一度店を見る。深緑色の外壁だけが静かにそこにあった。あの時の違和感を感じさせないただの空き店舗。それが逆に不気味だった。


「どうしますか。他の本屋に行ってみます?」

「いや。何となく今は買う気がしなくなった。日を改めよう」


 歩き出したリヒトは一度だけ振り返った。夕陽に染まる深緑の店。そこだけやけに、現実から切り離されているように見えた。

読んでくださりありがとうございます。

穏やかな日常回ですが、未だ二人の距離が縮まりきらないところにヤキモキするところです。

次回、物語がグッと進みます。リヒトには辛い展開かもしれませんが。


感想や評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。よろしくお願いいたします。白モン

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