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2章 残照②高く見えた空

前回のあらすじ

リヒトは訓練を通して成長したカタリーナを見つめる中、プラウドに亡き仲間・マルクスについて尋ねる。しかし彼は多くを語らず、人は自分一人では変われないとだけ残した。その後、任務と称してお使いを頼まれた二人は街へ向かう。ウルスラを失って以来、二人きりで歩く時間にはどこか気まずさが残っていたが、他愛のない会話や何気ないやり取りの中で少しずつ空気は和らいでいく。髪型を変えたカタリーナへ言葉を返せず戸惑うリヒト。変わったのは彼女だけではない――周囲に言われ続けた自分自身の変化にも、彼はまだ気づいていなかった。やがて二人は、香ばしい匂いに誘われ『ブロカンムッシュ』へ足を踏み入れる。

 扉を開けると。香ばしい小麦とバターの香りが流れ込んできた。木の温もりを感じる店内には落ち着いたカントリーミュージックが流れ、外より少しだけ時間がゆっくり進んでいる気がした。


 店へ入るや否や、カタリーナは素早くトレイを手に取る。トングを軽快に鳴らしながら、目を輝かせて次々とパンを乗せていった。クリームの乗ったデニッシュ、艶のあるアップルパイ、砂糖をまぶした揚げパン。稽古の時より早い動きだな、とリヒトは小さく鼻を鳴らした。


「リヒトさんはどれにしますか?甘くないのはこっちですよ」


 カタリーナは店の中央に置かれた机を指差した。そこには惣菜パンやサンドイッチが並べられている。


「俺が甘いもの苦手なのよく知ってるな。誰から聞いた」

「それぐらい見ていればわかりますよ。ほら。どれにしますか?私もしょっぱいの一つ食べよっと!」


 既に置く場所がなくなり始めているトレイに、カタリーナはコッペパンにコロッケが挟まったパンを追加した。揚げたてなのか、衣がまだじゅわりと音を立てている。リヒトがじっとそのパンを見ていると、カチカチと小気味よい音が鳴った。顔を向けると、カタリーナがトングを鳴らしながらこちらを見ている。どこか満足げで、期待を含んでいるような笑み。その顔を見るとなぜか素直に選ぶ気にならない。


「俺はこのクロワッサンだけでいい。飲み物は――」

「温かいブラックコーヒーですよね。注文しておきます」


 大ぶりなクロワッサンをトレイに乗せたカタリーナはそのまま店員の元へ向かう。リヒトは注文を伝える後ろ姿を僅かに眉を上げながら眺めていた。



 会計を済ませ、二人は飲食スペースの一番奥の二人席に腰を下ろした。木製のテーブルには細かな傷が刻まれていた。午後の日差しが窓から差し込み、店内を柔らかく照らしている。


 二人以外で席に座っているのは、会話に夢中な年配の女性が二人と読書に耽る老人が一人だけだった。


 席へ着いたらすぐに食べ始めるものだと思っていたが、カタリーナはなぜかパンに手を伸ばさない。リヒトはコーヒーの入ったカップを口に運ぶ。口縁に触れた熱がじんわりと広がる。口に含むと柔らかな苦味の奥にわずかな甘さが残る、この好みの味だ。リヒトはふぅ、と息をつく。向かいではカタリーナも頼んだ温かい牛乳へ口をつけていた。白い湯気がふわりと立ち昇る。未だパンには手を付けていない。


「どうした。食べないのか」

「一応リヒトさんが口をつけてからにしようかと」

「俺の前ではそういうのはしなくていい。好き勝手にしてくれた方が楽だ」

「じゃあ遠慮なく」


 カタリーナはリヒトを覗き込むようにしてパンに手を伸ばした。食べ始めからそれほど時間は立っていないのに、彼女の皿の上に積まれていたパンがみるみるうちに消えていく。パンをちぎって口へ運ぶ。所作自体は丁寧だが一口が大きい。夢中になって食べている姿は見ていて気持ちが良かった。時折、甘いクリームが口元については慌てて拭っている。その様子を眺めながらリヒトは再びコーヒーを口に運んだ。久しぶりに気が抜け、ただ静かな時間に身を委ねていた。


 クロワッサンを食べている最中、一つ席を挟んで隣にいる老人が読んでいる本が気になった。


 題名――『最初の涙』。表紙は長い年月を経たように擦れた濃紺の革張りだった。中央には、荒れた空から一粒の雫が落ちる絵が描かれている。黒雲の切れ間から落ちるその雫は瑠璃色に淡く輝き、下に広がる底の見えない暗闇へ吸い込まれていた。周囲には黒い羽根がいくつも舞っている。どこか不気味なのに不思議と目を引く表紙だった。


