静謐の先にあったもの
「ジーク様、よいところに。これもきっと神のお導きですわ!」
鈴を鳴らしたような可憐な声が一層弾み、護衛を置いて駆けてきたけれど……すっとジーク様が半歩進み私を守るように緩く抱き寄せ、その間に近くにいたラーシュとレオが前に出た。
「これ以上、王太子ご夫妻にお近づきになられませぬよう」
レオが唸るような声を上げた。その声は別人のように低く、手は剣の鞘にあり今すぐにでも抜刀出来る体勢を取る。その姿にエルリカが小さな悲鳴を上げて足を止めた。近くにいた令息がそっと慰める様に肩を抱く。
「な、何だ貴様は!」
「こちらにいらっしゃるのはヴァイラントの第三王女殿下でいらっしゃるぞ」
あの子の護衛騎士が気色ばんで反論し、あの子を守る様に囲った。彼らは以前からあの子の取り巻きをしている令息たちね。こんなところまで連れて来たなんて意外だったわ。
「な、何を……ジーク様、助けてください。この人たちが……!」
取り巻きの存在に気をよくしたらしいエルリカがか細い声で助けを求めた。この状況でジーク様に助けを求めるなんて理解し難いわ。あんなに名を呼ぶなと言われていたのに。
「ヴァイラントの王女殿下、兄君の忠告をお聞きになりませんでしたか?」
ラーシュが穏やかな声で語りかける。レオよりも丁寧な物言いだけど声には温かみを感じなかった。
「あ、あれは……あんなの、私を妬んだお姉様の嘘ですわ! 私は正当なヴァイラントの王女、国王夫妻の娘です。ジーク様はお姉様に騙されているのです!」
せっかくのラーシュの気遣いも無駄になってしまったわね。自らあの事実を口にしてしまうなんて……もっとも、周りにいる令息たちも同じ思考回路のようで動じていない様子からして、よくわかっていなさそうだけど。
「目をお覚ましになって! ジーク様に相応しいのはわたくしですわ!」
必死にジーク様に話しかけるけれど、レオとラーシュが怖いのか、あの子は周りの令息に囲まれたまま訴えかけた。だけど……
「身持ちの悪い女に興味はない」
ジーク様が発した言葉はあの子の望みには程遠かった。
「……え?」
「まだ成人もしていないというのに男を幾人も侍らすような身持ちの悪い女には興味がないと言ったのだ。王太子妃、いずれは王妃になる者に求められるのは厳しい貞操観念、そんな基本的なことも理解していない者を軽蔑することはあっても愛することはない」
反論の余地のない一言に胸がすっとしてしまった。だけど仰る通りよね、托卵を防ぐためにも王子妃となる者には強い貞操観念が求められる。私だって何人もの護衛や侍女が常に見張っているわ。今は式の前なのもあって警備が一層厳重になっている。
「そ、そんな……み、皆様は、私を心配して……」
「侍女の一人も付けぬなど、男狂いの王女と噂されても文句は言えぬ迂闊な行動だ。いい加減、自身が周りにどう見られているか気にされた方がよかろう」
親しみなど欠片もない、それどころか侮蔑とも取られかねない物言いだったけれど、誰もジーク様に言い返さなかった。当然よね、ヴァイラントの令息は皆伯爵家の出、ジーク様に話しかけるだけでも不敬に問われかねないから。そして、ジーク様の言葉の内容を少しずつ理解してきたのか気まずそうに俯いたり視線を彷徨わせたりしている。
そんな中、エルリカだけは信じられないものを見るようにジーク様を見つめていた。何度も拒絶されているのにまだ受け入れられないのね。この子の頭の中はどうなっているのかしら……
「ジーク様……」
「名呼びを許した覚えはない。不愉快だ」
冷たい一瞥を放つと、肩を抱く腕に力が入った。
「さぁ、アリー、行こう。あまり時間がないのでな」
一転して甘い声で囁くと方向を変えて歩き出したので身を任せて歩を進めた。ちらとあの子の様子を窺うと、スカートを握り締めてこちらを見ていた。あれは諦めている風ではないわね。泣き喚かないだけ成長したというべきか、それとも……
「ヘルベルト殿に抗議文を送っておく」
「申し訳ありません、兄妹が重ね重ね……」
「アリーのせいではないだろう? あの者たちのために謝らないでくれ。俺の中では兄妹の事実も消し去りたいんだから」
そ、それって……だけど、その言葉に心が軽くなった。そうね、私ももう兄妹だと思いたくない。だって最初に私を拒絶したのはあちら側なのだから。
幸いというべきか、エルリカは追って来なかった。王宮の庭の向こうに行くと馬車が止まっている。こんな場所に馬車が? 疑問に思う私をエスコートしてジーク様は真っ直ぐに向かっていった。
「歩くには距離があるのでな」
