腕に巻かれた包帯の下は…
「王太子殿下、並びに王太子妃殿下、御入場にございます!」
騎士の朗々とした宣言を合図に、私たちは会場へ一歩を踏み出した。これから行われるのは婚姻式。国王陛下がいらっしゃる壇上に上がり、そこで陛下から祝福を受ける。貴族ならこの場で婚姻証明書に記名するのだけど、私たちの婚姻は同盟に絡んでいたため既に終えているから、これは国内外へ婚姻したことを宣言するための儀式なのよね。
ジーク様が私に合わせてゆっくりと歩いてくださったお陰で、小さな失態もなく壇上にいらっしゃる陛下の御前まで辿り着けた。それにしても、ドレスが重いわ……御前で一礼した後、もう一度頭を下げたその時……
「お待ちくださいませ!」
高く切羽詰まった声が厳かな沈黙を切り裂いた。頭を下げたままだけど誰の声かなんて意識する前にわかったわ。こっそりとその状態でため息をついた。後ろで人が動く気配がする。あの子と、その取り巻きかしら?
「何事ですかな、ヴァイラントの王女よ。儀式の最中で……」
「申し上げたいことがございます」
非難を多分に含んだ声が後を追った。宰相のフォルツ公爵の制止を振り切ってエルリカが言葉を続けた。ジーク様が頭を上げる気配を感じてそれに続く。振り返ると壇下に華やかに着飾ったあの子の姿があったけれど、その姿は異様だった。その原因は包帯でぐるぐる巻きにされた左腕だった。そのせいであの子の腕が二倍、いえ、三倍の太さになっている。もう、それだけで何をしようとしているのかが察せられて頭が痛い。兄はなにをやっているのよ……
「アリー、もういいか?」
頭上から私だけに聞こえるほどの囁きが下りてきた。申し訳ないわ、ジーク様にも随分と無理をおかけし、我慢していただいた結果がこれなんて……あの子を止められなかった兄に腹が立つけれど、さっさと手を打たなかった自分に一番腹が立つ。婚姻式に瑕疵をつけられたくないと、表沙汰にならないようにしてきた結果がこれだったのね。だったら……
「どうぞ、お好きなように。牢に放り込んでも構いませんわ」
貴族牢ではなく石牢でいいわよね。そこで暫く鼠とでも戯れていればいい。視界に第三妃の姿が入った。ドレスは間に合ったようで余裕を取り戻しているように見える。だったら気をつけなければ。
「何だ?」
鷹揚に陛下が先を促すとあの子が今にも泣きそうな儚げな笑顔を浮かべた。それだけで同情する者が現れる、あの子お得意のそれ。顔が綺麗なのはそれだけで得よね、などと思ってしまったのは現実逃避したかったからかもしれない。
「こちらをご覧くださいませ」
そう言ってあの子が左手首を右手で掴んで左手を差し出す。それだけの包帯が必要な怪我ならこの場に立ってなんかいられないでしょうに……
「この傷は昨夜、ジークベルト様のお部屋で負ったものなのです」
今にも泣きそうな悲しげな表情からでた言葉に、会場にどよめきが上がった。あの子ったら、その言い方……! 腹立たしいけれど、ここで私が出ると余計に調子に乗るわよね。今すぐ引っ叩いてやりたいけれど、そうなると私が悪者になってしまう。うう。我慢よ……拳に力を入れて怒りをやり過ごす。
「ほぉ、ジークベルトの部屋でとな?」
「はい。このような傷を負っては、わたくし、もうどこにも嫁げませんわ……」
そう言って涙を流し、取り巻きたちが慰める。この子の凄いところは自由自在に涙を出せることなのよね。まぁ、あの子の頭の中では悲劇の主人公なのでしょうけれど、現実との乖離が酷すぎる。もう、虚言癖持ちとして幽閉でいいんじゃないかしら?
