1章 灯り⑫夢蝕
前回のあらすじ
新しい濃紺のセットアップを纏ったリヒト。着せ替え人形のような扱いを受け、疲弊しながらも、不思議と嫌な気分ではない。そんな中、ウルスラとカタリーナに連れられて訪れた墓地で、リヒトは初めてウルスラの過去を知る。両親に捨てられた後、唯一の家族だった姉を理不尽な事件で失っていたのだ。自分だけが生き残った痛みを滲ませるウルスラに、リヒトは不器用な言葉を返す。「今を生きることも大切だ」と教えてくれたのは、お前だろ――。その言葉は、ウルスラの凍りついた心を少しだけ溶かしていくのだった。
それからというものリヒトの生活は大きく変わらなかった。壁外でヴィールを駆除。任務がない日は朝からカタリーナと稽古をする。それだけの日々。
変わったことといえば、ウルスラとカタリーナの三人で街に出かける時、買わされた濃紺の服を着るようになったこと。そして帰り道にウルスラの姉が眠る墓地へ立ち寄るぐらいだった。
夕暮れの墓地で三人並んで過ごす時間は不思議と嫌ではなかった。茜色の空の下、ウルスラがぽつぽつと話をする。記憶のない自分にも、今が積み重なっている。そんなものを、ほんの少しだけ理解し始めていた。
しかし夜になると、それを嘲笑うみたいに悪夢がやってくる。雨の降る路地裏。燃え落ちる建物の中。雪の積もる森。見知らぬ街。見知らぬ空。けれど結末だけは同じだった。目の前で桃色の髪の女性が殺される。どれだけ手を伸ばしても、逃げても、叫んでも、戦っても。血が流れ、その命が零れ落ちる瞬間だけが嫌になるほど鮮明だった。夢だ。そう割り切ればいい。それでも、あれは自分が見た光景なのではないかと。胸の奥に黒い泥みたいなものが溜まっていった。
ある昼下がり。青空の下、いつものようにカタリーナと木刀を交えていた時だった。踏み込もうとした瞬間。不意に視界の端が黒く滲む。……なんだ。
次の瞬間。視界が黒い幕で覆われた。世界から音が消える。カタリーナの声も。風の音も。何もかも遠ざかっていく。そしてリヒトの意識は唐突に途切れたのだった。
目を開くとそこには長い廊下があった。世界は色を失ったようなセピア色に染まっている。輪郭だけがぼんやり浮かんでいる。周囲を見渡しても見覚えはない。それなのに胸の奥だけが微かにざわついていた。
いつもの夢とは違う。あの胸を掻きむしるような焦燥感や絶望はない。代わりに奇妙な静けさがあった。まるで深い水の中に沈んでいくようだった。足を踏み出す度、木が擦れ合う高い音が廊下に響いていく。
壁には何枚もの絵が貼られている。子供が描いたのだろう。歪な丸と線で描かれた人たちが、手を繋ぎ輪になっている。友達や家族を描いた絵なのかもしれない。リヒトはまた足を進める。
やがて廊下の奥に、微かに揺れている扉を見つけた。リヒトはそこへ足を向ける。
扉を開くと、窓から風が吹き込み、白いカーテンを激しく揺らしていた。薄暗い部屋の両脇には三段ベッドが二台、縦長のロッカーが左右に三台ずつ並んでいる。
その時、小さな物音が聞こえた。リヒトの視線がゆっくり動く。音がしたのはロッカーの方だった。胸がざわつく。怖くはない。それなのに、これ以上踏み込めば戻れなくなる気がした。
リヒトはゆっくりロッカーへ手をかける。軋む音を立てながら扉が開いた。洋服が掛けられているその下に小さな足が二つ見えた。
一瞬、体が強張る。目を背けたいものがある気がした。
次の瞬間、ロッカーの中から小さな白い手が二つ飛び出してきた。手を握って。そうねだるように、幼い手がこちらに向けられている。リヒトは息を呑む。胸の奥が妙に熱い。
するとロッカーの中から少女が飛び出してきた。
その瞬間。リヒトは目を大きく見開いた。心臓が強く脈打つ。呼吸が止まった。桃色の髪が揺れた。晴れた空みたいな空色の瞳。目の前にいるのは、幼いカタリーナによく似た少女だった。けれど、ただ似ているだけではない。その瞳を見た瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。視界がおぼつかなくなる。脳の奥を直接炙られるように熱い。呼吸が乱れ、世界がぐにゃりと歪む。なんだ……これ……。
懐かしい。苦しい。怖い。感情が脳を掻き乱す。そしてリヒトの意識は再びその世界へ沈んでいった。
意識が現実へ浮かび上がる。ぼやけた視界の先。最初に映ったのは桃色の髪と空色の瞳だった。その色彩が先ほどまで見ていた夢と重なった。まだ意識の一部が深い霧の中へ沈んでいるようだった。ぼんやりとしたまま視線を動かす。木漏れ日の中、空色の瞳が覗き込んでくる。心配そうなのに、その眼差しは穏やかだった。
「お疲れのようなので今日はこのままお休みになってはいかがでしょう?」
風を撫でるみたいな優しい声。カタリーナは膝の上に乗せたリヒトの頭を動かさないよう姿勢を崩さずにいた。