 リヒトはクロワッサンをちぎって口に運びながら、時折横目でその本に視線を送る。するとカタリーナがパンを頬張ったまま、じっとこちらを見ていた。


「……どうかしました?」

「いや。別に……」


 そう答えながらもリヒトの視線は再び本の表紙に向かう。


 リヒトはクロワッサンを食べ終え、まだ温もりが残るコーヒーで唇を湿らせた。山のように積まれていたカタリーナの皿のパンも、いつの間にか最後の一つになっている。残っていたのはコッペパンにコロッケを挟んだあのパンだった。


 ほとんど甘いパンだったのによくここまで残しておいたな。そんなことを思っているとカタリーナはそのパンを半分に千切り、当然のようにリヒトの皿へ置いた。


 「お腹がいっぱいなので半分食べてください」


 柔らかく微笑んでいた。リヒトは少しだけ片眉を動かしたあと、素直にそれを口に運んだ。噛むたび衣の音が小さく鳴る。濃いソースとじゃがいもの甘さが広がった。特別美味いわけじゃないのに、なぜかもう一口食べたくなった。


 それを食べ終え、残り少なくなったコーヒーを飲み干す。すると向かい側から、ちらちらと視線が送られてきていることに気づいた。何か言いたげな様子にリヒトは小さく鼻を鳴らす。


「このコロッケのパンは気に入った。せっかくだから持ち帰りで買っていこう」

「はい。私も気に入りました。私の分も合わせて二つお願いします!」


 ぱっと表情を明るくし、嬉しそうに手を叩く。その反応を見て、リヒトの口元も僅かに緩んだ。


 リヒトたちはプラウドに頼まれた特製デニッシュ、コロッケパンを二つ、そしてローザへ渡すブリオッシュを一応二種類――生クリームとイチゴクリームを購入し、ここを後にした。



 太陽が少し西へ傾く中、カタリーナはご機嫌そうに大きく手足を動かしながら歩いていた。その姿にリヒトは小さく口元を緩める。感情を隠そうともしない彼女は自分とはまるで正反対だ。


 パンの入った紙袋を片手に石畳の道を歩いていると、一軒の古びた本屋が再び視界に入った。行きに見かけた時から、どこか気になる店。リヒトは自然と歩みを緩めていた。


 周囲の建築物の中でその店だけが異質だった。深緑色に塗られた外壁は長い年月を感じさせるように掠れている。蔦のような装飾が絡む木枠の窓。そこから覗く大量の古書。まるで街の中でそこだけ時間の流れが違うみたいだった。少し足を止めた後、リヒトは本屋を指差す。


「あそこに入ってもいいか」

「もちろんです。今日はリヒトさんの行きたい場所に行きたいって言ったじゃないですか。行きましょう!」


 扉を開けると、からんと少し古ぼけた鐘の音が鳴った。狭い店内には天井近くまで届く本棚が並んでいる。積み重ねられた本。淡く埃を照らす陽光。すべての本に透明な薄いカバーが掛けられていた。


「珍しいお客人だ。何をお探しで?」


 弾かれるように声のする方に体を向ける。まるで気配を感じなかった。そこに立っていたのは背中を丸めた小柄な老婆だった。体に合っていない深緑色のローブは裾を引きずり、たるんだ瞼の奥にある小さな瞳だけがじっとこちらを見つめている。目が合った老婆は瞬きすらしなかった。視線を逸らしたくなるのに、なぜか先に逸らせない。


「――『最初の雫』という本なんですが。ここにありますか」

「はい。もちろんございますよ。少々お待ちください」


 老婆は震える足を擦るように歩き、古びた長い脚立を持ってくる。危なげな足取りにリヒトとカタリーナが思わず声を掛けた。しかし老婆は聞く耳を持たない。それどころか脚立へ手を掛けた瞬間だった。震えていた老体がまるで壁を這う虫のように滑らかに動き出す。干からびた指先が高い棚の隙間へ迷いなく伸び、一冊の本を静かに引き抜いた。


