1章 灯り ⑬届かなかった手
前回のあらすじ
リヒトはカタリーナやウルスラと穏やかな日々を過ごしていた。しかし夜になる度、桃色の髪の女性が殺される悪夢を見るようになる。訓練中のある昼下がり、リヒトは意識を失い、セピア色の廊下とカタリーナによく似た少女が現れる奇妙な夢を見る。目覚めた後も夢の残滓は消えず、カタリーナを見る度に胸の奥がざわついていた。そこにプラウドから呼び出しが入る。屋上で彼は「目的と過程、どちらが大切か」と意味深な問いを投げかける。しかし答えを聞いた直後、アトルサ全域に緊急警報が鳴り響く。大量のヴィールが押し寄せ、オベリア部隊へ出撃命令が下されたのだった。
オベリア部隊には総出で出撃命令が下された。リヒト、カタリーナ、そしてウルスラの三人は国の北東側に配備される。
壁の上では一般兵たちが大型兵器を絶え間なく撃ち続けていた。轟音と共に光が荒野を薙ぎ払い、先頭のヴィールたちを次々吹き飛ばしていく。しかし押し寄せる群れの勢いはまるで衰えない。砂塵を巻き上げながら、赤黒い群体が大地を埋め尽くすように迫ってくる。
「二人は後方で俺のサポートに回れ」
リヒトは腰からハンドガンを二丁抜く。手慣れた動きで弾倉にバルムカプセルを差し込むと、横にいるカタリーナへ視線を送った。
「危険を感じたら防御壁を展開しろ。あれはヴィールにとって毒みたいなものだからな」
カタリーナはまばたき一つしないで小さく頷く。その奥では、ウルスラが腕を組みながら、何度も首を捻っていた。眉間に皺を寄せ、いかにも何か言いたそうな顔をしている。
「なんだ。何かあるなら言え。ただし任務に関係ないことなら後にしろ」
「じゃあいいよ~。それなら任務の後で」
いつも通り軽い調子だった。しかし、どこか引っかかった。リヒトは一瞬だけ目を細めたが、周囲の警報音と銃撃音が思考を押し流していく。
三人は同時に壁から飛び降りた。エアウェイトを起動させ、地面にふわりと着地する。周囲には既にコアを破壊されたヴィールの残骸が散乱していた。赤黒い肉片。乾き始めた黒い液体。鼻を刺す鉄臭さと腐敗の匂い。
その中をリヒトは迷いなく駆け出す。両手のバルムガンが火を吹く。乾いた発砲音。ヴィールのコアだけを正確に撃ち抜いていく。リヒトは無心で引き金を引き続けた。時折、リヒトの体を追い抜くように光が走る。
後衛にいるカタリーナとウルスラの狙撃だ。リヒトの射線に入らないヴィールを正確に撃ち抜いている。その援護があるからこそ、リヒトは前に意識を向けられた。
荒野は次第に赤黒い死骸で埋め尽くされていく。そして、最後のヴィールのコアを撃ち抜いた瞬間、辺りに静寂が落ちた。
熱を持った銃口から白い煙が立ち昇る。リヒトは大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。肺の奥に残っていた熱が少しずつ抜けていく。顔を上げると砂塵の向こうからカタリーナとウルスラがこちらに駆け寄ってきていた。女性用の丈の短い黒い軍服を揺らすカタリーナ。焦茶色のツインテールを跳ねさせながら走るウルスラ。
二人の姿を見た瞬間、リヒトは胸の奥にあった空洞が少し埋まるような感覚を覚えた。が、直後。地面が震えた。
リヒトの表情が一瞬で強張る。視線を周囲に走らせるが、荒野の先には何も見えない。振動は止まらない。むしろ徐々に大きくなっていく。足裏から嫌な感覚が伝わってくる。やがて体が大きく揺れるほど振動は激しくなり、リヒトは思わず片膝を地面につく。砂が細かく跳ね、空気が震える。胸の奥を直接叩かれるみたいな低い振動音。
これは……。まさか……。リヒトは地面に手を突き、砂を強く握りしめる。そして勢いよく立ち上がった。
「今すぐここから離れろ!下だ!」
叫ぶと同時に二人へ向かって駆け出す。その瞬間。ピタリと振動が止まった。静かだ。異様なほどに。世界そのものが一瞬停止したみたいに。風も。音も。全てが止まる。
刹那。轟音と共に大地がめくれ上がった。爆発したみたいに砂塵が空に噴き上がる。地面が裂け、巨大な影がその中から姿を現した。リヒトは思わず息を呑む。
現れたヴィールは今まで見てきた個体とは明らかに異質だった。筋肉質というより無駄を削ぎ落とした細長い体躯。黒赤い皮膚は硬質化しているのか、鈍い光を反射していた。細長い両腕からは槍のように鋭く尖った白骨が突き出している。骨と肉が癒着したような歪な形状。その先端は陽光を受け、不気味に輝いていた。指先の爪も異常だった。刃物みたいに細く長く伸び、こすり合わせる度に耳障りな金属音にも似た音が鳴る。顔にはまるで目のように白く発光する二つのコアが浮き出ている。無機質な光がこちらを見下ろしていた。