「いや。いい。迷惑をかけた」
リヒトは短くそう返すと、勢いをつけて体を起こした。深く息を吸った。草木の匂い。昼下がりの風。遠くで聞こえる訓練音。現実の感覚を無理やり体へ戻していく。ここ最近ずっと纏わりついていた気だるさだけは薄れていた。あれは一体何だったんだ。
思考がまとまらない。断片的な映像。知らない場所。幼い少女。そして、あの桃色の髪。あれじゃあまるで小さい……。
そこまで考えた瞬間、リヒトは無意識に横座りしているカタリーナに視線を向けていた。
あどけなさを残した整った顔立ち。晴れた空みたいな瞳。彼女の顔を見る度、頭の奥が熱くなる。夢の少女が脳裏に焼き付いてくる。
リヒトはそれを振り払うように強く目を瞑り、首を横へ振る。カタリーナが目を丸くしたが、何も聞いてこない。ただ静かにこちらを見守っている。
その穏やかさが今のリヒトには落ち着かなかった。頭が整理できていない。彼女の顔を見るほど夢の少女が脳裏に浮かび上がってくる。静寂が石みたいに重かった。
その時。電子音が鳴る。リヒトは逃げるようにリンクギアを起動した。プラウドからメッセージが届いていた。
――お楽しみのところ申し訳ないけど至急屋上に来てくれ。リヒトだけで頼むよ。
リヒトは立ち上がった。木陰から一歩外へ出ると、陽光が肌に差し込む。屋上の手すりに肘を置いたプラウドがひらひらと片手を振っている。
リヒトはカタリーナの前まで歩み寄り、彼女を見下ろした。彼女は小さく首を傾げている。
「プラウドから呼び出しが入った。今日はここまでだ。道具の手入れは怠るなよ」
できるだけ普段通りを装う。しかし声はどこか硬かった。カタリーナに背を向ける。今は彼女の顔を見られない。リヒトはそのまま足早に基地の中へ入っていく。
廊下を進みながらも思考はまとまらない。あれは本当に夢なのか。なぜカタリーナと同じ顔だった。俺はあの場所を知っているのか……。答えを探そうとするほど、頭の中へ濁った水が流れ込んでくる。苛立ちにも似た息を漏らし、リヒトは階段を駆け上がる。重たい足音が階段に響いた。
屋上へ続く扉を勢いよく開け放つ。 途端に強い風が吹き込み、青みがかった黒髪を大きく揺らす。手すりに体を預けたプラウドが片手を上げる。相変わらず薄ら笑いを浮かべていた。リヒトは長く吐息をつき、プラウドの元へ歩み寄っていった。
「やぁ。いちゃついてるところ悪いんだけどちょっと急ぎの用があってね」
「そんなことはしていない。それよりも用はなんだ。くだらないことだったら殴るぞ」
「やれるものなら。僕に攻撃を当てられるようになったら一人前だね。弟子卒業ってわけだ」
「何度も言ってるが、俺はあんたの弟子じゃない。それよりも早く要件を言え」
リヒトは眉間に皺を刻んだ。プラウドはいつも通りだ。軽口を叩き、薄ら笑みを浮かべている。プラウドは透き通った空を見上げていた。
涼風が二人の間を通り抜ける。ただ言葉を探している沈黙には思えなかった。何か大切な話に触れる前の空白だった。
「まぁその前に一つだけ質問させてくれ」プラウドは空を見たまま言った。「リヒトは目的と過程。どちらが大切だと思う?」
唐突な問いだった。リヒトは目を細める。しかし今の自分の頭の中も答えのない疑問ばかりだった。だから言葉が零れる。
「……最終的に目的が達成できれば、過程なんてどうでもいいと思うけど。」
一瞬だけ静寂が落ちた。プラウドはゆっくり細い目を閉じ、小さく頷く。
「……そうか。うん。なるほど。わかった。」
何かを確認し終えたような声だった。
プラウドは手すりから体を起こす。背筋が真っ直ぐ伸びている。今だけは、吹っ切れているようにも見えた。リヒトの胸に小さな違和感だけが残った。
「なぁ。プラウド。一体何の話を……。」
リヒトが問いかけた、その瞬間だった。アトルサ全体へ緊急警報が鳴り響く。耳を劈くサイレン。空気が一気に張り詰める。目を細め、周囲に視線を走らせる。
「大量のヴィールが押し寄せてきている。僕たちの出番だよ」
「ちょっと待てよ。要件ってのは結局なんだったんだ」
「今はそれどころじゃないだろ。また別の機会にでも話そう」
そう言うとプラウドはリヒトの横を通り過ぎていく。迷いなく去っていく背中。いつもなら冗談交じりに何かを残すはずなのに。今の彼はどこか遠かった。手を伸ばせば届く距離にいるのに、声だけが届かない気がした。リヒトは屋上に立ち尽くしたまま、胸の奥の違和感を掴みきれずにいた。
読んでくださりありがとうございます。
リヒトの見る夢って一体何なんでしょうね。プラウドの含みも気になります。
次回、出撃したリヒトとカタリーナに悲劇が。胸が痛いです。
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