2章残照⑤光の在処
前回のあらすじ
リヒトが姿を消してから一週間。オベリア部隊は捜索を続けるものの手掛かりは見つからず、カタリーナは失意の中で彼を探し続けていた。そんな中、ディノスの呼び出しを受けたローザたちは、監禁されたリヒトの姿を映像越しに目撃する。
しかしディノスは豹変していた。ラピス教への歪んだ信仰を語り、自らがヴィールを呼び寄せる石を所持していること、さらにマルクスの死を嘲笑う。友の変貌に絶望するローザだったが、カタリーナは自らの信念を貫き、彼を真っ向から否定した。
やがて狂気に呑まれたディノスが襲いかかると、ローザは自らの手で彼を撃ち抜く。胸に痛みを抱えながらも、二人はリヒト救出のため動き出すのだった。
一方その頃。薄暗い部屋の中でリヒトは壁に背を預け、灰色の地面に落ちた銀紙をぼんやり眺めていた。何日たった……。もう時間の感覚すら曖昧だった。恐らく一日一回。プラウドがここに来ては、軍用レーションと水のボトルを鉄格子の隙間から放り投げていく。
自分がいなくなった後、部隊はどうしているだろうか。隊長はまた無茶をしていないか。カタリーナはあの時買った本を読んでいるだろうか。そこまで考えた時だった。嬉しそうにパンを頬張る彼女の姿を思い出す。リヒトの口元が小さな弧を描いた。
リヒトは視線を走らせ、部屋の構造を頭の中で反芻する。鉄格子の位置。食料を投げ込む時の僅かな隙。ここから脱出する方法を探し続けていた。
その時、遠くから足音が聞こえてきた。靴音がゆっくり近づいてくる。リヒトが目を細めた直後、鉄格子の向こうから軍用レーションと水のボトルが放り込まれた。からりと音を立てながら、それらが床の上を転がっていく。
「やぁリヒト。取引の時間だよ。結論を教えてくれ。僕たちと一緒に来る気になったかな」
「脳みそ腐ってんのかてめぇは。行かねぇよ」
「そっか。残念。本当に……残念だよ」
「なんだよ。珍しいじゃねぇか。お前がそんな面してるなんて」
リヒトは嘲るように笑ってみせた。しかし、プラウドは言い返さない。いつも浮かべている薄気味悪い笑みが消えていた。感情の抜け落ちたような冷たい顔で、こちらを見下ろしている。心臓をそっと撫でられるような悪寒。
ふと視線が動く。プラウドの足元に大きめの黒いバッグが置かれていた。
「君のせいだからね」
低い声でそう言い放つと、プラウドはバッグの中に手を突っ込む。
次の瞬間。リヒトは目を見張った。気づけば身体が動いていた。鉄格子に向かって勢いよく飛び掛かる。冷たい鉄に激突。鈍い音が響くが、それでも構わず腕を伸ばした。檻に閉じ込められた獣みたいに、必死に。
プラウドが掴み上げていたのは桃色の長い髪をした頭だった。脳が焦げ付くような怒り。胃から込み上げてきたものに耐えきれず、薄茶色の液体を床に吐き出した。激しく息が乱れ、湧き出てきた酸で喉が焼ける。
それでも視線だけはプラウドから逸らせなかった。殺す。その言葉が、脳の隙間を埋め尽くしていく。
しかし、プラウドの表情は微動だにしない。彼は無造作に桃色の頭を地面に置くと、ゆっくり片足を持ち上げた。
「おい……。なにしてんだ……」
地面に置かれたそれが、もう息をしていないことは理解していた。それでも。
「やめろ……」
喉の奥から掠れた声が零れた。リヒトは鉄格子に縋りつき、必死に震える指先を伸ばした。直後。躊躇いもなく、高く上げた足を振り下ろした。まるで道端の空き缶でも踏み潰すみたいに。
あの日、彼女は過去への手がかりだった。そのために連れてきただけだった。
ただ、いつからだろう。彼女といる時間があんなに心地よくなったのは。彼女が笑えば、凍り付いていた心の奥が少しだけ温かくなる。モノクロだった世界にゆっくり色が満ちていくようだった。
街に出た時、誰かと並んで歩いている意味が分からなかった。一人の方が楽だろう。そう思っていた。でも違った。隣にいてほしいと思える人。その笑顔を守りたいと願ってしまう人。
――だから。リヒトの中で何かが切れた。太く冷たい鉄格子を掴む。全身に力を込めた瞬間、自分の内側が灼けるように熱を帯びていく。混ざり合った感情が暴れ狂う。
青白い光がリヒトの身体から溢れ出す。すると今まで微動だにしなかった鉄格子が、軋む音を立てながら徐々に歪み始めた。そして。
「――ぁぁぁああああ!!」
雄叫びと共に、鉄格子が大きく拉げる。
リヒトは迷うことなく飛び出した。怒りのまま拳を振り抜く。鈍い音が響き、プラウドの身体が壁に叩きつける。間髪入れず、膝蹴りを叩き込むと、彼の身体がくの字に折れ曲がった。止まらない。リヒトはそのまま両手でプラウドの首を掴み、壁に押し付け、力を込めた。
――殺す。
それが頭の中を支配していく。視界が熱で滲み、我を忘れかけたその時だった。
「リヒトさん!」
その声が耳に飛び込むと、反射的に手から力が抜けた。地面に崩れ落ちたプラウドが甲高い呼吸音を漏らしている。
リヒトは恐る恐る顔を向ける。視界の先。気付けば身体が動いていた。頭で考えるより先に、走り出した。ただ彼女の元へ。それだけを求めるように。目の前にいる彼女を力いっぱい抱きしめていた。
