1章 灯り⑪残された花
前回のあらすじ
訓練後リヒトは、ウルスラとカタリーナに連れられ街へ出かけることになる。服屋に強引に連行された彼は、二人に着せ替え人形のように扱われながらも、新しい服を選ばれていく。最初は疲弊していたリヒトだったが、街を歩く中で今までとは違う感覚を覚え始めていた。そんな彼にウルスラは「過去を知ることだけじゃなく、今を生きることも大切だ」と静かに語る。記憶を失い、過去ばかりを追い続けていたリヒト。その胸には、これまで知らなかった温かな感情が少しずつ芽生え始めていた。
いつもの飲食店で食事を済ませ、途中立ち寄った花屋でウルスラは花びらの大きなピンク色の花を買っていた。両手で大事そうに抱えているその花は夕暮れの光を受けて柔らかく色づいて見える。西の雲がゆっくり茜色に染まり始めていた。普段ならこの時間にはもう基地へ帰還している。リヒトの服選びに時間をかけすぎたせいだろう。街全体の賑わいが少しずつ落ち着き始めてきた。
「二人とも。そろそろ基地に戻るぞ」
リヒトがそう声をかけた瞬間、不意に新しいジャケットの袖を摘まれた。振り向くとウルスラがこちらを見上げている。
「ちょっと私についてきてもらえる?」
いつものような弾ける笑顔ではない。それでも口元には笑みを残していた。リヒトが返事をする前に、ウルスラは踵を返して歩き始めた。
首を傾げながらカタリーナを見ると彼女は小さく頷いた。その表情は穏やかだったが、空色の瞳がほんの少しだけ寂しそうに揺れている。
夕日を背中に受けながら、三人は石畳の小道を進んでいく。大通りから外れた道は静かだった。古びた建物の壁が橙色に染まり、窓辺の花籠が風に揺れる。遠くの喧騒も薄れ、今は靴底が石畳を叩く音だけが響いていた。
リヒトは前を歩くウルスラの背中を見つめる。いつもなら、あっちへふらふら、こっちにぴょこぴょこ跳ね回るように歩く彼女が今は真っ直ぐ前だけを見ていた。抱えた花を壊さないように、静かに。
ウルスラがどこへ向かっているのか分からない。
道が終わった先にあったのは墓地だった。整然と並ぶ墓石。夕焼けに染まる静かな丘。風が吹くたび、草木が擦れ合う乾いた音だけが辺りに響いている。
リヒトはなぜここに連れて来られたのか理解できず、視線が落ち着かない。そんな彼を尻目にウルスラとカタリーナはゆっくり前へ進んでいく。二人は小さな墓石の前で立ち止まった。
ウルスラは両手で抱えていた花をそっと墓石の前に置く。さっきまで明るく見えていたピンク色の花も今は夕暮れの赤に溶け込み、どこか寂しげだった。
誰の……。リヒトは墓石に目を凝らした。小さく屈んでいる、焦茶色のツインテールが揺れていた。
「リヒトは初めてだよね」
ウルスラはゆっくりと立ち上がった。
「ここにはね……。私のお姉ちゃんが眠ってるの」
振り返った彼女は淡々とした口調でそう言った。
リヒトの表情が固まる。出会ってから今までそんな話を聞いたことは一度もなかった。何か言葉を返そうとしてもうまく声が出てこない。
するとウルスラが小さく笑う。その笑みはいつものように弾けるものではなかった。
「リヒトがそんな顔するなんてちょっと意外」
彼女は夕焼けに染まる空を見上げる。
「街に二人で出かけてた時……。お姉ちゃんは知らない人に殺されたの。本当にたまたまね」
茜色の光が小さな体の影を細く伸ばしていた。
「親に捨てられてからずっと二人で生きてきたのに……。その一瞬で、たった一人の大切な家族がいなくなっちゃって」
そこで一度だけ言葉が止まる。ウルスラは小さく息を吸った。
「もういいやって思ってオベリアに入ったんだけど。私ってつくづく悪運だけは強いっていうか。また生き延びちゃった」
取り繕ったように軽く笑いながら言った。しかし、その声はどこか遠くから聞こえてくるようだった。
強く風が吹き、墓石の前に置かれた花が激しく揺れる。ウルスラの肩が少しだけ震えている。
「なんで私だったんだろうね」
ぽつりと零れる。
「なんであの時……」
リヒトは何も言えなかった。胸の奥がざわついている。彼女の痛みに触れてしまったような息苦しさ。夕暮れの空は綺麗なはずなのに、今はひどく静かで冷たく感じられた。
ウルスラは小さな拳をぎゅっと握りしめていた。白いワンピースの裾が風で揺れている。しかし体は少しも揺れなかった。今にも零れそうな言葉を、喉の奥へ押し込めるように。唇が小さく震えている。
リヒトはそんな俯いた顔を見つめた後、ウルスラの前でゆっくり膝をついた。
視線を墓石へ向ける。その前に置かれたピンク色の花束。色鮮やかで目を引く。自然と周囲が明るくなるような花だった。まるでウルスラのように。彼女の姉も同じような娘だったのだろうか。きっと仲の良い姉妹だったのだろう。だからこそ、ウルスラが喉元で止めているその言葉。自分だけが生き残った後悔。どうして自分だったのかという痛み。それをここで口にさせてはいけない気がした。
リヒトは少しだけ目を伏せ、乾いた唇を開いた。
「お前の姉は少なくとも……ウルスラの笑っている顔を見ていたいんだと思う」
不器用な声だ。それでも黙っているよりはマシな気がした。
「きっと生きていたらお前と同じことを考える気がする」
風が吹き、墓地の草木がざわめく。リヒトは花束を見つめたまま、続けた。
「だからこそお前が生きているということがなによりも嬉しいはずだ」
横目で見た薄く伸びた影が小さく震えていた。リヒトはゆっくりと立ち上がった。
「なにより……今を生きることも大切だってことを俺に教えてくれたのはウルスラだろ?」
記憶のない空っぽの自分。過去を持たない自分は人としてどこか欠けていると思っていた。しかし、それは同時にウルスラのような喪失を知らないということでもある。
だからきっと自分にはこんな言葉しか言えない。それでも今、目の前で痛みに耐えている彼女を一人にしたくなかった。
「リヒトは……少し変わったね。カタリーナちゃんのおかげかな?」
声のする方に目を向ける。涙ぐんだカタリーナが大きな目を細めながらウルスラを優しく抱き寄せていた。ウルスラは小さな体をカタリーナに預け、細い指でカタリーナのワンピースの裾を摘まんでいる。先ほどまで強張っていた肩から少しだけ力が抜けていた。
ウルスラは俯きながら小さく鼻をすすっていた。それからゆっくり顔を上げる。目元は赤い。けれど、そのサファイアブルーの瞳にはほんの少しだけ光が戻っていた。
「ありがとう」
掠れた声だった。それでも声には少しだけ力が戻っていた。
ウルスラは手で目元を乱暴に擦ると照れ隠しみたいに小さく笑う。茜色だった空はいつの間にかゆっくり藍色へ染まり始めている。街に灯りがぽつぽつと灯り始め、涼しい風が三人の髪を静かに揺らした。
帰り道。ウルスラの歩調は少しだけ軽くなっていた。三人は並んだまま、落ち着いた足取りで基地への道を歩いていったのだった。
読んでくださりありがとうございます。
明るい子でも人には言えないことがあるものです。しんどくなる前に誰かに打ち明けられるといいですね。
次回、リヒトが再び夢を見ます。いい夢ではないようですね。
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