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2章 残照③落陽

前回のあらすじ

カタリーナと街へ出たリヒトは、パン屋で穏やかな時間を過ごし、自分の好みを自然に理解している彼女に少しずつ心を緩めていく。その後、古びた本屋でリヒトは『最初の雫』、カタリーナは誰かのために命を懸けるメイドの物語を選んだ。帰り道、リヒトはカタリーナに「ここに来てよかったか」と尋ねる。彼女の迷いない返事に胸の重さが解けたリヒトだったが、基地に戻った直後、プラウドから北西の広場へ一人で来るよう呼び出される。

茜色に染まる雲が流れていく。体が軽く感じ、気付かぬうちに走っていた。手に持った紙袋の中でパンが暴れる。リヒトは慌てて速度を緩め、中を確認した。デニッシュは潰れていない。


 思わず小さく息をついた。プラウドにどんな意図があったのかは分からないが、一応、礼くらいは言っておくべきだろう。そんなことを考えながら、リヒトはパンが崩れない程度の速度で北西の広場へ走っていった。

 


 広場といっても、高い木々に囲まれ、無造作に草が生い茂る、今では誰も立ち入らない場所だ。昔、一度だけプラウドに連れてこられたことがある。訓練をさぼり、ここで二人で寝転がっていた。戻った後、鬼の形相をしたローザに揃って怒鳴られたのは、今となっては笑い話だ。


 雑草の生い茂る道を抜けると広場の中央でプラウドが空を見上げていた。


「やぁ。リヒト。お疲れ様」

「急ぎで来てくれってなんだよ。これ、買ってきたぞ。隊長の分はカタリーナが渡しているはずだ」


 リヒトは口を丁寧に折りたたんだ微かに皺の寄った紙袋をプラウドに渡した。彼は袋の口を覗き込んだ後、顔を上げる。口元に大きな弧を描いていた。


「やっと名前で呼べるようになったんだね。まったくリヒトは……そういうところが残念だよ」


 プラウドは腰に手を当て、呆れたように手を上げた。痛いところを突かれた気がして、リヒトの顔が僅かに引き攣る。


「うるせぇ。タイミングってのが、あるんだよ」


 歯切れの悪い声でそう返す。プラウドは可笑しそうに笑いながら、紙袋の中からデニッシュを取り出した。


「ウルスラも喜んでいるんじゃない?あの子はずっと気にしていたからね」


 プラウドはデニッシュを一口齧る。リヒトは瞼を緩め、小さく何度か頷いた。


「そうだったのか。……そんなことかよ」


 囁くように呟いた声には、どこか力の抜けた息が混じっていた。そんなことで気にしていたのか――そう思うと、胸の奥に残っていた絡まった糸のようなものが少しだけほどけた気がした。


「それにしても、やっぱりここのデニッシュは美味いね。コーヒーと合わせると最高なんだけどな」

「あそこのコーヒーか。美味かった。かなり好みの味だったぞ」

「――何の豆を選んだの?」


 彼の言葉に、リヒトの動きがぴたりと止まる。彼は不思議そうに首を傾げ、デニッシュをまた一口齧った。


「二十種類ぐらい豆の種類があったでしょ。僕は酸味が少ない『マデリン』が好きかな」

「いや……。カタリーナが注文をしていたから……何を選んだのかわからない」

「――カタリーナちゃんはよくリヒトを理解してるね。もしかしたらリヒトよりもリヒトのことを知っているかもね」


 軽快な口調でそう言うと、プラウドは小さくなったデニッシュを口の中に放り込んだ。


「そうかもな」リヒトが小さく鼻を鳴らす。「記憶もないからかもしれないが、俺は俺のことがよくわからない」

 

「はははっ。記憶があろうがなかろうが、自分のことはわからないものだよ。でも今の自分がどう感じるかはわかるだろ?それが大事なんだ」


 プラウドは珍しく声を出して笑った後、噛み締めるようにそう言った。リヒトが眉を上げていると、彼の眼差しが静かにこちらを捉える。


「リヒト。君にとってカタリーナちゃんはどういう存在だい。今の君には彼女がどう映る?」


 問われた瞬間、胸の奥がざわつき、視線を落とした。隣を歩く姿、訓練で木刀を振う背中、桃色の髪に空色の瞳。そして笑った顔。彼女が脳裏を歩いていく。リヒトは短く息を吐き、美しい茜色の空を見上げた。