リヒトは顔を歪め、大きく舌打ちをした。じっとりとした嫌な汗が背中を流れる。急いでリンクギアを起動する。
「こちらリヒト!北西エリアに変異種が出現!指示をください!」
しかし返答はない。リヒトの眉間に深い皺が刻まれた。腰のホルスターから二丁の銃を抜き放つ。銃口を未だ動かぬ変異種へ向ける。目を細め、変異種を睨みつける。胸の奥では焦燥感が渦巻いていた。目の前の存在は危険だ。本能がそう警鐘を鳴らしていた。
「リヒトさん。リンクギアが……」
「こんな時に限って。帰ったら博士につきだしてやる。……俺たちでやるしかない」
吐き捨てるように言った。その時、変異種がぬるりと腕を振り上げた。肌を舐め回されるような不快な空気から突き刺すようなぴりりとしたものに変わった。
「後方へ退避!」
リヒトが声を荒げる。直後。変異種が咆哮を上げ、腕を大地に叩きつけた。
轟音。地面が悲鳴を上げる。衝撃波が荒野を走り、まるで地面そのものを殴り壊したみたいに大地へ巨大な亀裂が刻まれた。砂塵と瓦礫が吹き上がる。
リヒトは顔を歪めながら、足を擦るように後退した。くそ。化け物め。舌打ち混じりに吐き捨てる。
リヒトはその場でバルムガンを乱射した。銃口から放たれた光弾が流星の如く変異種に降り注ぐ。しかし。それは躱した。音を置き去りにするような速度で。
「な……」
リヒトの喉から思わず声が漏れる。変異種の動きは異常だった。巨体とは思えないほど速い。地面を蹴る度、筋肉が不気味に収縮し、その図体が弾丸みたいな速度で迫ってくる。
コアの光が砂塵の中で白く揺れた。次の瞬間にはもう目の前だった。まずい!と反射的に後方へ飛ぶ。が、間に合わない。
変異種の腕が空気を裂き、薙ぎ払われる。鋭い爪先がリヒトの腹部を深く切り裂いた。熱い。焼けた鉄を押し込まれたような熱が腹を走る。鮮血が宙を舞う。リヒトの体が吹き飛ばされ、荒れた地面を転がっていく。
砂塵の中。変異種が立っていた。白く発光する二つのコアが不気味にこちらを見下ろしている。
「リヒトさん!」
後方から割れるようなカタリーナの声が響いた。同時にハンドガンの射撃音と共に青白い光弾が変異種へ降り注ぐ。しかし、それも全て躱した。地面を滑るように動き、光弾の隙間を縫っていく。
リヒトはそれから目を逸らさぬまま、呼吸を整える。肺の奥へ空気を押し込み、体の内側に意識を集中させた。全身が青白く発光し、腹部の裂傷が塞がっていく。焼けるような痛みが徐々に薄れていった。リヒトはだらりと腕を下げた変異種を睨みつける。こっちから近づくしか……。
「リヒト!」
横から声が飛ぶ。いつの間にかウルスラが隣に立っていた。焦茶色のツインテールを風に揺らしながら、真っ直ぐ変異種を見据えている。
「おい!お前たちは後ろでサポートだって……」
「私に案があるの。やるかやらないかはリヒトが判断して!」
ウルスラのサファイアブルーの瞳に、迷いは見えない。リヒトは言葉を止めた。
ウルスラの作戦は単純だった。後方でカタリーナが支援。そしてリヒトとウルスラの二人で変異種と近距離戦を行う。素早く動くこの変異種に攻撃を当てるには、それしかない。
リヒトは小さく息を吐く。
「……やるぞ」
二人は同時に駆け出した。変異種の懐へ飛び込む。バルムガンが火を吹いた。至近距離で放たれる光弾。変異種が腕を振るう。後方から展開されたオレンジ色の防御壁が二人の前へ滑り込むように現れた。その壁に触れた変異種の爪先が一瞬で塵となって崩れ落ちる。赤黒い肉片すら残らない。
変異種が初めて体を引いた。その隙を逃さずリヒトとウルスラが同時に射撃。青白い光線が変異種の体を撃ち抜いていく。肉が裂け、黒い飛沫が宙に散った。
戦いやすい。ウルスラが常にリヒトの死角を埋めるように動き、カタリーナは二人の位置を正確に把握して防御壁を展開している。三人の動きが噛み合っていた。リヒトの胸に小さな熱が灯る。いける。このままなら勝てる。
そう思った矢先だった。突如、周囲の地面に爆ぜた。轟音。爆風に火薬の匂い。砂塵が空へ巻き上がる。リヒトは咄嗟に攻撃を躱しながら、射撃音の方向を見る。壁の重火器。一般兵たちがやみくもに砲撃を撃ち込んでいる。