そう言って馬車に乗せられた。こぢんまりとした馬車ではジーク様が窮屈そう。向かい合わせに座ると膝がぶつかりそうで心臓が高鳴った。御者台にはレオとラーシュが乗ったようね。「行ってくれ」と声をかけると馬車は静かに進みだした。
向かった先はまるで森の中のように木々が生い茂り、ひっそりとしていてとても王宮の敷地内とは思えなかった。木漏れ日が地面に様々な模様を描く。歩いても気持ちがよさそうだわ、こんな場所があったのね。それにしても……正装で一体どこへ向かうおつもりなのかしら。
「ああ、こうしてみると本当によくお似合いだ」
そっと手が伸びて下ろしている髪をすくわれた。一月前から念を入れて手入れされた髪は見違えるように艶々になっている。神経などないはずなのにジーク様の手のぬくもりが伝わってくる気がする……
「あの、素敵なドレスをありがとうございます」
もう何着目なのかもわからないほどにたくさんいただいているけれど、今着ているこれは夜会や舞踏会に出るドレスに引けを取らないほど手がかかっている。
「俺が贈りたかっただけだ、気にしないでくれ」
そう言って向けられる瞳は柔らかく甘く、あの子に向けられたものとは別物だった。不思議な感じだわ、いつもこんな目を向けられていたのはあの子だったから。自分がそんな目を向けられる日が来るなんて思いもしなかったもの。
「はぁ、式まであと五日か。長いな……」
「ふふっ、忙しくて毎日があっという間ですから、すぐにその日になりますわ」
盛大にため息をつかれたけれど、半月ほど前から一緒に過ごす時間が取れないくらいには忙しい。私はまだ髪や肌の手入れなどがあるし公務もないけれど、ジーク様は連日各国の賓客の対応に追われている。そのせいかちょっとお疲れのようにも見える。
「ああ、アリーの花嫁姿が楽しみだな。あの衣装を纏ったあなたは綺麗だった。当日はさらに美しくおなりだろう」
先日の衣装合わせでもジーク様は何度も綺麗だ、女神のようだと褒めてくださったわ。そんな風に褒められるのに慣れていなくて戸惑ったけれど、何度も甘く繰り返されて今までに感じたことのない多幸感に包まれた。それに、対になるあの衣装をお召しになったジーク様もとても素敵だったわ。今の衣装もとても素敵だけど。こんなに素敵な方が私の夫なのね……なんだかまだ実感が湧かないわ。
「ああ、もう着くか」
車窓を覗き込んだジーク様が呟いた。私からは森しか見えないけれど……この格好で訪問するってことはどなたかの離宮が? 緩やかに馬車が止まり、御者台の二人が下りる気配がした。誰かが待っていたのか微かに会話が聞こえる。一体……ジーク様を見上げると柔らかく笑みを浮かべて小さく頷いた。降りたらわかるのかしら? 扉が開く。その向こうには建物が見えた。やはりどなたかの離宮かしら。先に降りたジーク様の手を借りて馬車を下りた。
降り立った先にあったのは二階建ての建物だった。離宮にしては小さいけれど、上品でありながらも格も感じられて荘厳という言葉が似合う。壮年の男性とその向こうには王家の騎士の姿も見えるけれど離宮にしては人の気配が感じられない。
「ジークベルト様、お待ちしておりました」
「ああ、世話をかけるな」
「勿体ないお言葉にございます」
出迎えた男性は落ち着きがあってひとかたならぬ威厳を感じた。そしてここは静謐という言葉がこれ以上ない程に相応しく感じられた。王宮でもこれほど静かな威風を感じられる場所はないわ。ここって、もしかして……
「アリー、彼はここを管理するズィリック卿だ。ズィリック卿、妻のアリッサだ」
「アリッサです。初めまして」
「ズィリック=ベスターにございます。王太子妃殿下に拝謁を賜り光栄至極にございます」
静かな声は臆することなく、年齢の割には張りがあった。私たちの祖父の世代に当たられる年齢だけど背も真っすぐで所作に僅かな隙も無いわ。彼がただならぬ人物だとそれだけでわかる。
「この方は俺の教育係を務めたこともある。多分我が国でもっとも礼儀作法にも精通されている御仁だ」
ファーレンで一番礼儀作法に? 嫌だわ、今の挨拶は素っ気なかったかしら?
「さ、行こうか」
手を取られて再び歩き始めた。向かう先は建物ではなくその左手の方で、その先にあったのは……木々が若葉を揺らし花々が咲き乱れる美しく整えられた大きな庭が広がっていた。そのところどころに様々な彫刻が施された石が静かに佇んでいる。ジーク様がその一つの前で足を止めた。そこにあったのは美しく繊細な彫刻が施されたまだ新しい石の前だった。
「ジーク様、ここは……」
「俺の、母が眠っている」