「最初は打算的な気持ちで連れてきただけだった。それでも今は……。一緒にいるのも悪くない気がする」


 言葉にした瞬間、自分の中で何かが静かに形になった気がした。リヒトはゆっくり瞬きをし、口元を僅かに緩ませ、肩から力を抜くように息を吐いた。そんな彼を見たプラウドは頷き、微笑む。


「そうか。君はそう感じたんだね。後悔しないようにしなよ」


 やけに熱を帯びた声色と真っすぐ向けられた瞳にリヒトは無性にむず痒さを覚える。誤魔化すように頭を軽く掻いた。


「ここに来たってことはどうせ隊長を怒らせたんだろう。大丈夫だ。カタリーナが上手くやってくれたはずだ。さっさと帰るぞ」


 リヒトの口元に小さな笑みが残っていた。胸の奥に溜まっていた重苦しさも、今は嘘のように薄れている。


 茜色の空の下、穏やかな風で木々の揺れる音が耳に飛び込む。世界は穏やかで静かだった。このまま、少しずつ。前に進めるはずだ。


 リヒトが広場を出る道へ足を向けた、その瞬間だった。


 突如、視界が闇に塗り潰される。同時に焼けるような激痛が双眸に走る。脳を直接灼かれているような痛みにリヒトはたまらず膝をつき、その場に蹲る。


「ぐあぁ!くそ!目が!プラウド!大丈夫か!」


 激しい耳鳴り。さっきまで感じていた穏やかさなど、一瞬で吹き飛んだ。さっきまで揺れていた木々の音も、風の音も聞こえなくなった。


 次の瞬間、強烈な衝撃が叩き込まれる。体が地面を転がるように吹き飛んだ。能力を使い、必死に視覚を取り戻すが、再び視界が封じられ、そのまま頭を地面に叩きつけられた。額が割れるほど、強く押し付けられる。


「おい!プラウド!返事をしろ!どうなってる!」


 声は返ってこない。なぜ。敵は何者だ。するとリヒトは腕を掴まれ、無理やり両手を重ねられる。

 刹那。激痛。


 何か鋭利なものが重ねた両手を貫き、そのままリヒトを地面に縫いつけた。腕が動かない。血の臭いが、鼻を刺す。

 

「くっそ。誰だ!おい!プラウド!無事なら返事をしろ!」


 能力を酷使し、強引に視覚を回復させる。背中が上下するほど激しく呼吸を繰り返しながらリヒトは次の攻撃に備えた。しかし。来ない。耳鳴りの残響だけが頭の中で不快に響いている。


 ぼやけていた視界が徐々に鮮明さを取り戻す。最初に見えたのは足元。次に青白い刃。ゆっくり顔を上げていくと、歪んだ表情が蝋燭の火を吹き消すように落ちる。見えたのは薄く笑った顔だった。プラウドがバルムセイバーを突き立てている。いつもと変わらない。あの薄い笑みを浮かべたまま。