「邪魔しやがって……!」
歯を食いしばった瞬間、悲鳴が耳に飛び込んできた。視線を向ける。カタリーナだった。爆撃の余波に巻き込まれ、地面へ伏せている。砲撃の量が多すぎる。このままでは彼女が吹き飛ばされるのも時間の問題だ。しかし今ここを離れれば、前線のウルスラが危険だ。
「ウルスラ!あいつをここから連れていけ!この場は俺が引き受ける!」
「だめ!私が爆撃に巻き込まれたらカタリーナちゃんを助けられない!」
爆音の中でも、その声だけははっきり聞こえた。
「リヒトが行って!」
リヒトの呼吸が一瞬止まる。
「俺がここを離れたらお前が……」
「いいから行って!」
ウルスラが割れるような声で叫ぶ。
「カタリーナちゃんを見殺しにしたら私が絶対許さないから!早く!」
リヒトは奥歯を強く噛みしめる。唇の端が微かに震えていた。
思考を振り切るように、リヒトは地面を蹴る。爆撃の中へ飛び込んだ。そこら中で地面が爆ぜる。焼けた土と血の臭い。リヒトは爆撃をかいくぐりながら駆ける。
刹那。目の前が爆発した。衝撃波が体を呑み込む。皮膚が裂け、熱が肉を焼く。それでも止まらない。青白い光を纏いながら、リヒトは強引に体を修復していく。焼けた肉が再生し、裂けた皮膚が塞がる。痛みを無理やり踏み潰しながらカタリーナの元へ辿り着いた。
地面に伏した彼女は衝撃で気を失っている。リヒトは傍で膝をつき、その頬を軽く叩いた。薄く瞼が開く。空色の瞳が揺れていた。
「――足手纏いになっちゃってすみません」
「怪我は大したことないな。動けるなら手を貸せ。ひとまずウルスラのところに……。」
そこで、時が止まった。耳鳴り。呼吸を忘れる。変異種の鋭い腕。その爪が。ウルスラの華奢な体を深く貫いていた。焦茶色のツインテールが力なく揺れる。血が宙に散った。リヒトの黒い瞳が大きく揺れる。焦点が合わない。胸の奥がぐしゃりと潰れる。腹の底から熱が込み上げてくる。世界の音が遠い。
現実に引き戻したのは、カタリーナの叫び声だった。
「その汚い手を離せ!」
カタリーナが震える手を翳す。オレンジ色の防御壁が一瞬で展開された。触れた瞬間、その腕が崩れた。そして、ウルスラの体が力なく地面を叩いた。
鈍い音が響いた瞬間、リヒトの中で何かが切れた。腹の底を掻きむしられる。おぼつかない脚を無理やり踏み出そうとした、その時だ。目の前の変異種が耳を裂くような咆哮を轟かせる。直後、その巨体は地面の中へ潜り込むように消えた。
砕けた地面が崩れ、砂塵が激しく舞い上がる。強風が荒野を吹き抜けた。あまりに静かだった。さっきまで鳴り響いていた爆音も。銃声も。全てが嘘みたいに止まっている。
リヒトたちは弾かれるようにウルスラの元へ駆け出した。ウルスラの体には不規則に穴が開いていた。赤黒い血が止まらない。地面に流れ落ち、それが乾いた土を赤く染め上げていく。
立ちすくむリヒトの前でカタリーナがウルスラの体を抱きかかえた。リヒトもゆっくりと地面に膝をつける。震える手が血で濡れた大地に触れた。しかし、その先へ伸ばせなかった。本当に終わってしまう気がしたから。
「よかった……」
ウルスラが掠れた声を漏らす。浅い呼吸。小さく上下する肩。喉が苦しそうに震えていた。
「カタリーナちゃん……。無事だったんだね……」
カタリーナの目から大粒の涙が零れ落ちる。それがウルスラの白い頬へ落ちた。ウルスラは安心したように目を細めている。
「私……。お姉ちゃんと同じだ……」
息の混じる途切れ途切れの声。それでも彼女は笑っていた。
「よかった……」
猫のように少しだけ上がる口角。穏やかな顔が少しずつ白くなっていく。
何か言わなければいけない。手を伸ばさなければいけない。それなのに、体が動かない。呼吸が浅くなる。胸の中で何かが暴れ続けていた。何一つ、間に合わなかった。
サファイアブルーの瞳が、霞んでいく。それでも彼女はリヒトを見ていた。
「リヒト……ありがとう……」
唇が微かに動く。呼吸と一緒に零れた声は、風に溶けてしまいそうなほど弱かった。そして。陽が落ちるように、ウルスラの瞳から灯りがゆっくりと引いていった。
読んでくださりありがとうございます。
リヒトが初めて感じた喪失。ウルスラの最後の言葉をリヒトはどう受け止めたのでしょうか。
次回、1章 灯り完結です。辛い時は、吐き出せばいいんです。
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