 唖然としていると、老婆はすでに目の前に立っていた。


「お待たせしました」


 リヒトは頬を僅かに引き攣らせ、差し出された本を受け取った。何者なんだ、この人は……。


「あなたはどうしてこの本を読みたいと思ったの?」


 老婆は両手を後ろに回し、皺だらけの顔に穏やかな笑みを浮かべた。問われた瞬間、リヒトは答えに詰まった。ただ、あそこで見たものが頭から離れなかった。


「……表紙、ですかね」


 自分でも曖昧な答えだった。老婆は何度か頷き続け、何も言わなかった。


「これはどういう話なんですか?」

「そうねぇ。ある神様に憧れた天使のお話よ」老婆の口調が柔らかくなった気がする。「物語の最後を聞きたい?」


 リヒトは一瞬だけ黙り込む。そして首を小さく横に振った。


「……いえ。自分で読みます」

「そう。出会いは一期一会。大切にしてあげてね」


 リヒトは本の表紙にそっと触れると、指先に僅かな凹凸を感じる。しばらくの間、その表紙をじっと見つめていた。


「そちらのお嬢さんは何か欲しいものはある?」

「私は……。この本はどういうお話ですか?」


 カタリーナは近くの棚から一冊の本を手に取った。表紙には夕焼けに照らされた、向かい合う若い男女が指先を重ねている。老婆は弛んだ瞼をピクリと動かした。


「『灰の上のワルツ』。敵対する家で生まれた男女の許されない恋のお話よ」


 カタリーナは両手で持ったその本を見つめている。


「物語の最後は聞きたい?」

「はい」


 早めの答えだった。老婆は乾いた唇に弧を描く。


「結ばれることがないと悟った女性は自ら死を選ぶ。そして男もその後を追うのさ」


 カタリーナの指先が僅かに本の端を撫でた。だが次の瞬間、彼女はゆっくりとその本を棚に戻す。少しの間、指先だけが本の背に触れていた。それから何事もなかったように次の本に手を伸ばした。


『スイートピーが散る朝に』


 表紙には手を繋いだ二人の少女が描かれていた。その二人はピンクや薄青色の花畑の中で穏やかに笑っていた。カタリーナはその絵をじっと見つめている。


「……これはどういうお話です?」

「お姫様の幸せのため、自らを捧げるメイドのお話さ」

「最後はどうなるんですか?」


 今度は問い詰めるような声色で尋ねた。


「主人公のメイドはお姫様が愛する人と結ばれるため犠牲になる」


 その瞬間、カタリーナの瞳が僅かに揺れた。口元に柔らかな笑みを浮かべている。


「……私は、この本にします」


 彼女はそう言って、本を胸元へ抱き寄せた。大切なものを壊さないようにするみたいに、静かに。リヒトは僅かに眉を寄せる。意外だった。カタリーナはもっと明るい話を好むと思っていたからだ。


「本当にそれでいいのか。もっと明るい話もあるだろう」


 カタリーナは一瞬だけ瞼を弛ませ、それから柔らかく笑った。


「この本が気になったんです。誰かのために命を懸けるのって、ものすごく美しいことじゃないですか」


 囁くようにそう言った彼女の横顔から目を逸らせなかった。何か言おうとして、結局口を閉じた。


 会計をしている間も老婆の小さな瞳はこちらをじっと見つめていた。


「本は色んな世界へ飛び込める。楽しみ方は人それぞれ。それもまた、人が人である理由というわけです。お買い上げありがとうございました」


 深々と頭を下げる老婆を背にリヒトたちは本屋を後にした。



 空に琥珀色の光が混じる中、リヒトたちは基地に向かって歩いていた。頬を撫でる夕風がいつもより心地よく感じる。


「たまには出かけるのも悪くないな」

「そうですね。リフレッシュも大事ですから」


 気づけば足は止まらず、言葉だけが続いていた。自然が黄金色に染まり、穏やかな時間が流れていた。


 今ならプラウドの言葉が少し分かる気がする。


「人は一人では変われない」


 パンの入った紙袋と脇に抱えた本をじっと見つめ、歩みを止めた。少し先を歩いていたカタリーナが振り向いた。桃色の髪が夕風にそよぎ、おとぎ話から抜け出してきたような可愛らしい顔がこちらを見つめている。喉の奥が少し乾く。リヒトは短く息を吐き、ゆっくりと口を開いた。


「カタリーナ……はここに来てよかったと思うか」


 自分の身勝手な理由で彼女を連れてきた。今の日々を彼女がどう思っているのか、これまで聞くことができなかった。


 カタリーナはすぐ答えなかった。夕風になびいた髪を耳に掛け、少し考えるように空を見る。やがて視線が戻ると、口元が柔らかく緩んでいた。彼女の白いワンピースの裾が軽やかに揺れる。


「はい。もちろんです」


 白い肌が少しだけ赤らんで見えた。胸の奥に残っていた小さな重さが溶けていく。見上げた空はいつもより少しだけ高く感じられた。


 そのまま歩き続け、空が茜色に染まり切る頃にはオベリア基地に到着していた。その時、リヒトのリンクギアに通知が入る。


 ――リヒト。すまないが急ぎで北西の広場に来てもらえるか。できれば君一人で頼むよ。プラウド。


「すまない。プラウドから呼び出しが入った。この本は……カタリーナが持っていてくれるか。帰ってきたら部屋まで取りに行く。預かっていてくれ」

「わかりました。パンは帰ってきたら温めて食べましょう。私はローザさんにパンを届けてきます」


 リヒトはカタリーナに本を渡すと、デニッシュの入った紙袋を抱え、夕暮れの道を駆け出した。

読んでくださりありがとうございます。

カタリーナはよくリヒトを見てますね。一方リヒトは自分しか見えていない気もしますが。

次回、結構好きなシーンです。気合い入れて書きます。


感想や評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。よろしくお願いいたします。白モン

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