 温かい夕風が木々を揺らす。草葉の擦れる音だけがはっきり耳に届いた。そんな中、目の前の光景を頭が、心が拒絶する。


「おい。なにしてんだ。冗談にも限度があるだろ」


 唇だけが僅かに動く。声を出しているはずなのに、自分の声に聞こえなかった。


「冗談ね……。僕があの時、質問したこと覚えているかい。目的か過程どちらが大事かって」


 苦痛に顔を歪めるリヒトを前に、プラウドは穏やかな表情で遠くを見つめていた。


 リヒトが体を動かそうとした瞬間、プラウドが青白い刃を押し込んだ。激痛。手の平を焼かれるような痛みに額から玉のような汗が噴き出た。


「だからなんだっていうんだ!それとこれとなにが――」

「だからね。僕は目的を取ることにするよ。君たちとの日々はまずまず楽しかったよ」


 プラウドがゆっくりと屈み、リヒトの目の前に顔を寄せた。普段と変わらない薄ら笑い。今は余計に不気味だ。ついさっきまで笑い合っていた相手と、同じ人間には思えない。


 プラウドはポケットから何かを取り出し、リヒトの前に吊るして見せた。黒い瞳が大きく揺れ、顔を伏せた。奥歯が割れるほど噛み締める。


 彼が持っていたのはアストラ――ラピス教の信者の証。ルビーのような深紅のひし形の石だった。


「それ……。なんで、そんなもの持ってんだ」


 振り絞るように声を出す。喉の奥が乾いていた。


「う~ん。なんでと言われても答えに困っちゃうな」


 プラウドはいつもの調子で肩を竦めて、手を上げた。その動きがリヒトの神経を逆撫でした。


 訓練場で負かされた日々。意味のない会話。交わした言葉。それら全部が、ぐらりと音を立てて崩れていく。


「いつからだ。いつから……。」

「それなら答えられるね。生まれた時から――かな」

「ずっと騙していたのか」

「僕からしたら、騙しているつもりはないんだよね」


 茜色だった空はいつの間にか血のような赤に沈み始めていた。プラウドの表情は変わらない。罪悪感も、迷いも、何一つ見えなかった。


 リヒトはゆっくりと立ち上がるプラウドを睨みつける。怒りが込み上げ、呼吸が浅くなり、視線が落ち着かない。目の前の男が虚構に映る。全てかき消したい衝動に駆られた。


「なんで俺にそれを見せた。目的はなんだ」


 押さえ込もうとしても、苛立ちが滲み出る。


「これから起こす計画に君はとっても邪魔なんだ。だから大人しくしていてほしい。君のその力……羨ましいな。僕が欲しいくらいだ」


 穏やかな口調だった。まるで世間話でもしているかのように。プラウドはバルムセイバーから手を離し、背を向けた。


 その瞬間。リヒトの中で何かが切れた。渾身の力で手を引き抜く。手の平が裂け、熱い血が飛び散った。痛みなどどうでもいい。その薄っぺらい顔を殴らなければ気が済まなかった。怒りだけで体を動かし、プラウドに殴りかかる。


「てめぇをぶっ殺して……や……る。」


 しかし、拳が届くより早く。後頭部に強烈な衝撃が叩き込まれた。視界が激しく揺れる。茜色の空が崩れ落ちるように歪み、リヒトの意識は深い闇へ沈んでいった。


 

 どれほど時間が経ったのか分からない。重たい水底から浮かび上がるように、ゆっくりと意識が現実へ引き戻されていく。


 重たい瞼を開けると視界が酷く歪んでいた。頭の奥が鈍く脈打ち、耳鳴りが不快に響いている。冷たく固い感触が頬に伝わる。


 体を起こそうとした瞬間。手に激痛が走り、顔を歪めた。手の平が裂け、血が乾いて黒くこべりついている。リヒトは舌打ちをして、周囲へ視線を走らせた。


 薄暗い小部屋。湿った石壁には黒ずんだ染みが浮かび、天井近くの小さな換気口から冷気が入り込んでいる。鼻を刺すのは錆と湿気、それに乾いた血の臭いだった。壁際には使われなくなった鎖が垂れ下がり、床の石タイルには無数の傷跡が刻まれている。


 目の前には重々しい鉄格子。そこでようやく自分が捕らえられている事実を理解した。どこかもわからぬ出口のない場所。焦燥がじわりと全身に広がっていった。リヒトは自分を落ち着かせるように長く息を吐いた。体が青い光を発したその時。


 静寂の中へ、硬い靴音が響く。青い光が消える。コツ、コツ、と一定の間隔で近づいてくる音が神経を逆撫でした。顔を上げると、薄ら笑みを浮かべた男が立っていた。リヒトは弾かれるように立ち上がり、鉄格子に体をぶつけた。甲高い金属音が鳴り響くが、鉄格子はびくともしない。


「おはよう。なんだ。傷が塞がってないじゃないか。早く治した方がいいんじゃない?」

「だまれ!てめぇをぶん殴らないと気が済まないんだよ!ここから出しやがれ!」


 怒声が石壁に反響する中、プラウドは表情をぴくりとも動かさない。その余裕がリヒトの怒りに油を注ぐ。血が沸騰するような激情で額に青筋が浮かび上がった。裂けた手から血が滴り落ちる。赤黒い血が石タイルの隙間をゆっくりと這っていった。


