ま、待って、置いて行かないで――
兄と別れてジーク様の私室に戻った頃には、外はすっかり暗闇に包まれていた。通常なら婚姻式を終えて部屋に戻ればその後に来るのは初夜で、外に出ることはない。だけど今日はいろんなことがあり過ぎてそういうわけにもいかなかった。ソファに並んで座り、エリーが淹れてくれたお茶を口にする。優しい香りが強張った諸々を解してくれた。
「アリー、大丈夫か? 疲れただろう?」
「まぁ、それなりには」
気遣わしげに声をかけてくださったけれど、強い疲労感は誤魔化しようもなかった。身体よりも精神的に疲れたわ。ディアーク様が大事に至らなくてよかったけれど、ディアーク様やブレンメ公爵の心情を思うと胸が痛む。だから息子の気持ちを無視し続けた第三妃や、彼女の甘い言葉に後先考えず乗ったカトリーナ嬢に腹立たしさが募る。自業自得だけど、そのせいで家族が悲しみ苦しむとどうして考えられなかったのかと。
「だったら、今日は止めておくか?」
さっきよりも力なくされた提案だったけれど、何のことかしら? 今日はって、何か……あああああったわ!! あったけど、いえ、やるべきなのよね。だって今日は婚姻式で、ジーク様は次代の国王で、私たちの責務は後継を残すことでもあるから……
「だ、大丈夫です」
大丈夫じゃないけれど、立場的に無理だなんて言えないわ。だって、それも私の、王太子妃の務めだから。だけど、こうして改まって尋ねられると、何故かしら、恥ずかしさが多大に増している気がするのだけど……
「無理はしなくていい。命まで狙われたばかりなんだ」
「ですが、私に被害がありませんでしたわ」
そう、狙われたけれど怪我なんてしていないわ。妨げになるものなど何もないもの。それに……
「その、し、しなかったら、それはそれで問題視されますわ」
こんなこと言わせないでと心で叫びながら応えた。ジーク様に悪気はないし、むしろ気遣ってくださっているわ。そのお心は嬉しいけれどそれに甘んじるわけにはいかないのも確かだから……うう、嫌だわ、意識してしまったら恥ずかしくてジーク様のお顔が見られない……
「そういうことでしたら、すぐに湯あみの準備をしますね」
「エ、えりー?」
「さ、アリッサ様、一旦お部屋に戻りますよ」
「え? あ、ちょ……」
有無を言わさずエリーに自分の部屋に連れて行かれた。
「ちょっと、エリー」
ジーク様もいらっしゃるのに、勝手に決めるなんて越権行為と思われてしまうのに。
「アリッサ様、ほら、湯浴みしますよ。初夜なのですから」
「湯浴みはさっき……」
「何仰ってるんですか、初夜なのに」
初夜初夜連呼しないでほしいわ、こっちまで恥ずかしくなってくるじゃない……
「フリーダさん、ミアさん、お願いしますね」
「ええ、もちろんよ」
「私たちに任せて」
強気のエリーにフリーダたちも同意してあっという間に浴槽に追い込まれた。
「髪は洗います?」
「さっき洗ったからいいでしょう? 今から乾かしていたら遅くなってしまうわ」
「そうですよね。あんまり殿下を焦らしたらアリッサ様が大変なことになっちゃいますね」
「そうそう。随分我慢していらっしゃいましたから」
エリーにミア、何を言っているのよ……彼女たちの会話が気恥ずかしくて身の置きどころがないわ。
口も動くけれど手を止めない三人に手際よくしっかり磨かれてしまった。その後髪や肌に香油を塗られ、初夜用の夜着を着せられた。心配していた破廉恥なものではなく、ちゃんと袖もあって裾も長く、上質な絹で出来たそれに安堵する。ほっとしていたら「アリッサ様、違うものを期待していました?」と悪戯っぽい笑みを向けてきた。何なのよ、期待って。
「こういうのもありますよ」
エリーが出してきたのは、まさに物語の描写にあったままの薄い夜着だった。
「エリー、破廉恥だわ」
「ええ~でもこれ、商会では大人気なんですよ。殿下もきっとお喜びになられますって」
紹介でこんなものを扱っているの? しかも大人気って……信じられないわ。
「ジーク様は高潔な方だからそんなものは好まれないわよ」
「いえいえ、アリッサ様、殿下だって寝室ではただの男ですよ」
「エリー、さすがに不敬よ」
何てことを言うのよ! ジーク様はいつだって紳士だからそんなものに縁はないわ。そのまま私室に戻ろうとしたら「そっちじゃありませんよ」と言われて示されたのは……夫婦の寝室だった。わかってはいたけれど緊張感が一気に押し寄せて息が苦しくなってくる。こ、これから閨なのよね。うう、わかってはいたけれど……
「アリッサ様、ご武運を!」
声を抑えながらエリーが軽く手を振って私を見送った。今日だけはフリーダとミアが侍女として付くことになっている。要は初夜の見届け人なのだけど……ご武運って何よ? 戦場に行くわけじゃないのに。なんだか釈然としない私の前で、フリーダが夫婦の寝室の鍵を開けた。ここの鍵を開けるのは初めてだったわね。益々心臓が落ち着かなくなっていく……もう、エリーがあんなことを言うから余計に意識しちゃうじゃない!