「ファーレンのお義父様、ファーレンでは妃は何人も娶れると伺いました。どうかお願いです。わたくしを、いえ、わたくしもジーク様の妻としてお迎えくださいませ」
さめざめと涙を流して訴える姿に、参加者たちの表情が不審から同情に変わっていった。お義父様って……まだ姻族というだけなのに。それにしてもまずいわ、この流れは……
「エルリカ!」
会場内がエルリカに支配されつつある中、ようやく兄が現れた。まったくもう、何をやっていたのよ! こうなることは予想出来たでしょうに。
「エルリカ、止めるんだ」
「お兄様、どうしてお止めになるの? 私はもう傷物になってしまいましたわ。ジーク様に嫁ぐ以外の道がありませんのに……」
「それにしてもこんな場で言い出すことではないだろう。ファーレン国王陛下、会場の皆様、場を乱して申し訳ございませんでした。さぁ、下がるんだ」
「嫌です!!」
肩を掴んで下がらせようとする兄の手を振り払ってエルリカが数歩引いた。強い拒絶に兄の手が宙で浮く。
「どうして? どうしてですの、お兄様!? お兄様は私が誰にも嫁がずに一生を終えろと仰いますの? 酷い……酷いですわ!」
とうとう顔を覆ってその場に座り込んでしまった。ああ、もう、何をやっているのよ。
「怪我、ね」
泣き崩れたエルリカを取り巻きの令息たちが慰め、それを貴族たちが奇異な目で見つめる中、ジーク様がうんざりした表情で吐き捨てるように言った。その声はけっして大きくはなかったけれど、エルリカにも聞こえたようでおずおずと見上げてくる。その目に媚びが見えて苛立ちが募った。
「ヘルベルト殿、妹御の怪我とやらをご覧になられたか?」
「はい。ですが、お気に止められるようなものではございません。数日で消えるようなものです」
「ひ、酷いわ、お兄様……絶対に痕が残ってしまうものなのに……」
「いえ、掠り傷です」
涙を流しながら訴えるけれど、兄はあの子の主張を正面から否定した。そんな風にされたことがなかったのか、あの子が目を丸くして兄を見上げている。
「お、お兄様……」
呆然と兄を見上げたあの子に、取り巻きたちも動けない。いくらエルリカに心酔していても正面から王太子に逆らうなんて出来ないわよね。
「傷を見せていただこうか」
「……え?」
「どれほどの傷か、見せろと言ったのだ。怪我が本当だと言うのなら見せられるだろう?」
ジーク様の問いにあの子の声が僅かに引き攣った。やっぱり、きっと大したことがないのでしょうね。
「そ、そんな……こんな場では、さすがに……」
「ほう? 見せられないと? だったら怪我が本当かどうかも疑わしいな。俺は何度も戦場に出て怪我を負ってきたが、そんな包帯の撒き方をしたことは一度もなかった」
「え……」
どうやら大袈裟に見せようとしたのでしょうけれど、まったくその通りだわ。だからすぐに嘘だとわかったのだけど、怪我をしたことがない者なら騙されるかもしれないわね。
「ヘルベルト殿、頼んでよろしいか?」
「承知した」
兄がエルリカに近づいたけれど、その分あの子が下がる。
「エルリカを抑えろ」
「え? お、お兄様?」
さすがに王太子の命令に背くことも出来ず、令息たちは渋々ながらもあの子の肩や腕を抑える。抵抗したけれど、怪我を見せねば嘘だと見なされると告げれば大人しくするしかなかった。そして……
「あれが、怪我か?」
「そのようですわね……」
エルリカの腕にあったのは、小指の長さほどのみみず腫れだった。怪我って……いえ、確かに赤くはなっているし、化膿することが全くないとは言い切れないけれど……
「こっ、これはジーク様の部屋で逃げ回っている間になったもので……」
「逃げ回るだと?」
「どういうことだ?」
「まさかジークベルト様が?」
あの子の言い訳に会場内が再び騒めいた。その言い方……いえ、決して嘘ではないけれど……これじゃジーク様があの子を襲ったように取られてしまう。まったく、こんなところだけは頭が回るのだから腹立たしいわ。
「誤解があるようだから言っておく。エルリカ王女が俺の部屋に来たのは間違いない」
ジーク様が会場に向かって声をあげると、ざわめきが一層大きくなっていった。
「だが、俺はその部屋にはいなかった。俺とアリッサの間に入り込もうとする者が俺の部屋に押しかけて来ようとしているとの情報があったため、昨晩は夫婦の寝室で過ごした。エルリカ王女を追いかけていたのは俺の部屋の警備を任せていた軍用犬だ」
明瞭なジーク様の声が会場内に響き渡る。
「ぐ、軍用犬だと?」
「では、あの王女は自ら殿下の部屋に?」
「だったら自業自得ではありませんの?」
エルリカへの同情が急速に冷めて疑念へと変わっていき、エルリカの表情が青褪めていった。
「この件に関しましては、私が承知しております。殿下のお部屋に犬を連れて参ったのはわしとその部下ですからな」
ブレンメ公爵の野太い声が追従する。軍歴が長くジーク様の後ろ盾でもある彼の言葉の重みは絶大だった。彼が愛犬家で様々な犬を飼い、また軍用犬を重用している張本人でもあるからかしら。
「俺が妻にと望むのはアリッサ一人だ。ああ、先に言っておこう。俺は第二妃を迎える気はない。俺の妻は生涯アリッサ一人だ」