腕の中に伝わる温もり。壊れそうなくらい細い身体。ふわりと香るホットミルクみたいな匂い。桃色の髪が頬に触れる。荒れ狂っていた感情が凪いでいく。
「……カタリーナ」震える声で名前を呼ぶ。
「リヒトさん……」息の混じった声が返ってくる。
たったそれだけなのに胸の奥が熱くなった。彼女を抱きしめて、どれくらい時間がたったのだろう。刹那か、はたまた永遠か。ただ、止まっていた時間だけが柔らかく溶けていくようだった。
我に返ったようにリヒトは視線を走らせる。プラウドはローザの隣で地面に膝をついていた。両手は後ろで縛られている。床に転がっていた桃色の髪のそれをよく見れば、ただのマネキンだった。よく見れば肌の質感も不自然で、首元には継ぎ目まで見えていた。
冷静さを取り戻すと同時に、カタリーナの括れた腰に腕を回していることに気づく。行き場を失ったように視線を彷徨わせた。その先で目が合ったのはカタリーナだった。その柔らかな笑顔を見た瞬間、さっきまで胸を埋め尽くしていた殺意が遠いもののように感じられた。
「いやぁ。リヒトがあそこまで怒るとは想定外。初めて君の攻撃をまともにくらったよ」
いつものひょうひょうとした口調。口元には血が滲んでいる。リヒトは小さく息を吐く。穏やかさを取り戻した心とは裏腹に、ローザだけは腕を組み、重たい表情のまま黙り込んでいた。
リヒトはカタリーナの手を小さく叩いた後、彼女の前へ歩いていく。
「すみません。ご迷惑をおかけしました」
深く頭を下げた。すると、そっと肩に手を置かれる。顔を上げると、ローザの表情が少しだけ緩んでいた。
「お前は悪くない。見抜けなかった私の責任だ。」
「ねぇねぇ。な~んかめでたしめでたしみたいな空気出してるけど、ほんとかな?誰か忘れてない?」
間延びした声が背後から響く。縛られたままのプラウドの細い目の奥に妙な光が。
「ディノスなら私が撃った。あの傷では何をすることもできないだろう。」
「まったく君って人は。どこまでも甘いんだから……」
プラウドが肩を竦めた。そして、口元の笑みがゆっくり深まった。嫌な予感が背筋を這う。
「お楽しみはこれからだよ。オベリア諸君」
刹那。リンクギアから耳を劈くような警戒アラームが鳴り響いた。国の危機を知らせる非常用警報。空気が一変する。
ローザが顔を跳ね上げ、プラウドを引きずるように駆け出した。リヒトたちも後を追う。
地下牢の重い扉が開かれる。薄暗く湿った空気が流れ、冷たい石造りの通路が奥へ伸びていた。リヒトはローザの先導に続き、暗い廊下を走る。足音が狭い通路に反響し、警戒アラームと混ざり合って鼓膜を叩いた。階段を駆け上がる。一段上がるたび、冷え切っていた空気が少しずつ薄れていく。
そして、外に繋がる扉が勢いよく開かれた。眩い陽光が視界に突き刺さる。あまりの眩しさにリヒトは思わず目を細めた。頬を撫でる風が生温かい。徐々に視界が慣れていく。
そして、目の前へ広がった光景にリヒトは息を呑んだ。アトルサを囲む巨大な壁の頂上が黒く塗り潰されていた。無数のヴィールが蠢いている。
アトルサ全体を覆う透明な膜に牙や爪が叩きつけられるたび、淡い光が波紋のように広がっていく。まるで国全体が、黒い濁流に飲み込まれかけているようだった。
ぞわり、と背筋が冷える。リヒトはプラウドを睨みつけた。が、彼は肩をすくめるだけ。
「僕じゃないよ。ディノスが呼んだんでしょ」
「ふざけるな!ディノスは私が殺した。他にも仲間がいるんだろ!」
リヒトの前に割って入るように、ローザはプラウドの胸倉を乱暴に掴み上げた。鬼気迫る形相だった。それでもプラウドは薄ら笑みを崩さない。
「君は止めを刺したのかい?」
たった一言。その瞬間、ローザの顔が苦々しく歪んだ。掴んでいた手から力が抜け、震える指先がゆっくり離れていく。
「こんな奴らにいいようにやられて黙っているわけにはいかない。俺たちのできることをしましょう」
リヒトは迷いなく言い切った。唇を震わせるローザに熱の宿る眼差しを注ぎ続ける。
こちらを見ていたプラウドがゆっくり口角を吊り上げる。
「へぇ。いい顔になったね。それじゃあ――僕は失礼するよ」
直後、縛られていたロープが音もなく切断される。リヒトが目を見開く間もなく、プラウドは軽やかに後方へ飛び退いた。
「プラウド!」
ローザが叫ぶが彼は振り返りもしない。まるで最初から計画していたように、そのままどこかに姿を眩ませてしまった。
ヴィールたちはまだ透明な膜に阻まれている。しかし、あの数だ。時間の問題なのは誰の目にも明らかだった。
ローザは一度下を向き、強く息を吐いた。次に顔を上げた時には、いつも凛々しい顔つきに戻っていた。
「リヒト!カタリーナ!行くぞ!」
芯の通った声が響く。その背中を見ながら、リヒトは静かに拳を握り締めた。揺るがない決意が熱となって全身に巡っていく。三人はアトルサを守り抜くため、オベリア基地に向かって駆け出していった。
読んでくださりありがとうございます。
ようやくリヒトは自分の気持ちに気づけましたね。しかし、試練は続く。
次回は、アトルサにヴィールガ襲撃。オベリア部隊以外の兵は役に立つのでしょうか。
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