フリーダの後について部屋に入って……息が止まった。ろうそくの灯りでほんのりと照らされた夫婦の寝室は思った以上に豪奢で、華やかなものだった。甘ったるい香りが鼻腔をくすぐる。その香りの正体は……ベッドの上に散らばった花々だった。そういえば、花を飾って祝う習慣がある国もあったわね。物語などで読む分には甘美で心躍るけれど、現実にやられると、直視出来ない恥ずかしさがあるわ……いやだわ、このまま回れ右をして戻りたくなってきちゃったわ……
「もうすぐ殿下がいらっしゃいますわ」
「そう」
心臓があり得ないほどに脈打っている。落ち着けと言い聞かせるけれどまったく効果がないわ。このまま止まってしまわないかしら……
「ねぇ、フリーダ」
「どうされました?」
「その……」
うう、聞きたいけど言葉が出てこない。早くしないとジーク様が来てしまわれるのに。
「ね、閨って、何をするのかしら?」
「え?」
「……え?」
フリーダが意外そうな目を向けてきた。そんなに驚くこと?
「その、予定を変えてこちらに来てしまったでしょう? だから、そういう教育を受けてなくて……」
普通は輿入れする前に母親や女性の親族から閨の心得などを習うのだけど、私は母との関係が悪かったし、頼れる大人もいなかった。それに、教育を受ける前にこちらに来てしまったのよね。こちらではそのような授業はなかったし……
「そ、そうでしたか。いえ、その通りですわよね……」
フリーダも戸惑っていたけれど、普通は母国で教育を受けてくるのが通例だから当然よね。
「わかりました。殿下に相談して参りますわ」
「ええっ、ジーク様に?」
「ええ。というか、他に相談する相手もいらっしゃいませんし……」
そう言われるとその通りなのだけど、ジーク様に知られるのはさすがに恥ずかしすぎるのだけど……
「や、やっぱりいいわ……」
「いえ、そういうわけには参りませんわ。アリッサ様のお身体にも影響することですから」
制止する私を振り切ってフリーダが出て行ってしまった。いやだわ、ジーク様はどう思われるかしら? 確か、痛いし血が出るのよね? そんなに大変なことだったの? だったらどうしようなんて思っていないでさっさと誰かに相談すべきだったわ。
意外にもフリーダは直ぐに戻ってきた。うう、ジーク様はどう思われてなんと仰ったのかしら……
「アリッサ様、殿下にお伝えしておきましたわ。もう大丈夫です」
「そ、そうなの? ジーク様は何て?」
「それは直接殿下からお聞きくださるのがよろしいかと」
フリーダったら……それは一番に避けたかったことなのに……! どんな顔でお会いしたらいいのよ? どうしたらいいの? ジーク様はどう思われたかしら? 頭の中が疑問符で埋め尽くされようとしているところで、ジーク様側の扉が開いた。ドクンと一層心臓が跳ねて口から出てきそう……お揃いの淡い色の夜着を着たジーク様がこちらに向かってきた。ど、どうしたらいいの? 何を言えばいい? こんばんはでいいのかしら? それとも、よろしくお願いします?
「ああ、待たせたな」
「い、いえ……」
気が付けば口の中がカラカラになっていた。しまったわ、お水の一杯も貰っておくべきだったかしら? そう思っている間にフリーダたちが頭を下げて出て行ってしまった……ま、待って、置いて行かないで――