 その時、奥の通路から再び足音が。リヒトは苛立ちを滲ませたまま、刺すような視線を向けた。沸き立っていた怒りが不意に途切れる。


「よぉリヒト。元気か?」


 そこにいたのはアトルサ軍総司令官ディノスだった。いつものように堂々とした佇まい。筋骨隆々の腕を軽く上げ、普段と変わらぬ調子で挨拶してくる。なぜ……。なぜディノスがここにいる……。


 体から力が抜ける。倒れそうになったリヒトは咄嗟に鉄格子を掴むが、手は血で濡れていた。指が滑る。支え切れない。リヒトはその場に崩れ落ちた。


「よりにもよって……。あんたもかよ」


 掠れた声が漏れる。オベリア部隊が今まで存続できていたのはディノスが軍全体の反対を押し切り、盾になってくれていたからだ。


 胸の奥が軋み、怒りと失望が絡み合い、吐き気にも似た感覚が込み上げてきた。


「お前たちの目的は何だ。なぜここにいる」


 リヒトは弱々しく鉄格子に頭をぶつけ、二人を睨み上げた。考えたくないことが多すぎる。脳の処理が追いつかなかった。


 そんなリヒトを見下ろしていたディノスが、ゆっくりとその巨体をしゃがませる。目の前に彫りの深い顔が近づいた。甘くスパイシーな香水の香りが鼻をくすぐる。時折、基地内で香っていた匂い。今は吐き気を催すほど不快だった。


「リヒト。俺たちの仲間にならないか?お前は絶対こっちの人間だよ」


 諭すような口調。まるで善意で語りかけているようだった。しかし、その言葉がリヒトの神経を激しく逆撫でする。こっち側の人間だと。再び、怒りが湧き出て、リヒトの目が血走る。


「君はなぜその力を持っているのか、考えたことはあるかい?君の体に流れているバルムエネルギーは純正なんだよ。それもとびきり濃いものさ。与えられただけの僕たちとは物が違うんだ」

「うるせぇ。今すぐ黙れ」


 呼吸が荒くなる。リヒトは鉄格子越しにプラウドを睨みつけた。怒りに呼応するように体が青白く発光し、裂けた手の傷がみるみる修復されていく。


「おかしいとは思わなかったのか。バルムンドからも聞かされたのだろ?君の体はヴィールに似ているって」

「黙れ!」


 割れるような怒号が狭い牢に響き渡った。目を血走らせたリヒトはまるで檻へ閉じ込められた猛獣のようだった。


「君は僕たちの仲間だったんだよ。そしてたまたま、この地にたどり着いた。僕としても放っておくわけにはいかないからね。君の記憶が戻れば、こんな手荒な真似はしなかったんだけどね」

「俺がお前たちの仲間な訳がないだろ!ふざけるのも大概にしろ!」


 リヒトは鉄格子を握り締める。指が軋むほど力を込めるが、鉄格子はびくともしない。まるで目の前の現実、そのもののように。


「君がどう思ってようが、僕は君を仲間だと認識しよう。そこで取引だ。僕たちと一緒に来てくれるなら、カタリーナちゃんの命は特別に救ってあげよう」

「カタリーナは関係ないだろ……」

「大いに関係ありなんだよね。彼女の体にも君と同じものが流れている。なぜあの子がただの信者だったのかはわからないけど。それは置いておこう。君が約束してくれれば、カタリーナちゃんは殺さずにいてあげる。どうかな?」


 彼女の名前が出された瞬間、熱された胸とは反対側。背に氷を落とされたような寒気が走った。


「腐れ外道が。そんなことを言っても俺がお前たちの仲間になると本気で思ってるのか」

「少し時間を上げるよ。貴重な、貴重な時間だよ。その時までによく考えておくことだね」


そう言葉を残し、二人は暗い通路の奥へ歩き出す。プラウドの顔が闇へ消える寸前、あの薄ら笑みが一瞬だけ消えたような気がした。通路の暗がりに沈む横顔は、ひどく冷たく見えた。


読んでくださりありがとうございます。

心のどこかで信頼を置いていた人間に裏切られる。かなりメンタルにきますね。プラウドが言っていた、カタリーナだけは助けてあげるとはなんのことなのでしょうか。

次回、囚われの身となったリヒト。捜索するカタリーナ。そう言えば買ったコロッケパンは。


感想や評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。よろしくお願いいたします。白モン

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